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無色の妄想日記

タイトルを変更しました。

現在、福島県郡山市に仮寓させていただいている。
ありがたいことです。

旅をしている時の状況が時に思い出される。泊まる当てもなく、地図を片手にひたすら歩いた。雨の中、強風の中、雪降る中、そして、暴風雪の中。ひたすら歩いた。歩いている時には不思議に恐怖感や切迫感は無かった。何とかなるという気持ちですね。

今、雨、露、雪、風を凌げる部屋を提供していただいている。このことがどれほど嬉しい事か。実感している。

残された時間がいくらほどあるかは判らないが、残された時間を、自身の身魂を磨くために使おうと思う。スピリチュウアルを学んできているのだから、自身が信じる道を進む。    ただ・・・それだけ。

 ■ 2015/04/04 (土) 私的スピリチュアル


穏やかとはいいがたい日々を送っている。
戻り寒波の時、いつも部屋は冷蔵庫状態なのだが、布団の中まで冷蔵庫状態になった。布団の中は体温で温まっているはずなのだが、布団の中に居れない状況になった。起きて、防寒着を着てじ〜っとしていた。毎回、時間は2時過ぎ・・・。丑みつ時です。なんかな・・・考えさせられる。右首筋から右肩にかけて、気持ち悪い位に疼いている。それは、寒波が去った今も同じ。この症状は以前にもあった。わが身の内に潜む何かが暴れているのでしょうかね!?
まあ〜いいけどね。


・「馬鹿は死ななきゃ直らない」
近頃、この言葉が浮かんでは消えている。

この言葉は真実なのか!?それとも真実ではないのか!?
故に、時間はあるから妄想してみた。

この言葉の中にある「馬鹿」の意味は、魂の中の未熟な部分と解釈する。(また、私にとって、訳の判らない差別用語だ〜!と言って来る人がいるかもしれないからね。)

では、この言葉は真実を表しているとするならば、「幽霊」(自縛霊、浮幽霊)という存在は、この物質世界に存在することに矛盾を感じる。
なぜならば、幽霊という存在は、生前の”怒り、悲しみ、憎しみ、ねたみの感情”にとらわれ、この世に縛り付けられているものと妄想しているからである。

”意識はエネルギー”である。

それも、巨大なエネルギーである。
その大きなエネルギーが手械、足枷となり、肉体が滅してもこの世界に縛られ続けている存在。それが幽霊。
「馬鹿は死ななきゃ直らない」
ならば、肉体が滅することにより、馬鹿な部分である、”怒り、悲しみ、憎しみ、ねたみ”の感情は昇華されるはずである。されど、「幽霊」という存在は現実に存在している。

「馬鹿は死ななきゃ直らない」
この言葉は真実ではないとなる。
「馬鹿は死んでも馬鹿である」
これが真実になる。

ならば・・・視点を変えて霊界側から考えてみたい。

今までは、我々が存在している物質界からの視点であった。肉体が死を迎え、新たな世界である霊界という世界からの、新たな生の視点である。

私が選択した「シルバーバーチの霊訓」の知識によると、霊界では自身の馬鹿な部分・・・未熟な部分が矯正されないようだ。同じような魂が集い、一つの世界を形成している。だからこそ、自身の未熟な部分(馬鹿な部分)を矯正することにより、より軽い、上位の世界に行こうと試みる。

(ここで予断だが、この世界に存在する宗教なるもので、自身の外の第三者により選択されるという思想は、私は否定している。この事は、以後メモして行くことにする。)

霊界では、自身の馬鹿な部分(未熟な部分)はより強調されて認識されるようだ。だからこそ、この馬鹿な部分(未熟な部分)を矯正したい、直したい欲求に駆られるようだ。より上位の世界に逝く為にね。(霊界の下位の世界では認識できないことでも、ある一定の意識レベルの世界では、より上位の世界が認識されるようです。)だからこそ、霊界において、厳しい人生プログラムを組んで、魂の同胞、高位の指導霊、守護霊にお願いをし、霊界での死を選択し、物質界に生まれてくる。
この妄想ならば、「馬鹿は死ななきゃ直らない」という言葉は真実になる。

ここで、大きな落とし穴が待っている。

どんなに勇ましい思いを持っていても、この物質界に生まれて来ると、その持っていた思いはきれいさっぱりと忘却の彼方に追いやられている。そして・・・悪戦苦闘して肉体の死を迎える。
ただね・・・余程の信念があるか!?指導霊、守護霊が導いていない限り脇道に逸れる事になるのではなかろうか!?この物質世界はそれほど厳しい世界であるということになる
のではなかろうか!?

現在のこの物質世界では・・・
「自分さえよければ良い」
「今さえよければ良い」
「お金さえあれば良い」
という思想が蔓延している。ちょっと待ってよ!そうじゃないだろう!と、言うものならば、この物質世界の価値観から弾き出される。そして、皆からさげずまれ、”馬鹿”にされる。

さてさて・・・。
この「馬鹿は死ななきゃ直らない」と、言う言葉を初めに発した人は誰なのかは知らないが、現在では、馬鹿にし、貶める言葉として使われているが、私としては意味深長な言葉と捉えている。


・「シルバーバーチの霊訓」の私的解釈
以前、このような事をメモした。

コピーする。

・肉体は魂の道具。魂が本体。魂は永遠。
・この世に生まれてきている目的は、肉体の死後の世界への準備。
・自分でしたことは、自分で責任を取る。

これだけ子供たちに教えることで、犯罪抑止効果は絶大だと想う。現世利益、責任の転嫁、他力本願・・・等は、支配の為の詭弁である。
「霊訓」は宗教ではない。知識である。あたかも、就職活動をしている学生が、目的とする会社の情報を集めるのに似ている・・・と、想う。情報は「知識」ですからね。霊的真理は「単純・明快」です。「単純・明快」だから、物足りなくなり、「人間的権威」などの修飾して、「宗教」ができている。
日本には、「三歳の童でも理解できることが、八十の翁でも行いがたし」と言う諺があ
る。真に真理を得ていると想う。 コピー終わり

我々は何故この世界に生まれてきたのか!?
肉体の死を経て、新たな世界に逝く為の準備である。人それぞれ重荷を背負っている。その重荷を少しでも軽くして、より軽やかな世界へ逝く為にこの世界に生まれてきている。
色々な思惑、思想、宗教・・・等々がある。

信教は自由である。
大切なことでもある。
河合隼雄さんの本から引用する。

「・・・・宗教の根本として”私とのかかわり”というものがある。科学的知識の持つ普遍性は実に強力である。しかし、人間が自分を生きようとするとき、科学知識だけでは十分ではない。各人にふさわしい宗教を持つ必要がある。
しかし、現代人は、たとえ自分がどのような宗教に頼るとしても、それは世界的に見て、普遍的なものではないということを自覚していなければならない。絶対性を信じることにより、組織をつくり、組織防衛に向かう。・・・・」
引用終わり。

この文章を引用したのは、今の世界のキリスト教の動きに関して思うことがあるからです。後ほどメモしたいと思う。

さて、我々は何故この不愉快な物質世界に生まれてきたのか!?コピーしたように、肉体の死を経て、新たな世界への準備である。人それぞれ重荷を背負っている。その重荷を少しでも軽くし、より軽やかな世界(宗教的には天国的世界)へ逝くべく努力しているのである。しかし、この世界は想像以上に厳しい世界である。重荷を軽くするどころか、より重荷を増やさせる世界である。そうなると、より重苦しい世界(宗教的には地獄的世界)に誘われている。
まあ〜唯物主義に捉われ、”今さえよければよい””自分さえよければよい”という考えの人には理解できないことですがね
信教は自由であり、大切なことである。
宗教に関しては河合先生の本の内容を引用させてもらっているが、我々は肉体をまとった霊である。霊である限り、霊的な世界に興味を惹かれるのは当然である。しかし、数千年前に降ろされた訓えを頑なに信じ(盲信・狂信)て、現代の世界に合わせるということには、いささか不都合が生じるのではなかろうか。日本には”温故知新”という言葉がある。”古きをたずね、新しきを知る”ということだが、現在の世界を見ていると、精神的な進化が見られないのではなかろうか。

現在の宗教というものは、「依存と責任転嫁 支配と収奪」と、思えてならない。その代表格はキリスト教。教義に依存させ、何かあれば、イエス・キリスト教が贖ってくれている、背負ってくれているといわれ、宗教組織に支配され、収奪を受けている。キリスト教会の聖職者が”ハーメルンの笛吹き男”になり、性職者として児童虐待をしていることが報道された。キリスト教という笛を吹きながらね。この事はあやふやにされることでしょうね。なぜならば、今の世界で”自由”を吹聴する傾向がある。信教により、自身の”自由”のためにしたこと。責任はイエス・キリストが取ってくれる・・・という身勝手な自由という信教。どうなのであろうか!?

私が選択した「シルバーバーチの霊訓」の知識によると、スピリチュアルの最高指導霊はイエス・キリストとのこと。そのイエス・キリストが涙を流されているとのこと。それはそうでしょう。民衆のために処刑され、復活したならば、民衆のために、民衆が”自由”を謳歌するために「責任」を押し付けられているのですからね。本当の「聖書」はバチカンの奥の院の金庫に収められ、「依存と責任転化 支配と収奪・・・そして、混乱と破壊」に利用されているのです。悲しいことです。

キリスト教の心ある一般信者さんたちはこの現状をどのように感じているのでしょうかね。「天国」と「地獄」の教義に縛られ、地獄を見ている子供たち。いや、子供たちばかりではない。意図的に起こされている紛争地帯の人たち。
もうそろそろ意識進化のステージを上げる時に来ているのではなかろうかと感じている。それとも、この世界毎ご破算になるか・・・!?

本当に、宗教とはどのようなものなのでしょうね。一神教の神の名の下に殺戮を正当化する。精神的には、古代、中世代のままではないか。それも、神の名の下に挑発を重ねるキリスト教。身勝手な自由を標榜し、責任は神に押し付ける。相手は載ってくれば、マスコミを動かし、大々的に悪役を作り上げ、国際犯罪連合を動かして征伐する。これも、かの組織の常套手段になっている。ワンワールドを目指してのね。

そうそう・・・。
霊訓で、自身がしたことは、自身で責任を取る。というのがある。このことが、巷の宗教とはぜんぜん違うことでしょうね。依存か自立かです。

「神と共に 神の前で 神なしで生きる」

この姿が大切だと思う。
神に依存しない生き方。
神は自身の中に存在する。わざわざ、自信の外に創る必要は無い。
聖書では、「髪の毛一本まで数えている」
     「復讐は神がする」
諺では  「天網恢恢祖にしてもらさず」
とある。

この事は、誰一人として例外も無く持っている「良心(良神)」のことである。生まれたときから死ぬまで一緒に人生の旅をする。黙って、じ〜っとみている。そして、肉体の死を迎えると、自身の良心(良神)と人生の回顧を行う。その場では嘘は通じない。自身に対しているのと同じことだからね。この良神が閻魔大王であり、自身のオーラに刻まれているのが閻魔帳とも考えられる。
だからこそ、自身の魂に恥じぬ生き方が大切sになるのだがね。

難しいことです。


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