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日々の記録


 ■ 2005/05/09 (月) ドイツ降伏およびヨーロッパにおける終戦記念日に思う事


 昨日5月8日はドイツが第二次世界大戦にて連合国に降伏してからちょうど60年目の日でありました。ドイツをはじめヨーロッパ各地では(ヨーロッパ戦線における)終戦記念の様々な行事が開かれ、そして今日5月9日はテレビのニュースでも流れていましたがモスクワにて対独戦勝60周年式典という一大記念式典が開かれていました。ちょうど10年前にも日本やアメリカはもちろんですが、ドイツやロシア、イギリス、フランスなど世界各地で終戦50周年の行事が開かれていましたが、当時高校3年生で大学受験のために忙しすぎた私はなかなか世界で何が起きているのかについてまで視野を広める事は出来なかったと記憶しています。もっとも10年前は、阪神大震災とオウムに関するニュースが世間を席巻していたかのような印象が強く、戦後50年はどこか隅の方に追いやられていたようにも思います。日本もドイツと同じく今年が戦争終結(敗戦とも言えますが)60年目に当たる年ですが、今年の夏にはどのように戦後60年が総括されるのでしょうか。


 前回記入した時より一月が経過しましたが、自分はあまり変化していないようです、と書くとほとんど同じ言い回しを繰り返しているようにしか見られませんが、物心ついてから20数年馬鹿な事をやり続けてきてここ最近自分がまともじゃなかった事に気付いて自分の道を修正しようとしているのですが、今日明日に結果が出るものではないので目に見える変化は無いとしかいいようがありません。ある程度時間が経ってから気付くものなのでしょうか。

 私は4月の日記では自分の事をダメな人間だとかいい大人でありながらも精神的には幼児だと書きましたが、決して私は自分は幼児臭いダメな人間だから社会に出ないで一生家に引きこもっていればいいんだと暗示をかけたり決め付けている訳ではありません。むしろ自分が取るに足らない存在だと思って日々努力していく方がいいのではと思ったから前述のような事を書きました。むしろ10代の頃の私は、自分は天才だとか崇高な存在だと思い込んで愚にもつかない事ばかりをやって友達の一人も作れないような有様ながら、自分がおろかな事をしているとは全く認識出来ませんでした。そういった事をやり続けて十余年、人生の袋小路に立たされてしまった現在の自分がいる訳です。

 現在の自分は社会人になるためはもちろんですが、普通の人間として自立していけるように自分でも日々鍛錬しています。確かに失敗が多くてうんざりする事もありますが。それでも失敗には目をつぶり、自分の好きな事にしか目が向かなかった昔(特に10代の頃)に比べれば前進していると思います。少し前まで、私は自分が失敗した事を見て見ぬ振りをして、自分に都合の良い所を過剰に誉めてくれるような人間を求めていたのではないかと思う事もあります。

 私は何かしらの失敗すると人生が終わったかのような悲愴な顔をする事があり、眉間にはうっすらと皺が出来てしまっています。さらには「えええーっ」といった感じの素っ頓狂な叫び声を上げる事すらあります。こういった事は自分が失敗やら間違いに気付くようになってから、そのような事がいわば未知なるものとの遭遇のように感じてしまっているからかもしれません。学生時代の私は超がつくほどの鈍感人間で、家や学校から守られる事で無茶苦茶な事をしてもそれを見て見ぬ振りをして過ごしていましたが、最近はありとあらゆるものを見て見ぬ振りなど出来なくなり、自分のする事には最大限ベストを尽くそうと思っています。しかし他者が見れば始めから明らかに失敗に見える事を一生懸命に真面目にやって、結果として失敗に終わる事が多くあります。今まではこういった事に気付かずに、真面目に物事に取り組んだ=成功と考えており、なかなか自分が失敗を認識しようとはしなかったのではないかと考えられます。しかしながら今でも結果が失敗に終わっても、しないよりはマシと考えたりする事もあります。損得勘定すればしない方が遥かにマシなものもありますが。要するに初めから失敗するようなものはするなとなるのでしょうね。
 

 前回の日記では皆様からの沢山のご意見を頂き、色々と考えさせられました。世の中には自分の感情を抑えなければならない時が少なからず存在している事は前から知っていましたが、自分はそういった事とは無関係だと思い込んでいた事が自分は正しいだの間違った事はしていないだのやらないよりは遥かにマシだとか屁理屈を並べてしまう原因の一つだったのでは思いました。相手がどうして厳しい事を言ってくるのかを考えずに条件反射的に誹謗中傷を言っていると思い込む事はやめるべきだと感じられました。

 また私は前回の書き込みからしばらく後に、大学院時代の指導教授やゼミのドクターや同僚にメール(その数12)を送り、指導教授および3名の方から返事がありました。それでも返事の無かった残り8名の方は忙しかったのか、それとも私の事を忘れてしまったのかは知りませんが、何か縁が遠くなってしまったようにも感じられます。やはり私は院時代の人達からは幼い人間に見られていたのでしょうか。メル友としての付き合いすら出来なくなったように思えてなりません。それでも恩師からのメールは私にとって自分自身を考え直すきっかけの一つにはなったかと思います。それ以上に恩師がダメ院生に過ぎなかった自分の事を見捨てていなかった事の方が自分にとっては大きかったと感じていますが。



名前

内容

韮山 あなたの学歴で、その知識とポテンシャルで、ひとつも内定がとれないというのはどういうことか・・。 地方に住んでいる人、より学歴にハンデのある人、年齢で厳しい人、そういう人がこのサイトには一杯いるけれど、あなたはそういう人たちと比べてどうなのか。 なにもあなたの人格を否定しようとは思わない。 自分の生かし方を知らない。それに尽きる。 大学院の恩師にも、そういう視点で話を聞いたらどうですか? (05/05/15 23:56)
とりあえず また厳しいことを書きますね。やはりこのような役割は誰かがしなければならないので。卒業されてから一年ですよね。もう"新卒"という資格は効力を失いました。これからは昨年一年の空白がかなり採用の現場で響いてくると思います。わたしはあなたが希望するであろう出版社、いわゆるマスコミで働く人間ですが あなたの場合年齢が年齢ですのでそこそこの出版社で新卒で採用される可能性は限りなくゼロに近いと思います。中途でもこれまでの実績がないので厳しいですね。どうしてもこの業界にこだわっているのでしたらライターとしての可能性なら無くはないです、しかしながらフリーでやっていく場合は営業力が必要になるので やはりまずどこか 町工場でもいいから社会人として働いて人と接してお金を稼ぐというのが今一番あなたにとって大事なんじゃないかな。 (05/05/14 11:47)
ぺけぽむ ホワイトカラーであまり職能化されてない仕事の場合、大抵チームワークで仕事をするので、個人の頭の良さとか教養よりも話が通じるかどうかで「出来る奴」と見られるかどうかが分かれる面があるなと実感している最中。出来るかどうか以外は割とどうでもいいというのがほんとのところ。自己認識がどれほど透徹していようが関係ない。むしろそうやって自分に目線が向かっている人はよそから飛んできたパスを自分の頭にぶつけてボールを地面に落しそうなので、敬遠されてしまうようです。結局、雇われて働く以上、基準は外にあるので、その外に向けてパスを返せなければどれだけ真剣だったとしてもリフティング以上のものにはならない。より大きな喝采を浴びるのは観客の予想を上回る華麗なキラーパスか、それとも延々と続くリフティングかを考えれば、なんとなくわかってくると思います。 (05/05/11 01:25)
韮山 就職できないのも、メールが返ってこないのも、あなたの能力のせいじゃないように思います。 あなたは有能な自分を鼻にかけていませんか?  企業担当者は、あなたを会社に入れた場合の集団としてのチームワークを「恐れる」し、メル友は返信があなたに悪影響を与えないかが「怖い」。 怖がられているんですよ。 「実るほど・・」を心がければ、あなたが欲しがる社会的地位はついてくると思う。 (05/05/11 00:21)
大人の少年 お久しぶりですね・・、今日は短めにコメントします。「MOTOAKIさん、貴方は世間一般という社会と戦っていますか?」自問自答してみてください。 (05/05/10 08:41)


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