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爺放談


 ■ 2018/02/14 (水) 善意というもの C


最愛の息子を亡くした親御さんたちはその学校を相手取り、訴訟を起こした。

親御さんたちを良く知る知人友人もその運動を応援し、サポートした。

その輪は徐々に大きく膨らみ、知識人、教育者を巻き込み、全国展開の会派にまで膨らんだ。

足掛け七年以上のこの運動は、マスコミも取り上げるまでに至った・・・

そしてようやく三か月前、一応の決着に至った。

結果は親御さんたちの主張が認められた完全勝利に終わった。

学校およびそれを管轄する自治体への責任追及はこれまでもよくあるケースだが、この訴訟はそれよりももっと突っ込んだ内容の勝利で、特筆すべきはこのクラブ活動の顧問にまで責任の追及が及ぶ判決だった。

実はこの訴訟は学校及び自治体までの責任の追及はもっと早くに認められた判決は出ていた。

しかしこの親御さんたちはそれではまだ不服とし、直接指導した個人にまで責任が追及されるよう求めた裁判であった。

これは全国初で、前例が無いため裁判が長期化した原因でもあった。

親御さんたち及びそれを取り巻く人達にとっては大きな勝利であったことだろう。

しかしこの判決は親御さんたちにとっては大きな勝利だろうが本当にどうだろうか?

学校や自治体までなら分かるが責任の追及が個人にまで及んでしまうという判例は本当に教育の現場では如何なものか?

教育の現場に立つ先生達・・・ましてや全ての運動部の顧問や先生達はこの判例を戦々恐々として見てはいないだろうか?

どんな社会にも、どの様な組織にも、人が集まる場において「事件事故」は付きまとうものである。

この判決の被告であるクラブ顧問がとった行動は「事件事故」であって「殺人者」ではない。

結果として人の命を奪うことになってしまったが「殺人者」ではないのだ。

教育の現場というものは、人対人という構図が今も厳然としてある。

それがいかに聖職という位置付けであろうが「人対人」という大前提を見失ってはいけない。

その人の「思想 理念」までに足枷を作ることは出来ない。

それがどのような場所であろうと、いくら他人がそれが場違いだと決めつけようと、人の持つ思想理念にまで踏み込んで罵倒する権利は誰にもない。

しかしこの判例は、そんな思想理念に足枷を作る判例となりはしないだろうか?

前述した「裁監督」

もしこんな判例があった場合でも同じ様に部員たちに指導が出来うるだろうか?

もし私が裁監督の立場であったならこんな判例が出た後では絶対出来ないだろう。

「事件事故」はどこで発生するなど神様でもない限り予測はできない。

どんな事柄にも、それを指導する立場にあるものはある程度の「努力の強要」は必然である。

その強要は人によってどう感じるかは様々である。

しかし何か事故が起こるとすぐ人は「程度問題」を挙げてくる。

「事件事故」を完全に封殺出来る「程度」などありはしない。

もし「事件事故」を無くしたいなら指導そのものを無くすかそれ自体の行為を無くすしかない。

今、世間を賑わしている「オリンピック」

人はそこにある種の感動を求めて見ている人たちも多いことだろう。

そこに出場している多くの選手たちは、その選手一人一人にこれまで多くの指導者がいて、その指導、努力の強要があり、それに打ち勝ってきた人たちが選手としての檜舞台で活躍する。

どんな世界も、その競技人口の多さがその競技自体のレベルの底上げをする。

そのご夫婦が立ち上げた会派のボランティアの一人に私はその行為そのものに疑問を呈した。

しかしその彼女はこう言った・・・

「このクラブ活動はそんなすごいクラブではない、全国レベルでもないしそこまでする必要なんてない」

私はなんて馬鹿げた言い分だろうと思った・・・

これは逆に言えば「全国レベル」でなければ努力なんてあまりする必要などないと言っていることだ。

そんな傲慢な決め付けをどうして出来るのだろうか?

この様なクラブ活動が多く存在し、そんな中から一握りの選手が排出される。

その競技人口が多ければ多いほどレベルの高い選手が排出されるのだ。

それが引いてはオリンピックの「金 銀 銅」に結びついていくものだ。


この判例は・・・


この日本の教育の現場に大きな波紋を残し。

大きな足枷となっていくことになるだろう・・・・

多くの指導者たち・・教育の現場に携わっている人たち・・・そしてこれからその現場に立とうとする人たち・・・

「思想理念」を持つことはこれからはもっと難しくなる方向へとこの判例において余儀なくされることだろう。

教育の衰退へと・・・









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 ■ 2018/02/13 (火) 善意というもの B


春の甲子園、2度の優勝を果たし、沖縄では初の甲子園優勝という快挙を成した高校があった。

沖縄県民の悲願である甲子園優勝・・・

初優勝を決めた決勝の日、私は沖縄にいたがその日は沖縄県全体が、すべての県民が固唾をのんで家のテレビに釘付けではなかろうかというぐらい町全体が静まり返っていた。

そして悲願の初優勝を決めたその日は町全体がお祭り騒ぎで、県民のほとんどが甲子園の話でもちきりだった。

その高校の野球部員が沖縄へ帰ってきた時、町全体で凱旋パレード、消防まで出てきて放水ショーのおまけつきで米軍基地問題などその日だけは県民が歓喜の嵐に染まっていた。

そんな沖縄の英雄ともいえる高校に不祥事が起こった・・・

野球部監督の部員に対しての暴力事件が表ざたになった。

さらに上級生部員の下級生部員に対しての「いじめ」問題も発覚した・・・

私はこの野球部顧問と個人的に親しくしていた間柄でもあった。

この2つの問題はどちらも部員の親がリークしたものであった・・・

結果としてこの名誉ある野球部は対外試合の禁止、監督は一定期間の謹慎を高野連やその他からの指導を命じられた。

その後

その野球部では入部の際、親御さんたちから誓約書なるものを書かせるに至った。

もしこれを同意できないならいくらその子供たちが野球をしたくても入部できない。

野球部顧問は嘆いていた・・・

「いつからこんな世の中になった・・・」

謹慎という罰を与えられた監督。

彼は本当に真面目で、野球をこよなく愛し、部員たち全員に「栄光」という素晴らしさを分かち合ってもらおうと一生懸命に部員を育ててきた人であった。

この2つの事件をリークした親御さんたちの子供も野球部員だった。

上級生たちのいじめに至っては、それをリークするための用意周到さは驚くほど完璧であった。

その子供自身に小型カメラを備え付け、さらに部員たちしか入れない部室にまでいつの間にかカメラが設置されてあった。

当然だがその親御さんたちが部員である子供に指示し、誰も知らないうちに設置したのであろう。

さらに悪意を感じることは、その映像すべてには編集がされており、上級生たちが手を出したところばかりが映し出されており、その手を出した経緯などはすべてカットされてあった。

そしてその映像を親御さんたちは「いじめ」の証拠として高野連に匿名で郵送し、事件発覚となった。

沖縄県で有名であり、英雄とも称されている「裁監督」という人物がいる。

彼の自伝ともいえる映画も作られたぐらいの人物である。

なぜ彼がそこまで英雄と称されるようになったかは、それまで沖縄県代表の高校野球を全国レベルまで押し上げた実績を買われたからだ。

昔の沖縄代表は、1回戦敗退が当たり前の位置であった。

しかし彼は、沖縄県代表でも指導の仕方で変わる、子供たちの能力はたとえこの沖縄でもどこでも一緒である、その理念からそれまでの指導方法を変え、一心不乱に高校野球に情熱を注いだ。

そして、彼の高校は沖縄史上初の「2年連続決勝進出」の快挙を成し遂げた。

惜しくも優勝はできなかったがこの2年連続決勝進出は多くの県民に対し、本土に対しての劣等感を払拭し、「俺たちにもできる」という意識を植え付けた。

当時の野球部員だった人たちが語る彼の印象はほとんどが同じ印象だった。

「あの監督の指導は指導ではない!もうほとんど拷問だった」と・・・

「よく死人が出なかった!それぐらいめちゃくちゃだった」と・・・

おまけに彼を知る人たちがよく言う話で。

「あの監督ほどエコひいきが強い監督もいなかった」と・・・

彼はそんな指導を何十年も続けてきたが、一度として部員からも、もちろん親御さんからも問題視されてはいない。

彼の有名な話で、彼は無類の女好きで酒好きであったという。

毎日連夜のように夜の繁華街で女性をはべらかして豪遊していたという。

しかも驚いたことに彼は無一文で毎日高級クラブに通っていた。

当然お勘定は払うのだが、それが全て部員の親達が持っていたという。

一番えげつないことは、レギュラー線上の微妙な立場の部員の親たちに白羽の矢を立て、相当な金額の「お小遣い」と称するお金を引き出していたという。

ま〜英雄の陰にはそんな泥臭い話もあるという典型なのだろうが、しかし、実績は嘘をつかない。

現実にその彼の実績はその後も引き継がれ「優勝」という沖縄県民悲願の実績は彼の功績といっても過言ではない。

彼の代名詞でもある「しごき」「エコひいき」「体罰」

現代の人々はこれをどう捉えればよいのであろうか?

私にはわからない・・・・・










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 ■ 2018/02/12 (月) 善意というもの A


とある学校の運動部での出来事だった・・・

そのご夫婦の息子さんはそのクラブ活動を一生懸命に取り組んでいたそうだ。

その息子さんには弟も居て、年の差がそれほど無い弟も同じクラブ活動に所属し、兄弟で一生懸命にクラブ活動に取り組んでいたそうだ。

そんな中、お兄さんである彼は、どの様な理由ではわからないがそのクラブ顧問から体罰に近いいわゆる「しごき」を命じられた。

彼はその「しごき」を命じられたまま受け入れ、一心不乱にその「しごき」に耐え、長時間に至るまでその命令は止むことがなかった。

時期は真夏の猛暑が続く、炎天下の中の体育館での出来事だった・・・

彼はあまりにも続くその「しごき」と、猛暑の中の行動で体力の限界に達し倒れた。

しかしその顧問はその彼の行為を「芝居」と決めつけ、無理やり叩き起こし、引き続きその「しごき」の継続を命じた。

彼は朦朧とする意識の中で、その「しごき」を継続し、事故は起きた・・・

彼は途中で完全に倒れ意識が戻らない、顧問もさすがにこれは一大事と思い救急車を要請、しかし彼はその後、病院で息を引き取った。

死因は「熱中症」

炎天下の中と「しごき」の連続性の中で極度の脱水症状を引き起こし、彼の若い命の灯はついえてしまったのだ・・・

彼の命の叫びはは在った。

しかしそれは顧問には届かなかった。

それどころかその顧問はその心の叫びを他の部員が見ている前であざ笑うが如くこれを「芝居」と決めつけ、彼の叫びを貶め、さらにキツイ「しごき」を命じたのだ。

同じ部員であった弟もこの一部始終を見ていた。

兄の心の叫びを弟は、これはただ事ではない・・と思っていたが強権的なこの顧問の性格を熟知していた為、声を出せずにいた。

しかしこれは他の部員たちもそうであっただろう。

そもそもこの顧問はこの学校に元から居た人ではなかった。

他の学校から引き抜かれてこの学校へ赴任して来た人であった。

なぜならこの顧問はある意味「実績」があった。

他の学校でそのクラブ活動で「心技体」の向上への「実績」が認められ、この学校へ招聘されたのだ。

であることからこの顧問は独自の「教育」という理念の自由度は学校からも相当認められている。

このご時世、学校生活においての不祥事が盛んに取り上げられている折でもこの顧問はその枠を飛び越えて自由度は相当あったと容易に想像できる。

それがかえって不幸を招いてしまった結果とも言える。

自由な教育理念を掲げ、強権的な発言、行動、しかも学校のお墨付きで実績もあるとくれば大人たちでさえ、さらに子供でその部員ならなおのことその顧問のする事に異論を発することなど出来るはずはないであろう。

事件事故は、ある意味全ての条件やタイミングが備わった時に発生するものだ。

その意味ではこの不幸も、すべての条件、タイミングが備わってしまった出来事だった。










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記入なし 指導者の技量不足だね。高校の運動部は20年前でも1時間起きの給水は当たり前なのにとても残念。 (18/02/12 15:42)


 ■ 2018/02/07 (水) 善意というもの @


また久しぶりに日記を書いてみた。

それと言うのも私の身近な所である出来事がどうしても私自身が納得のできない事柄が有ったためだ。

それは「善意」と言うものにどうしても納得がいかないことだ。

ちなみにこの「善意」という代物はいったいどういった事柄を指す行為なのだろうか?

私はこの「善意」というものにどうしても懐疑的に映ってしまうのだ。

私は思う・・・

世の中のあらゆる善意はとどのつまり、「自分自身への自己満足」に過ぎないと思っている。

本来、善意という代物は「利他主義」が大前提と思うがしかし果たして大方の善意はいかがだろうか?

本当に利他主義を全うしているだろうか?

世に存在している多くのボランティア活動、助け合い、そのほか一見してはさも慈善事業と見受けれるもの、「正しさ」「公正」などを標榜している多くの活動。

果たしてそれは本当の意味で世の為になり、救いの手となっているのだろうか?

そもそも正しいことっていったい何なのだろうか?

人の持つ社会、生活、コミュニティや道徳などは国によっても千差万別で地域によっても目指す方向が違う場合もある、ある地域、コミュニティ、もっと言うなら個人でさえ正しさのベクトルは同じではない。

一方では正しくてもある一方ではその正しさはその人にとっては迷惑千万ということも多々ある。

正しさや公正を一方向に特定する事など出来はしない。

特にそれが「集団」に対して推し量ることはある意味「ファシズム」という政治的手法である。

民主主義ではこれに対し「多数決」という手法を取り入れるのだがこれはこの答えに対して決着を着けるための手法でしかない、であるから正しさや公正は逆を言えば答えがないと言っていることに等しいのである。

それが前提にあるにも関わらず人は盲目的にある一つの「善」になんの懐疑心も持たず行動を起こしたりする。

そしてその原動力は私が思うに確実に自分への「美徳」へと繋がっているように思う。

これは果たして善なる行為と本当に言えるのだろうか?

私にはこれほど虫唾が湧く行為はないように思う。


ある出来事があった・・・


その出来事は全国ネットにも取り上げられ、割とニュースの一端を飾った。

それはあるご夫婦の子供がある学校のクラブ活動の場で命を落とし、その責任追及を求めた夫婦が学校側を相手取り、長年の闘争の末勝利したというありがちな話だ。

私はひょんなことからこのご夫婦と接点を持ち、この闘争に勝利するために築いた団体とも接点を持つに至った。

私はあらゆる事柄に対して一つの方向性には肩入れはしない、いつも客観性を重んじることに重視しているためだ。

当然のことではあるがこの団体、もちろんこのご夫婦も間違いなく「聖戦」と迷いもなく思っているし正義の御旗を全面的に振っている。

そして当然のことながらこの行動に対して問題提起されている学校側が悪の権化とされているが果たして本当にどうだろうか?

学校側には一分の正義もないのであろうか?

結局はそれが個人、団体では判断ができないが故「裁判」となるのであろうが・・・

私の個人的な意見ではあるが・・・

物事には「決着の着けていいことと悪いことが有る」と思っている。

大人としての倫理観として、私利私欲に対してと、公共に対しての倫理観は必ず併せ持つべき事柄と思っている。

特に、大人は「公共」というものに対して必要以上の重大性を意識するべきと思っている。

「私」と言うものを重大に思う事は「子供」という烙印を押されてしまうことが社会であり、社会性とは「公共」を指していると言っても過言ではない。

この価値観に照らし合わせてみると、私はこのご夫婦及びこの団体のとっている行動はどうしても「私利私欲」にしか見えず、公共を著しく損なわしていると感じずにはいられないのだ。

もちろん今のその他の報道や出来事の中にも公共を著しく貶めている事柄は実に多い。

私が取り上げたこの事柄はその一部に過ぎないがあまりに身近に起こった出来事と、そのことに対して盲目的になっている人々を目の当たりにし、憤りを感じ書いてみた。

詳細はまた後日書くことにする。

それまでまた・・・・







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