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不信のとき

Author:伊藤 博文 ( Profile )
心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。
    〜聖パウロの言葉より〜

 ■ 2015/09/17 (木) 散木


中国の古典『荘子』に「櫟社(れきしゃ)の散木」という話がある。
※散木=無駄な、つまらない、不必要な木のこと


石(せき)という名の大工が斉の国を旅したときの話。

たまたま曲轅(きょくえん)という土地を通りかかると、巨大な櫟(クヌギ)の木がご神木として祭られていた。その巨大なことといったら、木陰に何千頭もの牛が憩うことが出来るくらいの大きさ。幹の太さといったら百かかえあり、高さは山を見下ろすほどだった。地上七、八十尺のところで枝分かれしていて、枝一本で十分船がつくれるくらいの太さである。その太い枝が何十もひろがっているのである。
この大木を見ようと遠くから見物人が集まってきて、まるで市場のにぎわいになっているのである。

石の弟子たちもたちどまり、大木を息をのんで見上げていた。
しかし石は、なんと目もくれずに通り過ぎていくのである。
弟子たちは師匠に追いついて言った。
「親方、親方の下に来てからこんなりっぱな木を見たことがありません。
それなのに、親方といったら見向きもしないでいってしまわれた。
いったいどんなご了見なんですか?」

「生意気なことをいうな。
あの木は何の役にも立ちはせん。
舟をつくれば沈んでしまうし、棺桶をつくればたちまち腐ってしまう。
家具をつくればすぐこわれ、扉をつくれば樹脂だらけになる。
柱にしたらしたで、すぐ虫に食われてしまう。
まったく何の役にも立たん、無用の大木である。
もっとも、こんなに大きくなれたのも、もとはといえば無用だからさ」

その夜、石の夢の中に櫟社の大木が現れて告げた。
「お前はいったいこのわしを何に比べているのかね。お前は恐らくこのわしを役に立つ木と比べているのだろう。いったい柤(こぼけ)、梨、橘、柚、さては瓜の類にいたるまで、その実が熟するともぎとられて辱めを受ける、しまいには大枝を折られ小枝はひきちぎられる始末だ。なまじっか役に立つために命を苦しめるものなのだ。この世の中の人であれ物であれ、みな有用であろうとして命を縮めている。
だが、わしはちがう。わしは今日まで、一貫して無用であろうとつとめてきた。
天寿も終えようという今になって、ようやく無用の木になることができた。
おまえたちには無用であるものが、わしにとっては真に有用なのである。
おまえのように有用であろうとして、自らの命を縮めている者こそ、実は無用の人間なのだ。」






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