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無色の妄想日記タイトルを変更しました。 現在、福島県郡山市に仮寓させていただいている。 ありがたいことです。 旅をしている時の状況が時に思い出される。泊まる当てもなく、地図を片手にひたすら歩いた。雨の中、強風の中、雪降る中、そして、暴風雪の中。ひたすら歩いた。歩いている時には不思議に恐怖感や切迫感は無かった。何とかなるという気持ちですね。 今、雨、露、雪、風を凌げる部屋を提供していただいている。このことがどれほど嬉しい事か。実感している。 残された時間がいくらほどあるかは判らないが、残された時間を、自身の身魂を磨くために使おうと思う。スピリチュウアルを学んできているのだから、自身が信じる道を進む。 ただ・・・それだけ。 |
■ 2013/03/10 (日) 3月10日 |
福島県郡山市。
午前中は初夏の日差し。昼にあられ交じりの雪が降り、その後は真冬。その上強風と来た。凄い天候です。 0912 郡山駅前 0.244μSv/h さくら通りの公園 0.345μSv/h 麓山公園 0.433μSv/h 中央図書館 0.195μSv/h これまで雪により低く測定されていた値が、今後は、降り積もった放射性物質が風により飛び交い高くなるでしょうね。郡山市でも、所々で除染がされている。 復興、再生とは・・・!? この日記は個人の日記だから、被災地の方々が読まれると、不愉快な内容になるが、私自身が感じたことを記したい。 震災だけならば、復興、再生はできる。 しかし、原発崩壊に伴う放射能の拡散。いまだにじゃじゃ漏れ状態の原発。政治家は、「経済の再生」を強調している。その「経済」を築いているのは人という事が判らないのだろうか!?福島の人たちの感情を喚起して、放射能汚染地帯に戻そうとしている。いったい、これまでの「国民の生命、財産を守る」という理念はどうしたのでしょうね。政治家、官僚の頭の中には、経済というグラフがあるだけで、そのグラフには、「自国の人命」というものは入っていないのでしょうね。だから、国際競争、経済復興などという看板がかけられる。そこには、自国の国民の人命、悲哀というものは入っていない。 「ワンピース」というアニメがある。 その中で、海軍が発する「バスターコール」(確かこの名称だと思う)なるものがある。バスターコールが発せられると、対象となる島は完全に破壊される。その島に生きる人々、動物、植物などすべてが消される。世界政府は、地図を見ているだけで、その島に生きているものの事など考えない。まさしく、今の日本の状況そのままです。ワンピース的に言って、現在の日本は、支配組織に「バスターコール」をかけられている。 かつて、ドイツのアドルフ・ヒットラーは言ったといわれる。 「東方が巨大な実験場になる」と・・・。ドイツの東方とは、日本も含まれる。現在の中国も、支配組織の実験場にされていると思う。文化大革命後の人倫の喪失により、「お金」だけが価値があるという思想に塗れている。壮絶な宗教弾圧により、その宗教信者たちの臓器を世界中に売りさばき、「お金」を得て、中国の支配層の子弟達は海外に逃れている。また、周辺国の侵略も行っており、その目くらましに、「日本」という国を利用している。海外での中国人の行いに非難が起きているのはそのため。かつてのポルポト政権下における少年たちの行いも実験(人というものは、教育により、どこまでコントロールできるか!?) 3月3日 0950 郡山駅前 0.244μSv/h さくら通りの公園 0.329μSv/h 麓山公園 0.417μSv/h 中央図書館 記録漏れ ふと、思い出す。昔、動物たちの世話をしていた妄想世界のことを・・・。 「フクシマの正義」 開沼 博 著を読む。 p132 ・・・とりあえず、避難している住民が戻れるかどうかの判断傾向には、三つぐらいのパターンがある。 まず一つ目が高齢者。これは想像しやすいけど、多少の線量があろうが、人体に影響が出るのが早くても5年後10年後ならば帰りたい。家の周りを散歩したり、慣れた人間同士でお茶を飲んだり、畑に行って土いじりをしたいと。ただ、現実には、個人商店とか公共交通機関が再開しないうちは戻っても生活ができない。 もう一つが子育ての世代。 子供がいることもあって、福島を離れられるならば離れたい。でも、生活費はある程度維持しなければならない。父親は元の仕事をやめられない。警戒区域の中に事務所があった会社で、いわき市あたりに拠点を移しているところも少なくない。いわき市で家族そろって生活をするか、母子だけ遠くに住んで、父親だけ働くか。家族が離散しているって言うこと。そうすると金はかかるし、わざわざ離れている異様な人には、被爆に神経質になっている人も多いいから喧嘩になって、親兄弟を巻き込みながら、家族関係がぎすぎすしている場合もある。 最後は、子供のいない世代。 彼らはあまり地元に帰ることへの執着はない。除染してもどうせだめだろうというあきらめもあるし、そもそも仕事がないから、意外と気楽に避難先で新しい仕事を始めている人もいる。・・・ このことは、現在のテレビニュースでも取り上げられ始めている。 現在の状況はまさしく(あらゆるところで)「分断」という渦が巻き起こっている。 3月4日 0912 郡山駅前 0.212μSv/h さくら通りの公園 0.328μSv/h 麓山公園 0.411μSv/h 中央図書館 0.169μSv/h 郡山水道局 0.404μSv/h 開成山公園サブグランド 0.378μSv/h 風はやや強いが日差しが暖かい。気持ちのよい天気です。 3月5日 発作 現在の時刻、02:17。 夢を見た。 刑務所(と認識している)の夢。受刑者なのか職員なのか・・・!? 部屋がありロッカーがある。 場面は変わり、街中にいる。走っている車の運転手を見る。そのとたん、底知れぬ恐怖感を覚える。目覚める。吐く。 体が反応している。こんな事は初めて。ちょっと混乱している。 少し時間を置き、落ち着いてから考えをまとめる。昔から発作のように忘れた時に出てくる。言い知れぬ恐怖感に襲われる。襲われたら、何もできず、ただ耐えるのみ。この旅に出て初めてである。 ・・・。 夢を思い出しながら考える。 はじめは刑務所と認識している夢。私は、職員らしいと思う・・・。そして、場面は変わり、街中の道。車(バン)が走っている。その運転手を見たとたん、忘れていた恐怖感に襲われる。そして、目覚め、吐く。さてさて・・・!? 私の過去世か・・・!? ならば、この恐怖感はいったい!?過去世で、ひき殺されたか!?(轢き殺された時の恐怖感を持ち続けている) それとも、ひき殺したか!?(この場合ならば、運転手は私自身ということになる) もうひとつの考えは、私以外の霊の記憶を体験しているのか!?(この事も、ちょっと気になる経験をしている。小学生のころ、金縛りにあった。意識は目覚めているのだが、体が動かない。上から押さえつけられるような感じで、息もできない。喘息患者のように、ゼイーゼイーという言っている。このとき、不思議なことに、私は必死で九字(臨、兵、闘、車、皆、陣、烈、在、前)を唱えている。そのころは知りもしない九字です。このことは今になっても気になっている。 すぴ的に考えても、精神病理的に考えても、どうでもよいのだが、時折、忘れた頃に襲われる。どうしようもない恐怖感。それから、私の人生が狂ってきている・・・というと責任転嫁になるかな。 (苦笑 現実的に、このような状況に陥ると、どうしようもなくなる。うつ病のように発作的に自殺をするとかの問題でもない。なぜならば、霊訓の知識がある私には、この恐怖感に襲われている時に自殺をすると、無間地獄のような世界に行くことになる事は理解できる。 この恐怖感はいったいどこから来るのか!? 分からない事は、この恐怖感が収まり、しばらくすると、この恐怖感自体の感覚がわからなくなる。思い出そうとしても、思い出せない。発作のような感覚です。参ったものだが、持病と思わざるを得ないね。 (しかし、この恐怖感を小さくした感覚は、人というものの中に存在しているということは理解できている私がいる。だから、逃げ回っているのかもしれない・・・。) 0913 郡山駅前 0.243μSv/h さくら通りの公園 0.331μSv/h 麓山公園 0.424μSv/h 中央図書館 0.183μSv/h 何事もなかったように、図書館で読書にふける。 3月6日 昨日は18時過ぎにベッドに入り熟睡。0時過ぎに目覚める。夢は見ない。恐怖感もなし。2度寝をする。 0924 郡山駅前 0.238μSv/h さくら通りの公園 0.325μSv/h 麓山公園 0.411μSv/h 中央図書館 0.184μSv/h 今日はよい天気です。風もなく、日差しは暖かい。麓山公園でのんびりとしている。のんびりしすぎている、ただただ・・・この地に存在しているだけの存在。 3月7日 0900 郡山駅前 0.239μSv/h さくら通りの公園 0.340μSv/h 麓山公園 0.430μSv/h 中央図書館 0.179μSv/h 麓山公園の池に、50cmを超える鯉が幾匹もいる。暖かくなってきたので出てきたのでしょうね。かもにあげたパンを、本当にゆっくりとした動きで食べている。ちょっと、感動した。 「フクシマの正義」 開沼 博 著 p151〜152 ・・・例えば、放射線が危険か安全かと言う論争を見る。危険だというものは安全だという者を「この期に及んでまでそのような愚かしいことを言っているのか」と非難し、逆に安全だと言う者は危険だと言う者を「そんなにヒステリックに騒ぎ立てて常軌を逸している」と攻撃する。 互いに互いをカルト宗教団体のように見立てて、議論が成立しないどころか、議論すればするほど「分断」は深まる。一方で、「普通の人」が関与し得ない状況が出来上がる。都内で二人の幼児を抱える母親はこう語った。 「最初は、本をいろいろ読んでみたし、デモや集会に行ってみようかなと思ったんです。何の情報もなかったし、非難しようにも出来ない事情があったから。ただ、熱心なお母さんから「でも行きましょう。集会行きましょう。署名してください。」と、しつこく言われるようになって、悪気はないのでしょうけど、何か違うなと。 「マスコミが言っていることは嘘と捏造で、政府は真実の隠蔽ばかり。このままでは大量の子供が病気になる。」っていう話をすごく熱心にするのだけれども・・・」 「熱心なお母さん」を槍玉に挙げるつもりは全くない。彼女からすれば、「私はこんなに情報を集めて、皆が判っていない多くの事を知っている。みんなの健康とこれからの社会のことを考えているのに、何でわかってくれないの」と、思ったような反応が返ってこない状況に孤独感を募らせて正義感をたぎらせる。一方で、それを見る側は、その「善意」に共感を抱きつつも距離をとり、「分断」が生まれる・・・引用終わり この文章は非常に大きな意味を持つと感じる。確かに開沼氏の指摘は当然です。このような状況は日本人特有のものなのかもしれない。現在の日本人がおかれた状況を他の国民が経験した場合、どのような動きになるかは、現在の世界中のニュースなどを見れば判るというものです。 民族性なのか、日本人の全体性(集合意識的動向)なのか、WW2以降の愚民化政策の影響なのか判らないけれども、熱しやすい人と醒めている人が混在している。 私は幾度もメモしてきたが(雑談でもよしがのスレッドにも)、目を三角にして、こぶしを振り上げデモに参加できる人、したい人はすればよいし、口角泡を飛ばして議論したい人はすればよいと思う。しかし、言っていることに共感はするが、行動に移す事に抵抗を持つ人も少なからずいるのも事実です。行動に移す事を躊躇している人に強制するべきではないと思う。デモ等の空間の意識波動は渦を巻いています。自分で自分を維持するのが困難になります。宗教組織の儀式やどこかの国のマスゲームなどの集団行動、宗教的意識での集団行動(中東などで見られる)。自分を見失い、流され翻弄されてしまいます。気づいたときには、どこか別の場所に(意識の上で)居たと言う、これまで繰り返されてきた誘導に流されます。 ただ、これまでの政府、学者、マスコミの情報に依存していた姿勢を改め、自分自身で考え、感じ、判断することの必要性を改めて学ぶ必要がある。 これまでの動きは、戦時中の「右向け右」なのですよ。マスコミ情報に踊らされて、戦時中と同じ動きを無意識の上に行っているのです(誘導されているのです)。 一人ひとりが、その置かれた立場、環境の中で、独立した意識を持つ必要があると思う。 3月8日 0914 郡山駅前 0.232μSv/h さくら通りの公園 0.331μSv/h 麓山公園 0.414μSv/h 中央図書館 0.171μSv/h 徒然に・・・。 国とは・・・!?社会とは・・・!?経済とは・・・!?命とは・・・!?とことこと子・・・と歩いて東北を回ってきた。ただただ歩いてきただけ。何も意味はない。あるとすれば自己満足。私は旅に出る前から「循環」というものを考えてメモしてきた。 自然は循環している。人間は、自身の肉体的生命の範囲、尺度で考えている場合が多い。いろいろな意識が錯綜しているが、特に現代は「お金」を中心とした、目先のことばかりに右往左往させられている。 福島原発の崩壊に伴う放射能の拡散。しかし、政府は経済第一の考え。その経済を担っているのが人ということを度外視しているようだ。ただ、日本人が少なくなれば、移民を受け入れて働かせればよいという考え。陰謀論的な組織の支配を受けているから、このような考え方になるのでしょうね。平然と棄民政策を取ることが出来る。なんせ、地球には人間が余っているのだからね。 3月9日 0936 郡山駅前 0.244μSv/h さくら通りの公園 0.352μSv/h 麓山公園 0.407μSv/h 中央図書館 0.189μSv/h 「原発避難」論 山下祐介 開沼博 編著 を読む。 |
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