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無色の妄想日記

タイトルを変更しました。

現在、福島県郡山市に仮寓させていただいている。
ありがたいことです。

旅をしている時の状況が時に思い出される。泊まる当てもなく、地図を片手にひたすら歩いた。雨の中、強風の中、雪降る中、そして、暴風雪の中。ひたすら歩いた。歩いている時には不思議に恐怖感や切迫感は無かった。何とかなるという気持ちですね。

今、雨、露、雪、風を凌げる部屋を提供していただいている。このことがどれほど嬉しい事か。実感している。

残された時間がいくらほどあるかは判らないが、残された時間を、自身の身魂を磨くために使おうと思う。スピリチュウアルを学んできているのだから、自身が信じる道を進む。    ただ・・・それだけ。

 ■ 2016/04/23 (土) 閑話休題


興味深い本を読んだ。

伊藤忠彦 著 「宇宙が味方する生き方」 p186

・・・・略。

聖書の中でも、まず聖書の言葉を読んで、次に神の力を信じてその言葉を実行せよと教えています。しかし、残念ながら現在の教会の教えは、信仰のみで救われるとするものがほとんどです。これは、教義を理解するだけでよいとするものであり、キリストの贖罪によって自分の罪もすべて帳消しになり、キリストの憐れみによって天界に入れられるとする考えです。でも、人を赦すこともなく、隣人愛を実行することもなく、「信じるだけで救われる」というのが本当の信仰と言えるでしょうか。私は疑問に感じざるを得ません。楽な信仰は人間には魅力的ですが、それが神仏の恵みというなら、中世のローマ教会が免罪符を買えば天国に入れるとしたのと同じようなものです。

信仰とは、理性や良心によって自己の中にある欲念や業を克服し、無私の愛の人につくり変えられることを目的としているのであり、決して楽な道はありません。あるとすればそれはすべてまやかしだと思います。

すなわち愛の実践をしようとして、それに抵抗する自分を見出し、神に助けを求めることこそが信仰だと私は思います。それでなければ神と人が連結できないからです。聖書にもそのことを示す記述があります。

「狭い門から入りなさい。滅びにいたる門は広く、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです」(マタイ伝七章十三・十四節)
・・・略。

引用終わり。

伊藤さんはクリスチャン。
「シルバーバーチの霊訓」の知識を選択した私としては、中には「?」の箇所がありますが、今まで妄想日記でキリスト教教会を、信者たちを非難してきた私としては納得できるものもあります。特に、引用させていただいた内容は、普段私が考えていることと同じです。クリスチャンの中にも、このような正当?とも思える考えを持っている人もいるのだと驚いています。

贖宥状(免罪符)

ウッキペデアより引用。
元来、キリスト教では洗礼を受けた後に犯した罪は、告白(告解)によって許されるとしていた。西方教会で考えられた罪の償いのために必要なプロセスは三段階からなる。まず、犯した罪を悔いて反省すること(痛悔)、次に司祭に罪を告白してゆるしを得ること(告白)、最後に罪のゆるしに見合った償いをすること(償い)が必要であり、西方教会ではこの三段階によって初めて罪が完全に償われると考えられた。古代以来、告解のあり方も変遷してきたが、一般的に、課せられる「罪の償い」は重いものであった。

キリスト教に限らず世界の多くの宗教に、宗教的に救済を得たいなら善行や功徳を積まなくてはならないとする「因果応報」や「積善説」という考え方がある[1]。カトリック教会は、救われたい人間の自由意志が救済のプロセスに重要な役割を果たすとする「自由意思説」に基づいた救済観を認め、教会が行う施しや聖堂の改修など、教会の活動を補助するために金銭を出すことを救済への近道として奨励した[1]。
贖宥状はもともと、イスラームから聖地を回復するための十字軍に従軍したものに対して贖宥を行ったことがその始まりであった。従軍できない者は寄進を行うことでこれに代えた。

ボニファティウス8世の時代に聖年が行われるようになり、ローマに巡礼することで贖宥がされると説かれた。後にボニファティウス9世当時、教会大分裂という時代にあって、ローマまで巡礼のできない者に、同等の効果を与えるとして贖宥状が出された。これはフランスなどの妨害で巡礼者が難儀することを考えての措置であった。その後も、様々な名目でしばしば贖宥状の販売が行われていた。
教皇レオ10世がサン・ピエトロ大聖堂の建築のための全贖宥を公示し、贖宥状購入者に全免償を与えることを布告した。中世において公益工事の推進のために贖宥状が販売されることはよく行われることであったが、この贖宥状問題が宗教改革を引き起こすことになる。

宗教改革がヨーロッパ全域の中で特に神聖ローマ帝国(ドイツ)で起こったことには理由があった。ドイツで最も大々的に贖宥状の販売が行われたからである。この大々的な販売は当時のマインツ大司教であったアルブレヒト(ドイツ語版、英語版)の野望に端を発していた。彼はブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の弟であり、初めマクデブルク大司教位とハルバーシュタット(英語版)司教(en:Bishopric of Halberstadt)位を持っていた。アルブレヒトは兄の支援を受けてさらに、選帝侯として政治的に重要なポストであったマインツ大司教位も得ようと考えた。しかし、司教位は本来1人の人間が1つしか持つことしかできないものであった。

アルブレヒトはローマ教皇庁から複数司教位保持の特別許可を得るため、多額の献金を行うことにし、その献金をひねり出すため、フッガー家の人間の入れ知恵によって秘策を考え出した。それは自領内でサン・ピエトロ大聖堂建設献金のためという名目での贖宥状販売の独占権を獲得し、稼げるだけ稼ぐというものであった。こうして1517年、アルブレヒトは贖宥状販売のための「指導要綱」を発布、ヨハン・テッツェル(ドイツ語版、英語版)というドミニコ会員などを贖宥状販売促進のための説教師に任命した。アルブレヒトにとって贖宥状が1枚でも多く売れれば、それだけ自分の手元に収益が入り、ローマの心証もよくなっていいこと尽くしのように思えた。

アルブレヒトの思惑通り、贖宥状は盛んに売られ、人々はテッツェルら説教師の周りに群がった。しかし、義化の問題に悩みぬいた経験を持っていた聖アウグスチノ修道会員マルティン・ルターにとって、贖宥状によって罪の、果たすべき償いが軽減されるというのは「人間が善行によって義となる」という発想そのものであると思えた。しかし、そのときルターが何より問題であると考えたのは、贖宥状の販売で宣伝されていた「贖宥状を買うことで、煉獄の霊魂の罪の償いが行える」ということであった。本来罪の許しに必要な秘跡の授与や悔い改めなしに贖宥状の購入のみによって煉獄の霊魂の償いが軽減される、という考え方をルターは贖宥行為の濫用であると感じた(テッツェルのものとしてよく引用される「贖宥状を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がる」という言葉は、この煉獄の霊魂の贖宥のことを言っているのである)。

この煉獄の霊魂の贖宥の可否についてはカトリック教会内でも議論が絶えず、疑問視する神学者も多かった。ルターはアルブレヒトの「指導要綱」には贖宥行為の濫用がみられるとして書簡を送り、1517年11月1日、ヴィッテンベルク大学の聖堂の扉にもその旨を記した紙を張り出し、意見交換を呼びかけた(当時の大学において聖堂の扉は学内掲示板の役割を果たしていた)。ルターはこの一枚がどれほどの激動をヨーロッパにもたらすかまだ知らなかった。これこそが『95ヶ条の論題』である。ルターはこれを純粋に神学的な問題として考えていたことは、論題が一般庶民には読めないラテン語で書かれていたことからも明らかである。しかし、神聖ローマ帝国の諸侯たちの思惑によって徐々に政治問題化し、諸侯と民衆を巻き込む宗教改革の巨大なうねりの発端となった。

カトリック教会はヨーロッパ諸国に広がった宗教改革の動きに対し対抗宗教改革を行い、綱紀粛正を図ったが、トリエント公会議の決議により、金銭による贖宥の売買は禁止されることになった。
なお、贖宥状の金銭での売買は禁じられたが、発行そのものは禁止されておらず、以後も行われた。


名前

内容



 ■ 2016/04/23 (土) 言葉と感性と民族性と土地


河合隼雄 著 「日本人の心を解く」より引用

日本神話における中空構造
三人兄弟の一番目と三番目は重要な役割を演じるけれども、二番目の兄弟について何も触れられていない。
この中心が何もしないという構造。
引用終わり。

確かに、古事記などを読んでいても、アマテラスとスサノオウの描写が大きく、二番目の月読がない。アマテラスが「女」スサノオウは「男」、では、月読は・・・!?
河合先生によると、日本神話はこのような中空構造が多く見られるとの事。

今回は、この中空構造自体は、専門家の研究に委ね、“真ん中は何もしない”という事に注目したい。“何も出来ない”のではなく、“何もしない“と言う事にね。
河合先生の本を読んでいて、何かひっかかる感じを受けていた。

日本人にとって、”何もしない”ということは何を表しているのか!?
日本人の精神構造に、どのような影響を与えているのかを、良寛さんとシュバイツアー博士を比較妄想してみたい。
この事は、どちらが正しいかとか正しくないかとか優れているとかそうでないとかの比較論ではないことをあらかじめお断りしておく。

ウッキーペデアより引用

良寛さん

良寛(りょうかん、宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕 - 天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は江戸時代後期の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵または文孝。号は大愚。

良寛は越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた(しかし、その生涯をたどる手立ては極めて少ない)。四男三女の長子。父、山本左門泰雄はこの地区の名主・橘屋であり、[1]石井神社の祠職を務め、以南という俳人でもあった(異説では越後国新津(現・新潟県新潟市秋葉区)の大庄屋・桂誉章の子)。良寛は出雲崎の名主であった父の後を継ぐ名主見習いを初めて2年目の18歳の時、突如出家し、子供の頃に勉学を積んだ曹洞宗光照寺にて修行をする。

この時全国各地に米騒動が頻発した。越後にも天災・悪疫が襲い、凶作により餓死者を出した。村人の争いを調停し、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった良寛が見たものは、救いのない人間の哀れな世界であった。両親の説得にも関わらず、良寛は頑なに修行を続けた。

出家後、安永8年(1779年)22歳の時、良寛の人生は一変する。玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を"生涯の師"と定め、師事する。良寛は故郷を捨てたが、この世にあらん限りは父母の言葉を身に包み生きよう、と誓った。円通寺の格式は高く、その入門には厳しい戒律を通過しなければならなかった。そして経を学ぶことより、勤労に励むことを第一としていた。「一日作らざる者は、一日食わず」国仙和尚は日を変え言葉を変えて良寛に説いた。その教えは後の良寛の生き方に強い影響を与える。良寛が修行した僧堂は、『良寛堂』として今もその当時のまま残されている。修行4年目の春、良寛は母の訃報に接する。しかし帰郷は許されるはずもなく円通寺の修行は12年も重ねた(この円通寺の修行時代の良寛を記すものはほとんど残っていない)。

寛政2年(1790年)印加(修行を終えた者が一人前の僧としての証明)を賜る。翌年、良寛34歳の時「好きなように旅をするが良い」と言い残し世を去った国仙和尚の言葉を受け、諸国を巡り始めた。父の訃報を受けても放浪の旅は続け、義提尼より和歌の影響を受ける。48歳の時、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵(一日五合の米があれば良い、と農家から貰い受けたことからこの名が付けられた)にて書を学ぶ。『秋萩帖』はその手本として自ら選んだ。五合庵の良寛は何事にもとらわれず、何者にも煩わせることもない、といった生活だった。筍が顔を覗かせれば居間を譲り、子供にせがまれれば、日が落ちるまで鞠付きに興じるのだった。良寛は歌に「この子らと 手鞠付きつつ遊ぶ春 日はくれずともよし」と残している。書は良寛にとって己が鬱勃たる心情の吐露だった。

また書を学ぶうち、従来の書法では自身の心情を表せることが出来ず、良寛独自の書法を編み出す。それは、上手に見せようとするのではなく、「一つの点を打つ」「一つの棒を引く」その位置の僅かなズレが文字の命を奪う。そんな際どい瀬戸際に筆を運んで良寛の書は出来上がる。五合庵での階段の昇り降りが辛くなり、61歳の時、乙子神社境内の草庵に居を構えた。円熟期に達した良寛の書はこの時に生まれている。

70歳の時、島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。
・・・以下略。

シュバイツアー博士

アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer, 1875年1月14日 - 1965年9月4日)は、ドイツ出身のアルザス人で、ドイツ系の神学者・哲学者・医者・オルガニスト・音楽学者。
名のAlbertは、フランス語では「アルベール」となる。姓のSchweitzerは、「シュヴァイツェル」「シュバイツァー」とも表記される。
ジャン=ポール・サルトルは伯父シャルル(1844年 - 1935年)の孫(いとこにあたるアン・マリ−の息子)にあたる。ルノーの前代表取締役のルイ・シュヴァイツァー(Louis Schweitzer)はいとこの孫に当たる。また、弟パウル・シュヴァイツァーは指揮者シャルル・ミュンシュの姉エマと結婚した。

20世紀のヒューマニストとして知られている人物である。30歳の時、医療と伝道に生きることを志し、アフリカの赤道直下の国ガボンのランバレネにおいて、当地の住民への医療などに生涯を捧げたとされている。日本においては、内村鑑三などによって古くから紹介され、その生涯は児童向けの偉人伝において親しまれている。

哲学でも業績を残し、「生命への畏敬」の概念で世界平和にも貢献した。「密林の聖者」と呼ばれている。また、音楽にも精通し、バッハ研究でも有名である。「人生の惨めさから逃れる方法は二つある。音楽と猫だ」という言葉を残している[1]。生まれつき非常に頑健であまり疲れない身体を持っていた。

生命への畏敬とは、シュヴァイツァーの思想と実践の根底にある考え方である。人間をはじめとして生命をもつあらゆる存在を敬い、大切にすることを意味する。彼は生命あるものすべてには、生きようとする意志が見出されるとする。この生きようとする意志は、自己を完全に実現しようとする意志である。シュヴァイツァーはこの事実から出発して、すべての人が自己の生きようとする意志を大切にすると同時に、自分と生きようとしている他の生命をも尊重しなければならないと考えた。それは自己と他者、および生命あるものとの共存をめざす考え方であり、アフリカでの医療活動はまさにその実践であった[2]。
・・・以下略。

引用終わり。

良寛さん、シュバイツアー博士に共通する事柄は、二人とも信仰者であったこと、命に対して畏敬の念を持っていることではなかろうか。そして、多くの人に慕われた事。
しかし、決定的に違うことは、良寛さんは厳しい修行を収めた後、五合庵で、何にも捕らわれず、慣行的な行いもせず、子供たちと戯れて過ごしている。
シュバイツアー博士は、アフリカの医療奉仕の為に、生涯を捧げ、アフリカとヨーロッパを往来している。

さて、この違いはどこにあるのか!?

当然、時代背景、民衆の意識レベルなどを勘案しなければならないが、良寛さんは、ある一定の意識レベルに達した後、この世的な欲が極度に低くなったのではなかろうかと妄想している。
シュバイツアー博士は、信仰者としての使命感に燃え、刻苦勉励し医師の免許を取得して、アフリカに赴いている。神学者として、音楽家としてそれなりに成功しているにもかかわらずにね。キリスト教の奉仕の精神が表れている。

日本には、時代を遡ると、一休さんがいる。アニメにもなったから多くの人がご存知であろうと思う。

ウッキーペデアより引用

一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。

出生地は京都で、出自は後小松天皇の落胤とする説が有力視されている[1] 。『一休和尚年譜』によると母は藤原氏、南朝の高官の血筋であり、後小松天皇の寵愛を受けたが、帝の命を狙っていると讒言されて宮中を追われ、民間に入って一休を生んだという[2] 。
幼名は、後世史料によると千菊丸。長じて周建の名で呼ばれ狂雲子、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。戒名は宗純で、宗順とも書く。一休は道号である。

6歳で京都の安国寺[3] の像外集鑑(ぞうがいしゅうかん)に入門・受戒し、周建と名付けられる。早くから詩才に優れ、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は洛中の評判となり賞賛された。
応永17年(1410年)、17歳で謙翁宗為(けんおうそうい)の弟子となり戒名を宗純と改める。ところが、謙翁は応永21年(1414年)に死去し、この頃に一休も自殺未遂を起こしている[4]。

応永22年(1415年)には、京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となる。「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから華叟より一休の道号を授かる。なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)の世界を指す。

応永27年(1420年)、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。華叟は印可状を与えようとするが、一休は辞退した。華叟はばか者と笑いながら送り出したという。以後は詩、狂歌、書画と風狂の生活を送った。
正長元年(1428年)、称光天皇が男子を残さず崩御し伏見宮家より後花園天皇が迎えられて即位したが、この即位には一休の推挙があったという[5]。文明6年(1474年)、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持[6]に任ぜられた。寺には住まなかったが再興に尽力し、塔頭の真珠庵は一休を開祖として創建された。また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、後に「一休寺」とも呼ばれるようになった。天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたという。

文明13年(1481年)、酬恩庵(京都府京田辺市の薪地区)おいてマラリアにより死去。享年88。臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。墓は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれるが、宮内庁が御廟所として管理している陵墓である[7]ため、一般の立ち入りや参拝はできない。

自由奔放で、奇行が多かったといわれる。以下のような逸話が伝わっている。

・印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた。
・男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒・肉食や女犯を行い、森侍者(しんじしゃ)という盲目の側女や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。
・木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる。
・親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという。
・正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。
こうした一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。彼の禅風は、直筆の法語『七仏通誡偈』が残されていることからも伺える。

このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んだ。江戸時代には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。
一休は能筆で知られる。また、一休が村田珠光の師であるという伝承もあり、茶人の間で墨蹟が極めて珍重された(なお、珠光の師という説は現在の研究ではやや疑わしいとされる)。
著書(詩集)は、『狂雲集』『続狂雲集』『自戒集』『骸骨』など。東山文化を代表する人物でもある。また、足利義政とその妻日野富子の幕政を批判したことも知られる。
引用終わり。

良寛さんや一休さんを生み出す日本の風土とはいったいどのようなものなのだろうか!?
日本には、一定の意識レベルに達することで、物質世界の虚しさを感じざるを得ない心境になるのではなかろうか。西洋の人たちと、日本人を比較する事自体ナンセンスな事だと解ってはいるが、人は違って当たり前、民族も違って当たり前、国も違って当たり前・・・故に、どのように共存関係を結ぶべきかが大切なことだと思う。
グローバル化による、十派ひとからげの世界など、気持ち悪い世界であり、衰退する世界でしかないのではなかろうか。

最後に、福島県の会津地方出身の野口英世先生のことをメモする。

ウッキーペデアより引用。

野口 英世(のぐち ひでよ、1876年(明治9年)11月9日[1] - 1928年(昭和3年)5月21日)は、日本の細菌学者。福島県出身。
猪苗代高等小学校卒業、済生学舎(現在の日本医科大学)修了後、ペンシルベニア大学医学部を経て、ロックフェラー医学研究所研究員。細菌学の研究に主に従事し、黄熱病や梅毒等の研究で知られる。数々の論文を発表し、ノーベル生理学・医学賞の候補に三度名前が挙がったが、黄熱病の研究中に自身も罹患し、1928年5月21日、ガーナのアクラで51歳で死去。

栄典は、正五位・勲二等旭日重光章。学位は医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。称号はブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。キリスト者。
妻はメリー・ロレッタ・ダージス。
・・・以下略。

野口先生もキリスト教徒である。


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