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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2011/10/20 (木) 爺さん


僕はタイガースのファンでもある
特にこの人が好きだ

「戦後初の優勝監督」となった藤本の爺さんやけど、この人は金田監督(正泰氏=第11代、17代監督)の時にヘッド兼投手コーチとして、阪神に入ってこられた。昭和35年(1960年)やったな。僕が25勝(19敗)した年や。担当コーチやったから、我々投手陣とよく話をしたよ。

 戦前は巨人の監督として“第1次黄金期”を構築し、戦後は阪急の監督もされた。そんな藤本さんが何でライバル球団に入ってこられたのか、僕らにはわからんけど、当時の野田誠三オーナーと戸沢一隆球団社長の間で、何らかのつながりがあったんやろう。

 自身が早稲田で投手をやってたもんやから、そら能書きがすごかった。「ピッチャーいうのはな、体をねじったとき、内腿で○○タマを挟み込んで投げるんや。それくらい腰をうまく使わんといかん」。そんなことあらへんがな!!「球を放るものがタマ挟んでどないすんのや」と、皆で言うとった。ほんとにええ加減なもんやったで(笑)。

 爺さんで面白い話があんのや。夏の暑い時、東京へ遠征に行くやろ。宿舎やった旅館の8畳の部屋に、選手が4人寝るわけよ。クーラーなんてない時代。扇風機を回しても涼しくならんから、窓は開けっ放しや。そんな部屋に、外で酒を飲んできた石川緑(1962〜67年)という投手が夜遅くに帰ってきて「イーチャンやろう」と麻雀することになった。

 僕らの部屋の離れに、麻雀好きの古川(啓三氏=1959〜61年)という捕手が寝ていたんで、彼を呼びに緑が行った。その部屋には、当時ヘッドやった青さん(青田昇氏=故人)と藤本の爺さんもおった。酔った勢いで部屋に入った緑は、古川を足でつついて「おい、イーチャンいくぞ」と起こす。ところがや。なんぼやってもウンともスンとも言わん。「おかしいな」と焦った緑、よく見ると爺さんやった…。

 真っ青な顔して帰ってきて「俺、まずいことをやっちゃった。酒覚めちゃったよ」とこうや。次の日。青さんが緑を呼びつけた。

 青田「こら緑!!お前きのう何をガタガタやったんや?」

 石川「へ、ヘマやっちゃったんです」

 青田「爺さんが俺に言うんや。『夜中酒を飲むのはええけど、人が寝ている部屋に入ってきてガチャガチャするな、と言うとけ』とな」

 そんだけや。直接怒ることもなかった。あの人は細かい事は気にせんかったからね。遠征時の門限を、ヘッドの青さんが聞いたときも「子供みたいなことを言うな。出ていきたいやつは出て行ったらええやないか」と問題にせんかった。ああ言われたら、逆に出ていけんわな。

 


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 ■ 2011/10/06 (木) 三原脩と添田唖蝉坊


初めに言っておくが、この二人には何の共通点も接点もない
ただ二人とも、僕の好みに合った人間であるというだけだ

三原 脩(1911〜1984)
大地主の末っ子として何不自由なく育った。香川県立丸亀中学校(旧制。以下同じ)で野球にのめり込み、官吏になることを望んだ父親の意向で香川県立高松中学校に転校させられたが、高松中の校長は文武両道を推進しており、野球部入部を条件に転入を認めた。高松中では遊撃手として梶原英夫投手(のち東京帝大)らと共に第14回全国中等学校優勝野球大会(夏の甲子園)に出場し、準決勝まで進出したが雨天コールドで敗退した。野球部のマネージャーを務めたのが後に日本社会党委員長となった成田知巳だった。

卒業後、第四高等学校を受験するが、中学の先輩がいた早稲田大学にスカウトされ入学。1年生時から二塁手として活躍する。特に1931年春季の早慶戦2回戦で、投手・水原茂を相手に敢行した勝ち越しホームスチールは、早慶戦史に名を残している[2]。リーグ通算67試合出場、231打数68安打、打率.294。

しかし1933年、結婚を機に野球部を退部(当時早大野球部では、学生結婚は好ましく思われていなかった)、大学を中退し帰郷してしまう。故郷ではぶらぶらしていたが、大学時代の仲間に誘われ大阪へ転居。全大阪でプレーをした。1934年6月6日に職業野球契約選手第1号として大日本東京野球倶楽部に入団、1936年春季からのリーグ戦には東京巨人軍の選手兼助監督として参加。俊足・堅守の選手だったが、応召で脚を負傷したこともあってわずか実働4年で現役引退。この間、1937年の連盟選手権試合(当時は前後期制で、前期と後期の優勝チームが年度王者をかけて対戦)対大阪タイガース戦の試合終了後に、判定に不満をもった藤本定義監督と共に審判室に抗議に入り、三原がバットを持っていたために連盟から出場停止処分と罰金が課された。

引退後は、報知新聞で記者として活動したが応召しビルマ戦線で従軍。

太平洋戦争後は読売新聞(報知新聞から籍が移されていた)に記者として勤務していたが、1947年6月3日、同年シーズン、成績不振に悩まされていた、巨人の監督に就任することを球団側と合意、同6月6日、大学の後輩の中島治康監督に配慮し、助監督、技術顧問に就任した。9月には総監督に就任し、実質的に指揮権を握った。この年巨人は5位。翌1948年は全試合で三原が指揮をとり2位。1949年に試合中に南海の選手を殴打する事件(三原ポカリ事件)を起こし無期限の出場停止処分に処される。後に救済運動があり出場停止100日に減じられ、同年7月23日より復帰(三原が出場停止の間、チームの指揮は監督の中島がとった)。三原の離脱があったもののチームは優勝を果たした(巨人の戦後初優勝であり、プロ野球1リーグ制最後の優勝)。

1949年には水原がシベリア抑留から復帰し、ファンや選手から水原のプレーを期待する声が高まった。しかし、総監督の三原は水原を起用することはなかった。だが水原は巨人の功労者であると、チーム内から批判が起きた。シーズン終了後に、巨人選手たちが三原を排斥して水原を擁立しようとするいわゆる「三原監督排斥騒動」が起きる。球団はこれをみて「総監督・三原、監督・水原」の人事を発表し、指揮権は水原が握ることになった。監督に就任した水原は、このとき、三原の監督交代には否定的だったが、一方で「三原君は副代表にどうですか。とにかく僕に監督ということなら、一本でやらせてください。」とも球団に提案している[3]。総監督になった三原には球団から仕事が与えられることはなく、退屈しのぎに日がな碁を打つ日々をすごしていた。

同年オフ、西鉄クリッパーズに移籍していた元巨人の川崎徳次の仲介で、西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併して出来た新生球団・西鉄ライオンズの監督に就任。この際に、総監督時代の悶々とした気持ちを晴らすため、西鉄を強大なチームに育て上げて、日本シリーズで巨人と対戦して負かそうと誓った。三原は、球界屈指のスター大下弘の獲得に成功すると豊田泰光、中西太、稲尾和久ら若手有望選手を相次いで獲得して、大下を軸とするチーム作りを進めた。

1954年にチーム初のリーグ優勝を果たしたが、セ・リーグは中日ドラゴンズが巨人を抑えてリーグ優勝を果たし、この年の日本シリーズでは巨人との対戦はならなかった。シリーズは中日に3勝4敗で敗れた。

そして、1956年に2年ぶりに優勝すると、対戦相手は水原率いる読売ジャイアンツとなった。この両者の戦いはマスコミから「巌流島の決闘」と評されるほどの注目を集め、4勝2敗でついに念願の「巨人を破っての日本一」を成し遂げた。以後1958年まで3年連続で巨人と日本シリーズで対戦し、いずれも三原率いる西鉄に軍配が上がる。

特に1958年の日本シリーズは、西鉄が第1戦から3連敗しいきなり王手をかけられるが、第4戦以降は稲尾和久が連投して好投し、ついに4連勝して逆転日本一を勝ち取った。日本シリーズ史上初、ワールドシリーズにも前例がない「3連敗からの4連勝」であり、この年の両者の戦いぶりは日本プロ野球の歴史に残る名勝負と称えられる。

しかし、三原は西鉄を退団して他球団への移籍を目論んでいた。そのとき大洋ホエールズが三原の意向を掴み、監督就任寸前までこぎつけたが、報知新聞がこれをスクープし、結局西鉄に残留する。しかし1959年は4位に低迷して同年退団し、大洋監督に就任した。当時大洋は1954年から59年まで6年連続最下位であり、万年最下位の大洋に名将の誉れ高い三原が監督に就任したことは大きな話題を呼んだ。そして、水原率いる巨人とペナントレースで闘うことになりマスコミから「巌流島の戦い再現」と喧伝された。

1960年は開幕から6連敗を喫し、エース秋山登もいきなり戦線離脱する苦しい幕開けだったが、すぐさま選手起用が冴え渡り、巨人と優勝争いを繰り広げた。前年1959年には0勝に終わった権藤正利をリリーフ専門で起用して復活させる。二塁手に新人の近藤昭仁を起用し、遊撃のレギュラーだった麻生実男は代打で重点的に起用し、トレードで近鉄バファローズから鈴木武を獲得して遊撃に起用し、内野の守りを固めた。三原はこれらの選手を「超二流選手」と呼び、この「超二流選手」たちを巧く組み合わせる采配を取り、1点差試合を33勝17敗という驚異的な数字を挙げていった。そして巨人を下して球団史上初のリーグ優勝、巨人監督の水原はまたしても三原に煮え湯を飲まされる結果となり、優勝を逃した責任を取って退任した。

日本シリーズは「ミサイル打線」との異名を持つ大毎オリオンズとの対戦となった。下馬評では圧倒的な「大毎有利」であったが、初戦からの4連勝(全て1点差試合)で下して日本一。前年度最下位から見事に日本一に輝いた。また監督として3球団での優勝はプロ野球史上初の快挙であった(2009年現在、三原の他にはこのとき大毎の監督だった西本幸雄のみ)が、三原にとっても人生で最高のシーズンだったという。この功績が評価され、スポーツ界では初めて菊池寛賞を受賞した(1961年)。その後三原が指揮をとった1962年、1964年と、大洋は阪神タイガースと熾烈な優勝争いを演じた。

1968年には4年連続最下位だった近鉄バファローズの監督に就任。1年目4位、2年目には阪急ブレーブスとペナントを争い2位に。1970年限りで退任。近鉄監督時代には永淵洋三を投手・野手の二刀流で起用した後野手に専念させて首位打者を獲得させたほか、小川亨を指導した。

その後、1971年にヤクルトアトムズ監督。1年目最下位、2年目の1972年には4位、3年目の1973年は4位。優勝はできなかったが入団したばかりの若松勉の打撃センスを見抜き1年目からレギュラーに抜擢、三原と共にヤクルト入りした中西太打撃コーチとのマンツーマン指導の甲斐もあり翌1972年には早くも首位打者になるなど、後に若松が大打者としてはばたくきっかけを作った。

1973年11月、日本ハムによる日拓ホームフライヤーズ買収に関与し日本ハムファイターズの球団社長に就任し、娘婿の中西を監督に据えた。しかし1974年、75年と2年連続最下位に終わり、後任に大沢啓二を招聘。大沢はBクラスだったチームを優勝を狙えるチームにまで育て上げ、1981年には前身の東映時代以来19年ぶりにリーグ優勝を果たした。この間チームの体質改善を図り東映時代の主力を次々に放出させ、リーグ優勝時に残っていたのは宇田東植、千藤三樹男、岡持和彦(宇田は1981年オフに阪神タイガースに移籍、千藤は1981年の優勝を経験後引退)だけだった。1978年の江川事件では、巨人を除く11球団で最後まで江川卓の巨人入団に反対したが、大勢を変えることはできなかった。

選手の調子・ツキを見逃さない慧眼の持ち主で、時に周囲の予想を超える好采配と数々の逆転劇で「三原魔術」と驚嘆を受けた。監督としての3,248試合出場はプロ野球記録である。また監督としての5球団在籍も藤本定義、石本秀一と並ぶプロ野球タイ記録である(監督代理を含めず)。1983年、野球殿堂入り。1984年2月6日、糖尿病の悪化による心不全で死去。享年72。長女・敏子は中西太の妻であり、三原は中西の義父にあたる。

添田 唖蝉坊(1872〜1944)
神奈川県の大磯の農家の出で、四男一女の三番目の子として生まれる。

叔父が汽船の機関士をしていた関係で、海軍兵学校を志願して上京したが、受験勉強中に浅草の小屋掛芝居をのぞいたのがきっかけで、その世界にのめり込む。海軍兵学校には入学せず、汽船の船客ボーイになり、2年で挫折。以後、横須賀で土方人夫、石炭の積み込みなどの仕事に従事していたが、1890年(明治23年)、壮士節と出会う。当時は政府が廃藩置県、地租改正、学制、徴兵令、殖産興業などの政策を実行している最中で、自由民権運動も盛んな時代であり、「オッペケペ」で有名な川上音二郎らの壮士芝居も、この時代のものである。

唖蝉坊は、最初の演歌といわれる「ダイナマイト節」を出した青年倶楽部からその歌本を取り寄せて売り歩いたが、のち政治的な興奮が冷めていくと、政治批判ではない純粋な演歌を目指して、自身が演歌の歌詞を書くようになる。唖蝉坊が最初に書いたといわれているものは、「壇ノ浦」(愉快節)、「白虎隊」(欣舞節)、「西洋熱」(愉快節)などで、1892年(明治25年)の作である。これ以降、「ノンキ節」、「ゲンコツ節」、「チャクライ節」、「新法界節」、「新トンヤレ節」と続く。1930年(昭和5年)に「生活戦線異状あり」で引退するまでに182曲を残したという。[要出典]

1901年(明治34年)に結婚し、本所番場町に居を構えた。翌年長男の添田知道(添田さつき)が生まれる。この頃、友人と始めた「二六新報」がうまくいかず、茅ヶ崎に引っ込むが、「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった「ラッパ節」が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行する。幸徳秋水・堺利彦らとも交流を持つ。こうしたことがきっかけで、堺利彦に依頼を受け、「ラッパ節」の改作である「社会党喇叭節」を作詞。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になるなどし、その演歌は、社会主義伝道のための手段になる。

1910年(明治43年)、妻タケが27歳で死去。唖蝉坊は悲嘆して、知道の妹は他家に養子にやられる。やがて唖蝉坊は、当時の有名な貧民窟であった下谷山伏町に居を定めた。なおここは、一軒が四畳半一間、それが十二軒ずつ四棟、計四十八軒ならんでいたので、「いろは長屋」と呼ばれていた。

その後、全国行脚をしながら、屑屋の二階に居候。そこで死去した。浅草、浅草寺の鐘楼下に添田唖蝉の碑が、添田知道筆塚と共にある。





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38才の男 三原 脩 は超名監督 グラウンドで結果を出せば私生活はとやかく言わない指導 中西を気に入って娘婿にした (11/10/14 21:49)


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