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無色の妄想日記タイトルを変更しました。 現在、福島県郡山市に仮寓させていただいている。 ありがたいことです。 旅をしている時の状況が時に思い出される。泊まる当てもなく、地図を片手にひたすら歩いた。雨の中、強風の中、雪降る中、そして、暴風雪の中。ひたすら歩いた。歩いている時には不思議に恐怖感や切迫感は無かった。何とかなるという気持ちですね。 今、雨、露、雪、風を凌げる部屋を提供していただいている。このことがどれほど嬉しい事か。実感している。 残された時間がいくらほどあるかは判らないが、残された時間を、自身の身魂を磨くために使おうと思う。スピリチュウアルを学んできているのだから、自身が信じる道を進む。 ただ・・・それだけ。 |
■ 2015/05/29 (金) 言葉と感性と民族性と土地 |
河合隼雄 著 「日本人の心を解く」より引用。
転回点 人間を含めたすべてが単に自主的におのずから流れてゆくのならば「じねん」の現実における人間の役割は何なのであろうか。 言葉を変えれば、自我の役割は何なのであろうか。東洋においては、「じねん」に自分の人生を従えて行くために、自我の力を減じることの重要性が強調されてきた。 しかし、これが十分な答えのようには思われないのである。この問いをもっと深く検討するために、「宇治捨遺物語」からのまた別の話を参照したい。それは、「わらしべ長者」としてよく知られる民話となったものである。 ・・・略・・・ 若い侍はとても受身で、道中に降りかかってくるものをただ受け入れるだけである。しかしならが、馬が死ぬところを見て、侍の態度が変わる。 侍は積極的に馬を買おうとし、生き返るように観音様にお祈りをする。馬が生き返るなど誰も思わないから、侍の側からすると、これは大きな賭けである。 この抜き差しならぬコミットが、この物語における転回点である。 似た場面は多くの日本の物語に認められ、主人公の発達のための最も重要なポイントをなしている。 転回点なくしては、ヒーローは自分自身の受動性の餌食になったであろう。けれども、そのようなポイントは抜き差しならぬコミットなしには実現されることはなく、逆に危険が伴っている。もしも、馬が生き返らなかったなら、ヒーローはだめになってしまったであろう。自分の転回点が訪れているというのは、いつ、どのようにしてわかるのであろうか。それを決める基準は、何なのであろうか。答えは明らかである。 つまり、「じねん」に従うのである。 これがいわゆる自然科学的な観点からすると、無意味であるのはわかっているけれども、筆者の観点は個性という概念を検討することでより明らかになるであろう。 もしも、個性が自分、他者、物、自然の間の明瞭な区別をすることで確立されるのならば、世界を観察する一般法則が多く発見される。これらの法則を適用することで、自然は効果的にコントロールされる。しかしながら、このような集合的な意識に支配されている限りは、自分のユニークさを確立することはできない。 ・・・略・・・ 他方で、他者に対して開かれていると、ユニークな生を送れるかも知れない。しかしながら、この道のりは危険にさらされている。鯰が自分の父親であると信じることができるかもしれない。けれども、命を落とすかもしれない。ユング派の用語で言うと、自分の個性は集合無意識の中で見失われるかもしれない。 真に個性的な生は、ユニークな転回点も一般的な法則も、その両方を必要とする。 これらの転回点には、当然ながら規則はないのかもしれないけれども、我々はどこまでもコミットして物語を読むことを通じて、転回点への感受性を増すことができるかもしれない。われわれの夢というのは、実際のところ、このような物語であって、区別を超えた領域、すなわち「じねん」において、われわれ個々人に授けられるものである。 引用終わり。 転回点・・・か!? 社会人として、給料をもらいながら生活をしていた。その生活を続けることも出来た。が、頭にきて辞職した。再就職の当てもないし、再就職するつもりもなかったのでしょうね。当時のことを思えばね。そして、お金が無くなった。これ幸いに、あちらの世界に還ろうとした。しかし、うまくは行かない。というか、強烈な意識が介入してきて、「まだ早い、マンションを売れ」とのたまう。 マンションを売りに出したところ、10日で買い手が現れる。とんとん拍子に事が運び、残ったお金を持って旅に出た。 実際のところ、この旅の途中で野垂れ死にしてもよいという気持ちが強かった。しかし・・・不思議なものです。所々にサポーターが待っていてくれた。励まされながら、前に進み続けた。そして、福島県郡山市。 公園で鳥たちにえさをやっていると、老婦人に声をかけられ、今の下宿を紹介された。 今がある。 私の転回点はどこなのか!? ただ、はっきりと自覚できることは、「我」を出さないとうまく流れるということ。目には見えない世界の同胞が道を創ってくれる。私はその道を歩くだけでいい。しかし、働いている時には、「我」の槍で四方八方を刺しまくっていた。我々は自由意志を持っている。その自由意志の使い方次第で、八方塞になったり、逆に、道が開けることが理解できた。 「私が・・・私が・・・」(自己主張) 「あいつが・・・あの人が・・・」(責任転嫁) 今の世界で生きる限り、どちらも必要なことであり、必要のないこと。ここに、自由意志の使い方の難しさがあるのではなかろうか!? この旅に出たこと事態が、今思えばわからないことである。 何故旅に出たのか!?福島県を目指すならば、除染作業員を募集していたのだから、応募すればよいのに、ただただ・・・旅に出た。今、一応は気楽な、安定している生活を送っている。 旅に出てから、必死になって「神」「仏」・・・等々の存在に祈りをした覚えはない。ただ、目には見えない世界の同胞を信頼しての旅。「死」を覚悟したから、「我」が引っ込んだのかもしれない。 まあ〜まだ、今生の「課題」が残っているのでしょうね。 日本を一人の侍としてみると。 今までの政権は、アメリカに唯々諾々と従ってきた。しかし、今、「暴走内閣」と言われる安倍内閣が動いている。安倍さんが「神」に祈っているとは思えないが、多くの大和の民が気付きはじめている。大和の民は、何も日本人だけを指すものではない。肉体は魂の道具。大和の魂が白い肌の肉体に、黒い肌の肉体に宿っている。世界に配置されている侍、撫子たちが動き始めていると感じる。国家、民族、宗教・・・等々を超越した動き。 今の世界は大きな転回点に差し掛かっているのではなかろうか!? 大きな危険性を伴ってはいるがね。 そう思えてならない。 |
名前 内容
やまと 夜曲さん これからどのような道を歩んでいくかわかりませんが、不安感はないです。コメント、ありがとうございます。 (15/05/30 04:43)
夜曲 霊的真理をあれだけ伝えていたあなたです、大霊である神、その派遣者天使たちが放っておくわけがありません。奉仕。真理を授かったならそれを伝えるのはまず第一の奉仕です。やまとさんの生き方は摂理にかなっていたと言えるのでは。少なからず多くの人があなたの言葉によって啓発を受けているはず、そして、そうなってほしいです。でも、やっぱりシルバーバーチといっても僕の周りに知る人はいませんけどね。がんばってやまとさんの生き方を成就してほしいです。 (15/05/29 23:16) |
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