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不信のときAuthor:伊藤 博文 ( Profile ) 心に愛がなければ、いかなる言葉も相手の胸に響かない。 〜聖パウロの言葉より〜 |
■ 2016/01/30 (土) 海戦 |
しかし「デバステーター」雷撃機のこの犠牲は、おもわざる成果をあげていたのだ。
戦闘のまっただなかで、これらの機は、おそるべき零戦を海面すれすれにまでひきよせ これによって日本空母の上空をガラ空きにし、爆撃機の攻撃に絶好の機会をあたえたからである。 米雷撃機を追い払おうと戦っているうちに、日本軍は空を見上げるのを忘れてしまった。高い雲のかげにかくれて、雷撃機のあとについてきた急降下爆撃機が近づいていた。 このときマクラスキー大佐は、眼下にかすかな一本の白い筋を発見した。 日本駆逐艦の航跡である。さらに断雲の下から三隻の大艦がすべりだしてきた。 小さい炎とこまかい点々が、その周りに見え、攻撃をうけていることがわかった。 操縦席からじっと目をこらした。空母「加賀」「赤城」を先導する「蒼竜」が確認できた。そのうしろの「飛竜」は雲にさえぎられてまだ見えない。 ・・・「ミッドウエイ」 この日の功労者はウデヘルム少佐のひきいた編隊だった。 わずかばかりの護衛戦闘機は「隼鷹」の零戦と交戦してやられてしまった。 かれは前進をつづけ、ついに「翔鶴」といまなお炎上中の「瑞鳳」とにめぐりあう幸運をつかんだ。零戦が襲いかかってきて、ウデヘルム機は海上に不時着水した。ほかにも 「ドーントレス」一機が撃墜され、二機は損傷をうけて帰途についた。 しかしJE・ポーズ大尉にひきいられた残りの飛行機は「翔鶴」上空にたどりついた。 猛烈な砲火をくぐりぬけて450キロ爆弾三発を命中させた。 ・・・「サンタクルーズ沖航空戦」 午前9時29分、後日「こんどこそわたくしも泳がなければなるまいと覚悟した」と回想したクリフトン・スプラグー提督は日本艦隊が急に反転、北方の煙霧のなかに消え去るのを見た。「わたくしは自分の目を信じられなかった。わたくしの戦闘ボケした頭脳はこの事実がすぐには理解できなかった。」 ・・・「レイテ」 |
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■ 2016/01/17 (日) サライ・酔人・モノローグ |
僕は最近、就寝時に赤ワインを飲むようになった
五十を過ぎてアルコールがないと夜眠れなくなった スーパーで売っている2,000円くらいの安ワインを種類を変えて飲んでいる いろいろな種類を試してみたが、最近少し辛口でうまいワインを見つけた 僕はまた最近、白米の代わりに「玄米」を食している 玄米は慣れないとそのパサつきが気になるが、食べ慣れてみると結構うまい 納豆やあるいは卵かけご飯にしてみると食が進む 僕の趣味は「片付け・収納」だが「ミニマリスト」ではない、 僕は職場でも自宅マンションでもせっせと「片付けて」いる 最近の僕が好きなものは明智小五郎・金田一耕助・シャーロックホームズだ 今見ているのはNY版シャーロックホームズでそれはそれで面白い 先週NHKで満島ひかり版明智小五郎の30分ドラマをやっていて、これもよかった 東京の夜も午前3時を過ぎるとつかのま静かになる バス事故で亡くなった早大の女性が可愛いと評判になっている ご冥福を祈ります |
名前 内容
めとろん アルコールの中では赤ワインが一番好きです〜思い出したときに飲む程度。一回にボトル半分くらい。 (16/01/17 14:42)
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■ 2015/12/29 (火) 【12月9日】1936年(昭11) 沢村栄治VS景浦将、初の「王座決定戦3番勝負」 |
【巨人5−3阪神】4回表無死二、三塁、カウント1−3。阪神の先発投手にして、5番に座る“猛将”景浦将(かげうら・まさる)は、背番号14のドロップ(タテのカーブ)に的を絞っていた。
マウンド上の巨人・沢村栄治投手が5球目に選んだのは、やはりドロップだった。前の打席で景浦に自慢の「まっつぐ」(直球のことを沢村はこう言ったという)をセンターオーバーされた記憶が、川の急流に例えられた落差の大きい「懸河のドロップ」を選択させたといっていい。 吉原と並ぶ色里「洲崎パラダイス」として知られる遊郭に接する東京市城東区南砂町(現東京都江東区新砂)に11月29日に開場したばかりの洲崎球場。最低気温は2度。時折氷雨がそぼ降る中、スタンドに陣取った当時としてはかなり奇特な約1800人の職業野球ファンは次の1球を待った。 バットを担ぐように構える景浦の身長は1メートル70もなかったが、どっしりと腰を落とし眼光鋭い視線は迫力満点。1メートル80の沢村はその気迫に押されているのが自分でも分かった。腕が振れずに投じたドロップはいつもの落差がなく、ベルト付近の絶好球となった。 景浦が見逃すはずもない。高々と上がった打球は、打った瞬間それと分かる左翼席最上段に突き刺さる3点本塁打。141回3分の1を投げたこの年の沢村が、初めて浴びたスタンドインの大ホームランだった。 講談や漫才の題材としても取り上げられた、洲崎での沢村対景浦の一騎打ち。巨人−阪神戦が「伝統の一戦」と呼ばれるようになったのは、この名勝負が起源と言っても過言ではない。 沢村はこの3点のみに阪神を抑え、10安打されたものの11奪三振で職業野球初の「王座決定戦」第1戦に完投勝利。試合時間はなんと1時間15分。午後2時に始まって、3時過ぎには終わっているという早さ。当時の平均試合時間が1時間20分程度だから標準といったところ。今のように複雑なサインもなければ、タイムを頻繁にとることもない。力いっぱい投げ、力いっぱい打つ、そんな単純明快な野球だった。 続く第2戦、一気に勝負を決したい巨人は再度沢村が先発。6回まで投げたが5失点で敗戦投手(巨人3−5阪神)となった。最終決戦となった12月11日の第3戦、沢村は先発前川八郎投手の後を受けて、リリーフで5回を投げ無失点。第1戦に3安打されるなど、景浦に手を焼いた沢村だったが、第3戦ではリベンジ。「まっつぐ」で3球三振に仕留めた。巨人は4−2で阪神を破り、勝利投手となった沢村は巨人の職業野球初代チャンピオンの原動力となった。 実は沢村、シーズン中盤からずっと右肩痛に悩まされていた。王座決定戦前に巨人・藤本定義監督に「投げさせてください」と直訴した沢村に、巨人が決定戦中に合宿をはった東京・呉服橋の旅館の主人が用意したものは「痛みによく効く」とされた馬肉のかたまり。なぜ効くのか、医学的根拠はないが、就寝の際、沢村はそれを右肩にあてて眠り、3連投を演じたのだった。 伝説の強打者景浦は実働5年で打点王2回、首位打者1回を獲得。投手としても36年秋には防御率1位に輝いているが、気ままな性格で、気分が乗らないときはさっぱり。打撃の通算成績は323試合で307安打25本塁打、打率2割7分1厘。伝説の割には物足りない数字なのは、この性格がかなり災いしている。 投手としては56試合で27勝9敗。274回3分の1を投げ、防御率1・58というのも凄いが、被本塁打2本というのも驚きの数字。「速いというより球質の重い投手だった」と、巨人の名二塁手・千葉茂は回想している。 景浦は太平洋戦争中の43年(昭18)応召され、終戦まで3カ月を切った45年5月20日、フィリピン・カラングラ島で戦死。戦闘で敵の銃弾に斃れたのではなく、戦病死だったという説もある。永遠のライバル沢村は陸軍に3度目の召集をされ、景浦が命を落とす半年前の44年12月2日、同じフィリピンに向かう途中に台湾沖で乗っていた輸送船が米潜水艦に撃沈された。生存者はなく、最期の状況すら不明という。職業野球初期の投打のビッグスター2人を戦火の中で失ったことは、日本の野球界にとって痛恨の極みであった。 現在の日本シリーズに相当するといえる王座決定戦の開催は複雑な公式戦のシステムから生まれた。職業野球=プロ野球が本格的にスタートしたこの年、公式戦は1リーグ7球団による総当たり戦を4回、トーナメント戦を2回行い、それぞれ1回ごとに優勝チームを決め、その総合得点で年間優勝を決めるルールだった。単独優勝にはポイント1点、同率Vには0・5点ずつという配分で、その結果巨人と阪神が2・5点ずつの同点となり、王座決定戦が行われることになった。「第2次東京リーグ」と銘打たれた4回目のリーグ戦が終了して中1日で第1戦という慌しい日程だった。 |
名前 内容
記入なし 講談の「英国密航」聞いたことあるかい?毛利の殿様は好きだよ♪ (16/01/02 23:03)
伊藤 博文 アーネスト・サトウの「一外交官の見た明治維新」って読んだことあるかい。僕も薩長土肥よりフランス流の徳川幕府が出来上がれば面白かったのにと思うね。 (16/01/02 00:18) 記入なし 長州藩は嫌いだ! (16/01/01 20:31) |
■ 2015/11/18 (水) 母 |
「俺がお前の家を出て帰りかけたときだった。坂の上の方から、腰の曲がったお前のお袋が、転がるように俺を追いかけてきたんだ。おまえのおふくろはどうしたと思う?いいか、よく見てろよ。お前のおふくろはこうしたんだ」
平塚は小原の前に土下座して続けた。 「私の息子は人様を傷つけるような悪い人間ではありません。でも、もしも、何か悪いことをしているなら、真人間になって早く本当のことを言うように言ってください」 |
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サイコロ 平塚八兵衛 (15/11/18 23:48)
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■ 2015/11/17 (火) メッセージ |
蚤蚤くんは公務員か?
たいしたものだ まあ お子さんも無事に就職され、一段落といったところだね 僕は単なる独身中年だが、あなたのライフスタイルは謎だね 僕はただ毎晩、東京の夜景をひとりで眺めているよ |
名前 内容
蚤蚤さん 失った自由を取り戻すのは並大抵のことではないから、寂しさはお金で解決するべきでしょうね(たぶん) (15/11/20 12:41)
蚤蚤さん メッセージありがとう。高卒〜ニート〜落ちこぼれ公務員です。あの頃は家庭を持って一人前とか思ってたんだろうね(ああ、勘違い)・・・今なら絶対結婚なんてしないわ! っていうか、出来ないわ。(怖くて) (15/11/19 23:20) |
■ 2015/11/12 (木) カイト |
この間、実家に帰った時に風の強い日があった
押入れに昔のゲイラカイトがあるのを思い出し、近所の小学校の校庭で凧上げをしてみた、40年ぶりのことである 凧は思いのほか簡単に空に舞い上がった スルスルとあっという間に50メートルくらい糸を解いた 風はいったん緩くなったが、このくらいまで上がるともう凧は簡単には落ちない 糸はスルスルと風に引っ張られ、とうとう100メートルの長さにまでになった 凧は豆粒より小さくなり、校庭を超え道路をまたぎ住宅地の上空に上がっていった 道路を歩いている人やグラウンドの小さな子供たちがもの珍しそうに眺めている おそらく凧上げなんて見たことがないのだろう 僕自身、リアルでここ何十年か見たことがない それに今は凧上げじゃなくドローンの時代だものね 上がったはいいが、ここから下ろすのがひと苦労だ ゆっくりゆっくり下ろしたが、50メートルくらいまで下ろした時に 左に旋回し、校舎の屋上に墜落した それでも引っかかっていなかったようで 糸を巻き戻すと ふわりとまた空に浮きあがり、今度は無事に地上に引き戻した 僕はこのゲイラカイトの他に 2メートルくらいあるバタフライカイト(羽を広げたアゲハチョウの形をした凧) というのも持っている こちらもいつか飛行させてみたい |
名前 内容
サイコロ いやぁ〜良いですね^冬の寒い青空を思い出します (15/11/19 23:17)
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■ 2015/11/06 (金) 名将 |
野球の監督でも政治家でも「名将」を見てみたい
今は昔に比べて技術や知識ははるかに進歩しているけど 昔はいた貫録や威厳のある「名将」は今はいない 野球についていえば、 プロ野球だったら前に書いた阪神の藤本さんとか、西鉄・大洋の三原さん、 南海の鶴岡さん 高校野球だったら、 中京の深谷監督とか浪商の広瀬監督、高松商の若宮監督みたいな 伝統高を率いていた監督、子供心にかっこいいなあと思っていた 政治家もそう 若槻礼次郎とか犬養毅、浜口雄幸、鈴木貫太郎・・・ 古風だけどみんなりっぱな顔をしている。 プーチンがカリスマがあるとか前に書いたけど 「映像の世紀」にでてくるスターリンなんて全然迫力が違う プーチンなんて「小僧」にしか見えない |
名前 内容 |
■ 2015/11/01 (日) 就寝 |
夜、布団を敷いて横になる
どなたもそうだろうが、一日のうちでいちばんほっとする時間である 文庫本を2,3冊、枕元において読もうとするのだがなかなか先に進まない しかたがないので明りを消す 僕は妙な趣味があって、BGMに恐怖体験談の朗読を聴きながら 眠りにつく ただそれでも眠れないときは、近くのコンビニに散歩に行く 午前2時頃のコンビニは誰もいない 雑誌を数冊読んで、ペットボトルの1本も買って帰ってくる そしてまた布団に入って寝る |
名前 内容
サイコロ あぁ〜自分も同じです^寝床に本を積み重ねているのですが、最近、歳のせいか、すぐ眠気が来まして・・・もっとも若い頃は、コンビニとか夜中の町をフラフラと徘徊して、しかし、買うのは決まってアイスでした^ (15/11/18 23:42)
蚤蚤さん 一人にさせてごめんなさい・・・な〜んて女性はいないのかな?(頑張れ、まだ間に合う) (15/11/15 00:57) めとろん そういえば昔、恐怖体験談のスレッドあって、すごく盛況でしたね。あれのスレ主だったのですか? (15/11/06 00:01) |
■ 2015/10/26 (月) 砂漠 |
なんと砂漠の静まり返っていることか。
すでに夜。私はひとりきりだ。 人の砂漠を歩きながら、 ぼくはそこで無数の地の漂流者たちに遭遇した。 あてもなくさまよう者ががいた。追放の重みに押し潰されそうな者もいた。 王国を求めながらその門すら見つけることができず、 砂漠にひとり死んでゆく者の姿をみかけたこともある。 遊牧民が広大な砂漠にほとんど無意味な墓標を作るように ぼくもまた彼らのために石を積みたいと思うことがあった。 (沢木耕太郎「人の砂漠」より) |
名前 内容 |
■ 2015/10/23 (金) 悪女 |
コーラ・パール(Cora Pearl、1835年? - 1886年7月8日)は、19世紀フランス第二帝政期の花柳界・社交界で著名だった高級娼婦、舞台女優。本名はエマ・エリザベス・クラッチ(Emma Elizabeth Crouch)。イギリス生まれ。皇帝ナポレオン3世の弟モルニー公や従兄弟ナポレオン公など、フランス宮廷の要人達の愛人となり、豪奢な生活を送った女性で、エミール・ゾラの小説『ナナ』のモデルの一人とされる。
幼少時 エマの生年月日および生誕地については諸説あり、1842年2月23日の日付を持つ彼女の出生証明書は捏造されたものとされている。場所についてもプリマス、イーストストーンハウス、キャロライン地区となっているが、一説には1835年にロンドンで生まれ、1837年に家族ごとプリマスに移り住んだものともいう。 父はチェロ奏者・作曲家のフレデリック・ニコル・クラッチ。ある時「キャサリン・マボニーン」という流行歌を作り、わずか20ポンドで譲渡したところ、この曲が後に大ヒットし、版権を購入した業者が15,000ポンド稼いだと聞いたフレデリックは、ショックのあまり仕事をしなくなり、1849年に家族を残したままアメリカ合衆国へ渡り永住移民となった(父から音楽の才能を受け継いだことは、1867年にオッフェンバックの『天国と地獄』でウェヌス役を演ずることに関連してくる)。母はその後エマをフランスのブローニュにある修道院附属校に入れる。エマは8年間ブローニュで学ぶ中で、何とか通用するレベルではあったが、フランス語を習得する(ただし英語なまりは後まで残り、女優としてのキャリアに影響を与えた)。 娼婦となる 19歳の時、母はエマに英国へ帰り一緒に住むよう説得したが、エマはそれを拒否し、ロンドンの祖母の家に住んだ。ある日曜日、ダイヤモンド商の男に声をかけられたエマは、誘われるままに酒屋に入り、そのまま泥酔した後姦通され、男への憎しみと自らの魅力を認識するようになる。エマはその後祖母の家を出て、しばらくロンドンで自活の道を探していたが、やがて娼婦となり、幾人かの富裕層の男性と出会いを重ねることになる。彼女はそれなりにかわいらしく、社会性や機知に富み、慎重でもあったため、男達の中には単なる夜の関係以上に彼女に興味を抱く者も現れた。 エマはその後、ロンドンの高級娼婦が集うクラブ「アーギルルーム」の経営者ロバート・ビッグネルの愛人となり、パリへ渡海したが、パリの華やかな魅力にとりつかれた彼女はロンドンへの帰国を拒否。パリで「コーラ・パール」と名を変え、演劇界に乗り込む。しかしお色気以外の技能は発揮できず、大した役ももらえなかった。ただし、かつて修道院で鍛えられた社交的マナーが身に備わっており、富裕層の男性に対するアピールは申し分なかった。程なくコーラは、フランス第二帝政下の富裕層・権力者の評判の的となり、女優としてではなく愛人として、彼らの幾人かとロマンスに落ちる。彼女は金を持っていなかったが、当時の宮廷お抱えのデザイナーであるシャルル・フレデリック・ウォルトやラフェリエといった高級ブランドの服で身を飾ることで、富裕層の男性の気を引くことにも成功した。 この時期、第3代リヴォリ公爵ヴィクトル・マセナが、コーラの最初のパトロンとなった。しかしコーラはこの頃から深刻なギャンブル癖・浪費癖を呈するようになる。またマセナより11歳も若いアキル・ミュラ公(ジョアシャン・ミュラの孫)にラブコールを送ったことに嫉妬した公爵は激怒し、彼女の借金を肩代わりした後、愛人関係を終わらせた。コーラは新たな後援者をすぐに開拓し、欧州でも最も富裕な男たちを手玉に取っていく。 絢爛にして放埒なるパリでの生活 熟練技術者の日当が2〜4フラン程度であった当時において、コーラは一晩で5,000フランを稼ぐ娼婦となり、生活はどんどん派手になっていった。この莫大な稼ぎを得るため、コーラは蘭柄の絨毯の上でヌードダンスを披露したり(後述)、シャンパンで満たされた銀の浴槽で大勢の客の前で入浴することも厭わなかった。コーラの英語訛りのフランス語や、明け透けな性格も、多くの男に受け入れられているように見えた。ド・グラモン・カドゥルース公爵は、(当時パリの最高級レストランであった)フレール・プロヴァンソーがもしダイヤモンド入りのオムレツをメニューで出したら、彼女は毎晩通うだろう」と評した。また、ある男がコーラにマロングラッセ一箱をプレゼントしたところ、そのマロングラッセの包み紙がすべて1,000フラン紙幣だったというエピソードも残る[6]。またアイルランドの大地主ジェイムズ・ウェルプリーが貢いだ全財産200万フランをコーラはわずか8週間で浪費してしまったという。 彼女のファッションは、第二帝政期の上流貴婦人らに影響を与え、ドレス・髪型・乗馬服など、彼女を追従する女性も多かったという。ギュスターヴ・クローダンによれば、コーラ・パールは「フランスに近代的なメイクを紹介した最初の女性」であり、ロンドンから取り寄せた化粧品を惜しげもなく使った。まつげや目の周りにペイントを加えるアイシャドー、TPOによる髪の毛の染め分け、白い肌を至上の価値とする時代にも関わらず肌を小麦色に焼くことなど、当時の貴婦人らの常識に反する(そして現在に通ずる)斬新なメイクは、下品・やりすぎという強い批判を受けると同時に、大きなセンセーションも巻き起こしたという。彼女と同じように他国から来た娼婦が、懸命にパリジェンヌになろうと努力したのに対し、あくまで自然体に振る舞ったコーラは、普通の美女に食傷していたパリの紳士の心を捕らえた。ピエール・ド・ラノーは『第二帝政下のパリの愛』で「コーラ・パールはその頃の高級娼婦とは少しも似ていなかった。娼婦が身につけるべき完璧な口調や矯正を軽蔑し、あるがままに振る舞ったのである」と述べている。英語なまりのフランス語も、男性達には魅力的に感じられ「気兼ねしないマドモワゼル(Mademoiselle Sans Gêne)」というあだ名がつけられた。 激しい気性 英国の文芸批評家ウィリアム・フィールドは以下のような逸話を伝える。ロシア出身のパウロ・ドゥミドフ大公は、コーラ・パールを困らせようと、レストラン「メゾン・ドール」で帽子を脱がなかった。彼女は大公のステッキを奪うや、彼の頭を叩きつけたあげく「ごめんなさい。このステッキとても綺麗だったのに壊れてしまったわ」と平然と述べたという。大公は驚くと同時にやり込めてやろうと、コーラのネックレスの真珠が偽物であると主張すると、コーラはいきなりそのネックレスを床に投げつける。飛び散った真珠を指して「さあ、拾い集めて本物であることを確かめなさい。あなたのネクタイピン用に一つ差し上げるわ」と言い捨てて去った。大公は茫然自失のままだったが、レストランで食事をしていた他の貴族たちは、腹ばいになって真珠をかき集めたという。 コーラの気性は激しく、女性としては珍しい決闘経験者でもある。1863年にはセルビア王子の容貌をめぐって別の娼婦マルト・ド・ヴェールと口論になった。二人とも乗馬に自信を持っていたため、乗馬用の鞭を武器として決闘することになった。双方とも顔に多くの傷を受け、一週間は人前に出られないほどだったという。 彼女は後援者からの経済的支援に恩義を謝するどころか、ほとんど罵倒と侮辱をもって返答した。しかし彼女にとっては自然体でしかないその異常な言動は、フランス社交界の男達の間で逆に喝采を浴びることになる。女王然と振る舞ったコーラ・パールに、ナポレオン公はおろか皇帝ナポレオン3世すら頭を垂れて思し召しを伺ったという。ラノーは「彼女は洗練されていない本能の粗暴さゆえに、また自分が奉仕している男達への復讐のために、閨房でも彼らを蔑み、侮辱し、行為の最中も男達を跪かせてその快楽を楽しんだ」と述べており、ミュファ伯爵をなぶりものにする『ナナ』と同様である。 しかし彼女は女王扱いされたとしても、まだ満足できず、女優としての道も諦めていなかった。1866年には以前の失敗にも懲りずに再び舞台に立つ。オッフェンバックの『地獄のオルフェ(天国と地獄)』のウェヌス役を演じ、ほとんど全裸に近い格好で舞台に立ったのである。しかしその下品な振る舞いや声質の悪さは、閨房における上流階級の男性とは違い、全く受け入れられず、無残な結果に終わり、彼女を失望させた。娼婦をへて舞台女優となり、上流階級の男たちをすさまじい浪費で次々に破滅させてゆく姿は、まさに『ナナ』そのものであった。 華麗な男性遍歴 コーラは、オラニエ公ウィレム(オランダ王ウィレム3世の王太子)、アシル・ミュラ(ジョアシャン・ミュラの孫)など、上流階級の錚々たる面々の愛人となった。ミュラ公は彼女に馬をプレゼントし続けた。彼女の自慢の厩舎には1863年から68年まで、乗馬用・馬車用をあわせて60頭以上の馬がおり、英国人の厩務員を大勢雇って、すべての職員に黄色の制服を着用させたという。 彼女と関係を結んだ男達の中でも「背が高くハンサムな方の皇帝」と史家に書かれるほどの色男モルニ公(皇帝ナポレオン3世の異父弟)は、飽くことなき色欲・物欲を持つ彼女にとって、最も知的かつ高貴な愛人だった。1864年、彼女は皇弟の愛人という重要な地位に見合うように、オルレアン郊外のロワレ川に立つボーゼジュール館を与えられ、そこでささやかな幸運の日々を送る。しかしモルニ公は1865年に早世してしまう。臨終に立ち会った友人は、後難を恐れてコーラから公爵に宛てたラブレターをすべてトイレに流したという)。 だがその数年後には、コーラはナポレオン公(皇帝ナポレオン3世の従兄弟。通称プロン・プロン)の愛人となっていた。公はコーラのために、パリにさらに2軒の家を建ててやり、第二帝政崩壊後の1874年まで財政的な補助をしている。彼女はナポレオン公から月額12,000フランを支給されたうえ、シェロー街101番地の邸宅は宮殿のようであり「プチ・テュイルリー」とまで呼ばれたという。ナポレオン公がプレゼントした荷馬車一杯の蘭の花をすべて床にぶちまけ、水夫の服装に着替えて蘭を踏みつけながらダンスを踊ったという逸話も残る 醜聞から没落へ 彼女は莫大な財産を稼ぎ、1860年代後半にはいくつもの家や厩舎を所有し、最高級の衣装部屋や贅沢きわまりない宝石に囲まれていた。英国の口座には、パリの店から取り寄せた下着に対して18,000ポンド以上もの額をつけた請求書が記録されている。 コーラが彼女なりの生活を楽しんでいくためには、大金を惜しまぬ愛人を必要とした。男達は大枚をはたく故に彼女を独占しようと試みる。アレクサンドル・デュヴァルという名の20代の若い裕福な男もまた、37歳のコーラを自分だけのものにしようと言い寄り、彼女を辟易させていた。コーラはデュヴァルと何度も手を切ろうとしたが失敗。デュヴァルはコーラのために大金を費やしてきたにも関わらず、他の男とコーラがくっついたと聞いて嫉妬に狂った。コーラが関係を終わらせようとデュヴァルに最終宣告すると、デュヴァルは1872年12月19日、彼女の屋敷にやってきて玄関先でピストル自殺をはかるという事件を起こした(このときピストルが暴発し、デュヴァルは死亡には至らなかったものの、重傷を負った)。しかし文字通り命を懸けたこの決死の行為に対しても、コーラは誰の助けも医者も呼ぶこともせず、何事もなかったかのように自室に戻り、眠りについたのである。しかしこの事件の噂は瞬く間に広まり、彼女の女優としてのキャリアは突如終幕を迎えることになった。コーラは気分転換と局面打開を兼ねて、逃げるようにロンドンに渡ったが、例の噂はそれよりも早く英国に上陸しており、彼女の身の置き所はすでになかった。一方、同年12月26日のフィガロ紙には「共和国となったフランスから2人の大物が去った。ナポレオン公とコーラ・パールである」と報じている。 ロンドンで高級娼婦を続けようとしていたコーラの企みは失敗に終わり、わずかの金持ちが彼女に興味を示しただけだった。その後彼女はモンテカルロ、ニース、ミラノをさまよったが、再びパリに戻ると、状況の変化に愕然とする。もはや過去の取り巻き連中はとっくに去っており、富のない男性が彼女に声をかけるのみだった。 それでも若年の頃からのギャンブル癖は直っていない。そもそも彼女にはカジノや店から即時の支払いを要求される事態に直面することを想像する能力が欠けていた。しかしもはや勘定を肩代わりしてくれる支援者はいなかった。自暴自棄になったコーラは1876年以降、財産を切り売りして借金の返済に充てる一方、時折街角に出て売春婦に戻るような生活となった。それでもコーラは借金がかさむのを気にもせず、比較的快適な暮らしを10年ほど続けていた。1886年春には『コーラ・パール自伝』がフランス語で出版された。同年、パリのバサノ街8番地で、腸癌により死去した 一番安い棺が注文され、地元の葬儀屋が生活困窮者として葬るようにと指示を受けていた。葬儀屋がその通りにしようとした矢先、一目見て貴族だとわかる風貌の男が、不意に尋ねてきた。 「マダム・コーラ・パールのため最上の葬儀をするのにどれくらいかかるか」 こう言うと男は一束の紙幣を差し出し、「この婦人には最高の葬儀をしてもらわなくては」と言った。帰ろうときびすを返す直前に、さらに彼は次のようにつけ加えた。 「注意しておくが私の代理の者が来て、 あなたが言われた通りのことをきちんとやっているかを見届けますから」 この人物はついに身許を明かさなかったが、コーラは昔どおりの華やかな装いで、パチニョーレにある墓地に埋葬された。 |
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