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人生???


 ■ 2004/09/22 (水) また少しだけ更新


この日記が日記としての機能を失ったのはすでに昨年のことなので、いまさら隔週化しようが隔月化しようがどってことないのです、私のいい加減な「人生紙吹雪日記」は。
あ、でも、タイトルを変更せねばらないかもしれない。人生を無意味とは最近思わなくなったのです。

で、修士論文はいま19000オーバーです。指導教官の宅に印刷して郵送し、「ご指導のほどよろしくお願い」しました。

当初の計画より少し遅れ気味です。
12月中旬の提出を目処に前倒しで10月にはいったんプロトタイプを書き終わり、11月で製品実用化を目指して改修、で12月にロールアウトの予定でいました。
元からこういう風に余裕を持っておいたので、まあなんとかなるかと。

内容的には、なんというか「死ぬことで人間の全てが完成する」という結論をなんとか回避してみようという方向性になってきました。
死ぬことで自分の人生の意味が完成するなんてことはなくて、自分の人生の意味つまり自分の存在することの<意味>が自分の手の内にないということを証明しつつ、
かつそうであることは<意味>を自分であくまで保持することより「良い」ことなのだと、
そう論証できれば私の勝ちです。

誰に、あるいは何に勝つのかはわかりません。ただ、恐らくなにかの勝負での勝ちだという気がします。


名前

内容

幸運を祈る なんだか難しそうですけど、頑張ってください。 (04/09/22 18:45)
(´・ω・`)しょぼんぬ 論文か…私もかなり前に書きましたが、何かいたがほとんど覚えてないです。執筆お疲れさまです。 (04/09/22 15:36)


 ■ 2004/09/10 (金) 少し更新


また一ヶ月空きました。

修士論文は、まあ9000字ほど書きました。
上限は60000字(原稿用紙150枚ほど)なのでまだまだ。内容的にもまだまだです。

前回ではどうも、だいぶあちこちはしょった議論になりました。
今回、新しく議論を展開するだけのタメがまだないので今日はどうしようもないのですが、
ただ、見通しとして、

1 根源的な意味(これまで言ってきたところでは「意味2」)は、私というものが見出しうる限りの一切のものの意味を基礎付ける。もっとも、この「基礎付ける」と言う言葉は、他の適切な言い方が見つかり次第切り替えるつもりです。

2 意味1は、その性質上、自己完結的な性質を持つ。

3 ここからが本題。自己完結的な性質であったとして、では、この意味1は一体どこからその意味を受けているのか。自らそれ自体のみをさして意味しうる意味、と言うものがありうるか。

4 考えられる解決。意味1の指し示すものには、その意味をなさ占めた当のものは含まれていない、という解決。つまり、「私」の全体を構成するものに、私に由来しないものが仰山含まれておる、と。

既に書いた部分は1の部分をやっている段階です。ただ、まだ基礎付けの部分に手がかかっていないと言う。
まあ、物理的にはともかく書かないといけないで、仕方ないから頑張ります。


名前

内容

4と5 ご活動の再開を、そこに再生の力が感じられることを、心からうれしく思います。不穏な板で、苦しんでいる人に深く関与するのは困難な作業ですが、それを成し遂げておられるぺけぽむさんには、敬服しています。お気遣い、感謝します! (04/09/22 21:10)
ぺけぽむ お久しぶりです、4と5さん! 執筆は順調と言うか堂々巡りで進まないと言うか。自殺スレで最近活動再開しました。板としては全体に物騒な感じになってますが、昨年と比べて自分の頭のつくりが変わったことを感じながら、「どこ吹く風」を心がけて書きこんでます。ともあれ、ご自愛ください。 (04/09/19 23:02)
4と5 私はまだ回復の途上ですが、このほど周囲の方々の善意と悪意(?)により、書く生活に戻る羽目に(泣)。おたがい頑張りましょう。 (04/09/17 23:04)
MOTOAKI ぺけぽむさんの日記を読んで過去の自分の姿を思い出しました。自分は決していい院生ではありませんでしたが。私の書いた修士論文は3万字程度でした。原稿用紙100枚もいかないものだったと記憶しています。確かに論文提出を控えた院生にとってこの時期は大事な時期だと思います。頑張っていい論文を書き上げて下さい。 (04/09/11 23:37)
韮山 なんだか卒論を思い出しました。(^^A) でも、修士だから、比べ物にならないくらい難しいことやってるんでしょうね。頑張ってください。 (04/09/11 02:40)
ぺけぽむ 考えながらだと大体一日に1000字くらいずつしか書けないので結構遅めです。早かった時は5000字のレポートを一晩で挙げたことがあるんですが…。 (04/09/10 17:39)
幸運を祈る 60000字ですか。凄い原稿用紙150枚ほどですか。大変でしょうが、頑張ってください。 (04/09/10 14:43)


 ■ 2004/08/18 (水) 意味について(三)


前回書いてから既にほぼ一月が流れ、私はその間まったく日記を更新しませんでした。
更新しなかったのはまさに私の思考がそこでとまってしまったからに他ならず、要するにその間私は遊びまくっていた、というのではありません。学生時代最期になるからと言う理由でサークルの練習に顔を出して一年生に「あのおじさんはだれ?」と言う顔をされ、懲りずに打ち上げコンパに参加して調子に乗って二次会まで出て行き、後輩の人生相談に強引に乗り、久しぶりにふらふらで家に帰ったり…と言う感じでした。
こう振り返ってみるとまさに遊びまくっている以外の何者でもなくいまや前言撤回やむなし。いや、それなりに勉強はしていましたが。

というわけで、先月の中断の続きです。

さて、くどく繰り返しますが、意味1は有用性です。
で、意味2は、まだその定義すらはっきりしていません。ただ、意味1が示唆する有用性こそが人間にとっての意味の全てであるということに対して、その‘全て’の「そと」を目指していることは確かです。

私の生活と言うか、人生に関する限り、私にとって有用であるものの「意味」は、私が死ぬとともに消えてしまう。私にとって、の「私」が消えてしまうからです。ただ、一般には信仰の問題と言うことになりますが、自分の死後になお未だ何かが残るのかと言うことを考えるとき、問題は既に有用性のレベル自体を超えてしまっています。自分の死後のことを考える、ということ自体が、すでに有用性をいともあっさりと打ち抜いてしまっているのです。自分がいない世界のことを真摯に考えれば考えるほどそうならざるを得ない。何故か? 自分がまったくもっていなくなった世界とは結局のところ誰も自分のために泣いてくれず、思い出してもくれない世界のことです。もともと死ぬと言うことはそういうことで、あたかも私など生まれもしなかったようになってしまう、そういう世界が究極的に、どん詰まりまで私の死んだ世界です。
考えれば考えるほど、私にとって何の関係もない世界に思えてきます。

しかし、ここで目を転じて見ます。私が生きている世界では、実に多くの死人が既に出ています。実際数え切れないくらい、人類開闢以来片っ端からみな死に続けている。人間の最終的な死亡率は100パーセント、というブラックジョークの一つも言いたくなります。しかしそうであるにもかかわらず、われわれの祖先の多くは大して自棄も起こさず、ということはどうせ死ぬんだからどうでもいいやとは言わずに、それなりに頑張ってきたらしい。そういう彼らも、実際には自らの死を超えたところに意味があるのか、とまったく考えなかったとは思えない。いや、正確には、「自分の死」と言うものが「自分の世界(有用性に縛られた世界)に開いた穴」とは思っていなかったのではないかと思えるのです。そうでなければとっくのとおに「文化」と言うものの意味がなくなってしまうように思えるからです。なぜって? つまり、自分にとっての有用性を超えてレベルのところに意味が成り立つのでなければ、わざわざ後世まで残ってしまうような芸術など、人間の誰もつくろうとはしないはずだからです。

つまるところ、かなり強引ですが、私が考えているのは、私たちが自分が生きていく方法を学ぶと言うことは、ある意味で「人間になる、人と人の間に参入する」ということは、この「有用性の外には何もない」という無意味が実際にはなにげなく乗り越えられていることを知っていて、その乗り越えの何気なく手段を実行してきた人間たちの‐その多くは無名の、時間がある程度立てば誰にも思い出されない死者たちの‐それを知らず知らずのうちに体にしみこませることではないかと思うのです。

さて、大いに脱線しました。またしばらく間が空きますが、今度はまた以前のようにミクロの視点でこういうことが言えるか、という、とても私にはムリそうなことをやってみたいと思います。


名前

内容

4と5 ご体調はよくなられましたか。拝読できるのを毎回楽しみにしております。 (04/08/20 22:17)
ブス子 そう、哲学的に「ケチをつけたり気を引いてみたり」と言われると、今後一切書き込みは控えます。 なんだそんなもんかと、思われるでしょうが、一応精神神経科パニック障害20年歴、薬でもたせて近場を働いてました。 あと、10年前の1月に筋萎縮性即側硬化症で、妹の婿が発病1年で亡くなり、その年の11月に兄嫁が子宮癌で亡くなりました。 別に世間ではたいしたことではないでしょう。 こんな返信を貰うとは思っていなかったので非礼お詫びいたします。 3つの事は繰返しますが漫画の引用、私も納得はしてません。書き込む相手を間違える気を悪くさせる事は度々あるようです。 そういう方にはもう構わないようにします。すいません。 (04/08/20 10:12)
ぺけぽむ レス感謝です。>ブス子さん 私はさしあたりこういうことを考える限りで私であることの輪郭を保っているので、考えるなと言われると死になさいといわれているのに等しいものです。オタク殺すにゃ刃物は要らぬというか。あと、今回の説がどうして「健康な人」に限られると思われたのかはっきりおっしゃってください。私はその状態を経験したことがないのですが、あなたはその経験がおありなのでしょうか。経験の在不在を振りかざして私の発言を批判なさるならまずご自身の経験を素材にされるのでなければ不当で、実際その状態にある方に対して不遜なことと存じます。これらのことを明らかにして戴かない限り、これ以上あなたを指名した上での対話はいたしません。付け加えますと、私はこういうことをかんがえている限りでは特に苦しんでおりません。哲学することとは自分の苦しみを享受することすら解体するものだと考えますので。もし、あなたのおっしゃるとおりの三つのことしかないと考える限り、あなたの人生は本当のその三つしかないことになりますよ。それでいいのですか? 私の物言いにケチをつけたり気を引いてみたりするところから察して、そうではないでしょう? (04/08/19 19:33)
幸運を祈る 次の日記お待ちしています。 (04/08/19 14:30)
ブス子 「生まれてくる事と 生きるという事と 死ぬという事の3つ」しかありません・・。漫画の引用・・。ぺけぽむさんは突っ込みすぎて考えているのか科学的なのか宗教的なのかわからないです。 消滅するのは魂も微分子になる事ですね。 なんか私も年を他の人よりいってるんですが、自分でも大人になった気がしないんです・・。でも、老けてるのは確か・・。それを仕事に逃げていろんな事 考えないように働いて眠る繰り返しだったのが、仕事が無いという壁にぶつかって・・・ああ、何を考えていいやら・・・。今日の説は健康な人間においてですよね。 末期癌患者とかになってくると又考え方はころっと変わってくるでしょう。 境遇境遇において死生観など変わるものと思います・・。 まずは、元気でなによりでした・・・。彼女とか好きな人ができると難しいこと言わないで済みますよ。 でも、何故か無職日記の人達は彼女のいない人が多いのでした。 ごめんなさい、失礼な文章になりました。 私が若ければ彼女になりたい・・なんちゃって・・。 (04/08/19 10:29)
ぺけぽむ 自己レス。前回とはまったくつながっていないことに気が付き呆然(しかも乱文意味不明)。間に挟まっている時期に考えたことをもうちょっと整理しないと…あー、時間は結構残り少ないのに!  (04/08/18 22:44)


 ■ 2004/07/19 (月) 意味について(二)


目が回り始めてすでに一週間、まだ回ってます。目下の問題を考えている間はずっと回ってそうな予感が…。

さて、前回の宿題ということで、「人生の意味」が道具の「意味」と同じような意味であるのかどうかを考えたいのですが、そのヒントになる(かもしれない)考察をすこし進めます。

道具の意味というのはまさに有用性のことです。で、われわれが意味、といって名指すもののほとんどはこうした有用性に根ざしている。たとえば、一日を24時間と区切ってそれにあわせて行動を定める時間の切り方や、ある目的のために行動を起こす最適のタイミングを図りながら時間を気にすることなど、手に取れる道具以外にも、まさに時間や「出来事」に関してもこういう日常性は浸透しています。むしろ、こういう意味がないことには人間は何も行動に移せないと言ったほうがいいかもしれません。
これはこれで十分検討してもいい問題ですが、あまりこういう道具の観念をこねくり回していても仕方ない。あとで必要が出てきたら考えることにして、7月12日に検討した、死ぬと言う限界を超える「かかわり」の「意味」がこうした道具性としての意味とどうかかわるか、に話をすすめます。

われわれはすでに死んでしまった人を気遣うことができますが、もちろん、その気遣いのうちにもいろいろあって、たとえば先祖をよく祭っておけば子孫が繁栄するという手のものや権威者の葬式で棺桶を先頭にたって担ぐことなど、よくよく考えてみると死んだ人に向かってではなくて生きている人に向かっての気遣いといえるものも多い。ですが、一方で、こう考えることもできる。生きている側の人間は死者に関する記憶を持っている。その記憶は、記憶である以上生きている人間の理解に服しており、ある意味で潤色や歪曲の対象になる。そもそも記憶自体がそうした意味なしには成り立たない。成り立たないが、それは結局どこまで言っても死者に関する「生者の想い」であって、それは本当には死者に触れることはない。死者はわれわれにある記憶を残し、または忘却にさらされる。生きている者の都合に何ほどか支配されながら、だが、死者そのものはもはや生きておらず、いま取り残された私の目の前に現れず私に直接の力を何も振るわないのにもかからずある態度をとれ、と呼びかける。他の人に死に関する私の気遣いの内には、だから、生きている人に向かうものと、そして死者に向かうものの双方がある。

むしろ、死者を気遣わないのであれば、私は自分の死を気遣えないかもしれないと思える。死とは、生きている者が気遣えるものに対する不在と言う出来事に思えますが、ある意味で、死という現象は私と死者の間で共有されていると言えなくもない。私にとっての死は、意味も、意味からの逃避も裏切る(であろう)出来事であり、究極の不在である、ということができるかもしれない。一方で、他者の死もまたそういう意味付けに対して一見受動的であるように見えながら、その死者の不在と言う一点に着目する限りその意味付けは剥奪され、不在は不在のままにとどまりつつ私にある態度を強制される。
そうしたどうしようもない手の届かなさにもかかわらず、私は、そこに何らかの意味を求めているわけです。奇妙なことに思えますが、おそらく揺るぎのない意味というものを考えるとすれば、生きている者にとって不在であるものこそがそれを示すのではないかと思えるのです。

死の意味、というのは私のものであれ他者のものであれ、私が意識すると意識せざるとかかわらずしている意味付けをはみ出しているわけで、するとこれまで前提してきた「意味」の観念を廃棄して別様な「意味」を考えなければならない。話を明確にするために、前者を「意味1」と名づけ、後者を意味2と言っておきましょう。

意味1のほうからすれば、これを何とか拡張することで意味2が担っているような出来事を取り込めないかと考えて見ることもできるかもしれない。意味2の定義は曖昧模糊としていますが、前回の最後で予告して今回やらなかった「意味1の定義を最大限に拡大したら、そこに人生の意味は含まれているのか」を考えることで、意味2が析出できるかもしれない。
というか、何とか析出できなかったら、私が考えたことはすべて撤回するしかなくなってしまうので、この一点には特に慎重に取り組むことにします。長くなるだろうなあ…。


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 ■ 2004/07/15 (木) 意味について(一)


前回、「根拠はどこにあるか」という問いの端緒にたどり着きましたが、視点を変えて別の方向から考えます。なんだか痙攣しているみたい。というか、ほんとにめまいがして困っています。おーぐるぐるぐるぐる…。

さて、タイトルの「意味」についてですが、前回のコメントで化石。氏に指摘いただいたとおり、私はハイデガー(と、レヴィナス)の圧倒的な影響下でものを考えています。したがって、ここで今から考える「意味」と言う言葉はその両方の影響から出たもので、自分で考えたと言うよりもハイデガーとレヴィナスの丸写しのようなところもあるかもしれない。
だが、そうであっても、この二人の哲学者の「意味」に関する考察は私にとって魅力的なのです。

では、本論。
あるものに意味がある、とわれわれが考えるときの大まかな状況を考えてみます。例を日常的なところからとってくると、今私がたたいているキーボードは、そもそもキーボードを使って何をするかがわかっていなければアルファベットと数字と雑多な記号を配列した牌を並べたなんだかわからないものでしかない。つまり、道具は道具としての目的を理解した誰かがそばに付き添ってやることで道具としての「意味」を持つ、ということになります。
道具に関する限り、その意味は、道具を道具として理解している何者かによって、言い換えれば誰かが当のものに対して見出していることによって成立します。さらによく考えると、私はキーボードを打ちながら「キーボードの意味」をいちいち意識してはいない。だから、意味を理解しているとことには、明示的に言葉で意識されていない場合も含まれる。だから、キーボードをたたきながら床の座りごこちやクーラーの利き具合などの適度さがちょうどよいときには何も考えずに作業に集中できるが、そうでないときはそれが意識の上ってきて気がそちらに逸らされてしまう。

こうしたことから逆算すると、今私が座ってこの文章を打ち込んでいる部屋におかれている物たちの意味は、指しあたってその物たちの道具としての目的性を束ねている私によって理解され、そして私がある目的をもって部屋の中で行動するたびにその意味をそのつど変化させると言うことになると思われます。たとえば、今私が座っている床は、私が疲れてねっころがるときには寝床に近い意味を持つことになるわけで、要するにこういう意味は可変的なものであって、その背後に動かざる本質のようなものがあるわけではない。
さらに、私の道具を使ってなにかすることや、また自分の体で何かをすること自体、やっぱり別の動作・行動とかかわりをもっており、その意味もまたやっぱりそのときの状況によって可変的なわけです。結局、意味と言うのはその物、その行動ひとつで完結せずに、他の物との関係の網と不可分なことになります。

では、この「意味」の規定を最大限広く適用できるかどうか考えてみます。そう、つまり「人生の意味」というときに、本当にこういう「意味」についての考え方が当てはまるかどうかということを考えてみるのです。(以下次回)

追伸
>輪さん
ご質問、ありがとうございます。
まず、最初の質問「死んだことがないのに人はなぜ自分が死ぬことを知っているのか」についてですが、左様、厳密に言うと、私は自分が死ぬかどうか知らないわけです。にもかかわらすなぜ死ぬと考えるのか。おそらくこの不可解さは、死ぬと言うことが今回私が考えた「意味」の観念をはみ出していることを示しています。と言うわけで、この質問については次回以降。本当に考えられるかどうかわかりませんが…。
二つ目の質問ですが、私にかかわる限りでの「他人の死」のみを私は受け止めることができると私は考えます。誰に対しても知られることなく生まれ死んだある人の死は、私にとって想像の域を出ません。正確に言えば、他者の死が私にとって意味を持つのはその人が何らかの仕方で私と関わっているからで、死せる他人が私にとって持ち続ける意味もそこに拘束されて始まります。であるから、どうやっても私と関わりようもない人の生死の意味を、私は語ることができません。想像を交えることなく私に語れるのは、あくまで私に対して意味を通じてのみです。私はその他人に成り代われるわけではないのですから。ご質問の趣旨を正確に捉えられているかどうか心もとないですが、これがご質問への返答です。
>豚女さん
そう考えられていますし、実際に最終的な人間の死亡率は百パーセントです。しかし、それが当たり前と言えば当たり前で、死ぬと言うことを「先のこと」にして彼岸的な捉え方をすればするほど、死ぬと言うことが恐怖の対象として浮かび上がると思うのです。じゃあどうすればいいかと言うと、要するにそう捉えなければいいのではないかと思うのですが…。


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 今回もおもしろかったです。上におっしゃってることからすれば「意味」は、最終的には人間にとっての有用性をいうことになりますね。仮に、「人生の意味」がそれで敷衍できるなら他人にとって有用であれるか??・・・そんなの悲しい!! (04/07/16 21:12)
 丁寧なレスありがとうございます。2つ目の質問についてですが、かかわり合いのなかでのみ「死ぬと言う限界」を超えられるのならば、他人とかかわりあいをもたない人間ならどうなのか・・・と、ちょっと思考実験?してみたかったのです。 (04/07/16 21:08)
ブス子 論文長文 怖い。でも明日読みます。 (04/07/15 23:32)
ブス子 この長文は・・・誰かに似てる・・。 いい勝負だったりして・・。 (04/07/15 23:30)
NoColors m○toakiさんの日記を読んでる錯角におちいった。。。 (04/07/15 16:09)


 ■ 2004/07/12 (月) 根拠はどこにあるのか


のっけからわけのわからないタイトルです。申し訳ない。

前回、「死ぬとはどういうことか」と挙げておいてそのあと更新していないわけですが、
「死ぬ」ことは、たとえば、「自分の死」は体験できない。「死にそうになった経験」や「氏に近づいた経験」はできても、死んだ瞬間に私は消えてなくなるので、死ぬ経験はできない。
これは前回の自己レスで確認しました。

で、やや短絡に言えば、自分の死について語られたいかなる言葉も結局憶測の域を出ないので、ある意味ではあたっているとも外れているともいえない。わかっているのは、逆説的に言えば、私は「死ねない」、ないしは正確に言い直せば死ぬまで私は生き続けるが、最後の、「本当に死ぬ瞬間」だけを経験できないということ。つまるところ、私は一見自分の死を、たとえば自殺や遺言のような仕方で支配できるように見えるが、実際には最後の瞬間にそうした目論見は崩壊する。私は、今まで私が見ていた世界と関われなくなり、かつ同時に自分とかかわることも不可能になるからです。
この限りで、私が自分にかかわることとして考えたり体験したことのすべては私にだけ意味を持ち、そして「私の死」と共に消滅することになります。

今、遺言と言う言葉が出ましたが、ここで、これまで考えないでほったらかしにしてきた問題があります。
私は今ここまで、自分の死だけを語ってきましたが、他人の死ということを考えに入れていないのです。

他人が死ぬと言うことは、ものすごく端的に言えば「死んだ当人がいなくなる」ことです。奇妙なことですが、死体はそこにあるのにその死体は死んだ当人そのものではなく、人間はその死体を当人が生きていたということの徴のようなものとして丁重に扱い、時には戦争などに際して憎悪の対象として敵意にさらすこともある。
そのどちらであっても共通する一点は、当人はその物体(肉体であったもの)に宿っていないにもかかわらず、その物体を当人と深くかかわりのあるものとして扱うことがあると言うこと。そしてこの性質はいずれ腐敗し朽ちてしまう遺体にばかりでなく、墓標や、位牌のような特定のものに受け継がれると言うこと。もはやそれがこの世のどこにもいなくなった当人でないにもかかわらず、われわれはそれを当人と必然的な関係があるように当人と結びつけ、丁重にないしは敵意を込めて態度をとるという、奇妙な流儀があるのです。

話が大分ずれてしまっていますが、他者の死を当然自分の身におきることとして体験することはできず、そして自分の死すら「体験できない」一方で、われわれはかつては体験できたが、今は体験できなくなってしまった「死んでしまった人とのかかわり方」を知っている…つまり体験していることになります。
この体験がなぜ可能なのか…過ぎ去ってしまってある現象(ここでは、私と生き生きした関係を持っていた他人)が、なぜか、私にある影響を与える続ける。他人の死は、見たところ、「私の死」と異なって、死ぬと言う限界を超えることができるように見えます。

そうだとしたら、私は「私の死」を越えることができるのか? だが、「私の死」とは上記の様にそうしたかかわりが不可能になることそのものではないでしょうか。

問題はつまり、「私の死」によって限界付けられた私の生が私にだけ意味を持っているという、そもそもの議論の前提にあるように思える。この前提から言えば、「私の死」が自己完結的な意味しか持てないことは当然でもあるからです。

さて、ここでタイトルの問いがやっとどういう問いなのか説明できます。左様、「私の死と生」の意味の根拠をどこに求めるかによって、死ぬと言う限界が乗り越えられるのではないかと思えるのです。


名前

内容

 ところで逆に、仮に誰にも知られず生まれ(母親は出産と同時に死に)、誰にも知られず死んでいく者があったとして、その「死」はどうとらえたらよいのでしょう? 今後も気が向かれましたら、経過報告楽しみにしています。 (04/07/15 11:33)
 「死ねない」のに、「経験できない」ことを「わかっている」というのも不思議ですね・・・!  (04/07/15 11:31)
豚女 命あるものは必ず死が訪れる。。。。 (04/07/14 19:47)
化石。 ハイデガーのようだ。 (04/07/12 17:11)
ひろひろ 凄いね哲学者だね (04/07/12 16:31)


 ■ 2004/07/01 (木) 死ぬとはどういうことか


とてもとてもお久しぶりです。

前回書いたのが5月の18日。そして今回が七月の頭。すでに隔月化してしまって久しいのですが。ちょうど頭の中がまとまりかけているので書いてみます。

前回書いたあたりぶの、あーその、就職先のことですが、まあそこで落ち着きそうです。
岩○書店も中央○論も、情けないことに筆記で落ちました。うー。作文がうまく行かなかった…。来年受けられるようだったら受けてみよっと。

それはそれとして、私はいま修士論文というものを書こうとしています。
これが審査に通らないと中退を余儀なくされ、何もかも失ってしまうので結構怖いのですが、現在のところ何とかなりそうです。


で、テーマが若干定まりきっていませんが、恐らく日記のタイトルと同じく「死ぬとはどういうことか」。
今生きている人は現在誰も死んだことがない以上、自分の身におきた経験として語れないわけで、経験したことを元にしてしか語ってはならないのなら哲学どころかどんなお話のテーマにもなりえないのですが、それを何とか語ってみたいというあたりが動機ですね。動機として成り立っているかどうかわかりませんが。

生きているということと死んでいるということは同じ平面では対立していませんが、それでも死ぬ瞬間にある何かが入れ替わると言うか、それまで進行していた何かや可能性として成り立っていたことが全部停止する。生きているということを説明することで死ということを説明できるかもしれない(生きているということは当然「死ぬ」と言うことの必然的なきっかけでもあるわけだから)。
よく考えたら、というか考えることの中でのみ、「観念としての死ぬと言うこと」は成り立つ。こう考えていくと、結局人間が考えられる限りでの死はあくまで考えた限りでのしでしかないわけで…というよくあるアホな無限後退の循環を何とかしたい。そういうことを目標に考えてみたい。そんなあたりです。

(あとで更新します。ちょっと時間が…)


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内容

ぺけぽむ ご返事、どうもありがとうございます。>皆様。さしあたり、殺意のひとつは抱いたこともあるし、ひょっとすれば自殺していたかもしれないと言うこともあるし、近しい人の死と言うものの理解できなさを抱いたことも、一応あるのです。とはいっても死ぬということは体験でもないし(体験した瞬間に死んでしまうので)と言って観念で捕らえられた死は詰まるとところ他人の死の<体験>を自分の将来に投影していることになる。だが、「自分がいなくなる」ことと「他人がいなくなる」ことは全く対照的ではない。以前、人生の意味を確保する術というのを自分で論理化したことがあるのですが、そいつをこういう非対照性に照らして厳密にするためのことです。死に意味があるのか、そして死に意味があるのかどうかを明らかにすることで生に意味をもたらせるかもしれない。その、「生に意味を」の手前の問題として、「死の意味」を考えたい。密に展開してして言えば、そういうことです。 (04/07/04 11:52)
lynn 本気で死にたいと思うこと、じゃなければ死にかけたこと、あるいはごく近しい人の死。どれも「観念としての死」を超えているのでは。これらの「経験」がないとしたら、なぜ「死」にこだわって議論したいのでしょう。頑張ってください。 (04/07/02 11:38)
4と5 お元気でしたか。論文、うまくいかれるといいですね。 (04/07/01 22:01)
豚女 人も常に生と死の狭間で生きてると思う。 (04/07/01 19:04)
(´・ω・`)しょぼんぬ 論文作成お疲れ様です。何とか、形になりますように。 (04/07/01 15:06)


 ■ 2004/05/18 (火) 一人で死にたい


ものすごく久しぶりに書く日記。

まだ就職活動を続けています。
内定、いまのところ三社目。
ただ、みんな塾業界。
勤めたら世間が狭くなりそうな気がして、他に出版社を幾つか続けています。

だが、
就職活動とは関係なく、いや、なくもないけど、一体どこまで自分を強いて、自分に嘘をついて生き続けなけりゃいけないんだろうと。
ただ死ぬのが怖くて生きているだけなのに、世間様には前向きな顔見せないとあわせていけない。

去年、八方塞りになりかけていた頃はなんでもいいから働ければいい、と思っていた。
いまはある程度こちらから道を選べる立場…そうなったら、「世間が狭くなるのが嫌」とか言い出して、結局自分が何をやりたいのかわからないのはそっちのけで「もっとマシなほうに、マシなほうに」とやり始めた。
何だ「マシなほう」ってのは。要するに自分の中に世間様、お天道様という光の当たらないところを残しておきたいだけだろうが。

虚心坦懐に臨めば、本当は無駄な生き方じゃなくて、何よりも孤独がほしい。
いや、孤独以外のものを携えて生きることなどできるのか。

一度、自分がどれだけ孤独になっていたのかにやっと気が付いたことがある。
ただすぐに忘れてしまった。
次にその自覚が再帰したとき、それを忘れていたことが罰として帰ってきた。
そしてまた忘れてしまった。
忘れることによって何とか世間様に向かっていられる気がする。

人に合わせているときには、過剰に人とあわせようとして取り越し苦労をしている。けれど、本当はどうでもいいと思っているんだ。
生きていくために、そうやって取り越し苦労しながらでもやっていくしかない。

だが、その「生きていくため」というところに意味がないように感じられる。
意味のないただ耐えるだけの人生に、どうやって耐えていけばいいのか。
そういう人生を肯定することが、消費と競争の万能主義に穴を開ける道になる気がする。

まとめると、
自分を嫌な奴だと思う

こころから、完全に一人で死にたいと思う。それで充分、と言い切れるようになって死にたい。
まだ、死ねない死にたくない。だが、さっさと死んでしまいたい。


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内容

哲スレ4と5 以前、私の切実な疑問に、私を傷つけずに的確に答えてくださったあなたが、アンビバレントながら死を望んでおられるのは、いま、私にとっての痛みでもあります。豊かな想像力と創造性、言葉への鋭敏さ、深い思いやりを持ったあなたは、嫌な奴などではありませんよ。天分が豊かな分、迷いも深くなられるのだと思います。ご自分をお責めにならないでください。また、あまりつらければ、治療を受けるのも、悪くはありませんよ。 (04/05/19 23:30)
ぺけぽむ みなさん、レス感謝です。 なんていうか、いったん過剰な感情を切り離して考えると、人生にストーリーを求めないで生きていく心の術みたいなものを見つけたい、と思っているんですが… だからその術が見つかるまで、私は自分の人生がなんだかわからない時間をすごすことになるんでしょうね。さて、一体どうすればうまく孤独なほうにいけるのか… (04/05/19 22:53)
オッキー 人生分かったふりするのはまだ早いんじゃないかな。 (04/05/19 22:23)
(´・ω・`)しょぼんぬ いずれ必ず死ぬから、そこから逆算して人生やっていくのも悪くないな、と思う。 (04/05/19 00:51)
韮山 そんな、辛い一日一日があなたの糧になっています。 塾の業界で世界が狭くなる自覚があるなら、進んで外部の情報に興味を持てば良いだけのこと。 自分を卑下する前に、周囲を見ましょう。 ちょっとくらいステータスの高い仕事をしていても、少なくとも、自分が情けなく思えるほどの立派な人は、ほとんどいないはず。 冷静になれば道は開ける! (04/05/19 00:13)
豚男 生きるんだ!辛くても生きるんだ!いきるんだ!少しぐらいカッコ悪くても生きるんだ! (04/05/18 23:25)
豚女 生きてみよっ! (04/05/18 23:07)
豚女 こんな本がある。。。http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062109336/ref=ase_httwwwasaneto-22/249-2114111-8901948 (04/05/18 22:55)
あいうえおJPN 生きてくれ〜〜。 (04/05/18 22:34)


 ■ 2004/03/05 (金) 心弱気者よ汝が名は…


内定が出ました。
こないだから“いんたあんしっぷ”に行っていた所からいただきました。

仕事中に「ちょっといい?」と呼び出され、会議室まで拉致られ、
扉の前で「中に会社の人いるから」といわれ、ノックして入室。

中に前回の終面のときにいた重役氏が待ち構えていた。
2、3の問答の末、「ちょっと待っててね」。
重役氏がいそいそ退出。待っていると人事の方がやってきて「内定です」。

良く分からないけど、私の最終面接のときのしゃべりが「論理的」だったことと、
適当に言った志望動機が何の偶然か会社の図星だったらしい。それで内定。

喜んでいいはずなのだが、
決まったとたんに、「この会社でいいのか?」と悩み始める始末。
嫌な自分をまた見ることになった。

思い起こせば二年前の2月のこと。
頑張って内定をとった会社に
「大学院に行きます。御社の内定を辞退させていただきます。こんな遅い時期に申し訳ありません。」
と言いに行ったときのことを昨日のように思い出す。

自分を見込んで採ってくれた人間を裏切ることへの良心の呵責に苦しんだことを覚えている。
なぜこんな時期になって、と言われ、裏切ってまで院に行く動機をしどろもどろに説明しようとしてまともに台詞もはけなかった。
何とかうちに帰ってきたあと、少し泣いた。

こんなことばかりだ。自分を駄目にする迷い方はしないと決めたのに。


名前

内容

俺も俺も 自分で決めたらそれが正解 (04/03/17 02:46)
哲スレ4と5 人間は迷いながら前進するものなのかもしれません。私は入社してからも、迷ってばかりいました…。 (04/03/06 14:23)
ぺけぽむ みなさん、どうもありがとう。「とりあえず」ですが…働いてみます。 (04/03/06 01:08)
りん 大学院で何研究されてたんですか? 私もいつかお金をためて行きたいです (04/03/05 23:46)
ギャン 迷うのは分かります。社会人のつらさや怖さもあると思います。でもどうか一歩踏み出してください。現実はつらいものでしょうが、経験しないとどんどん後ろ向きになりますよ。どうかがんばって!! (04/03/05 21:51)
ギャン 迷いはとりあえず、横に置いておいてやってみるべきですよ。 (04/03/05 21:31)
cika とにかく一度やってみては?駄目ならその時に考えるとか・・・。試用期間は私達のためにあるのです。 (04/03/05 20:44)
スライム で、やめるの?あってないならあわしていけば? (04/03/05 19:17)
名無しの案山子 実際働いてみないと会社の内情なんて解りませんものね・・ (04/03/05 19:02)
th1969 ああ、贅沢な迷いだね。 (04/03/05 16:09)


 ■ 2004/02/29 (日) 就職活動、エンジン点火


これまでずっと自分の方向性が分からないで困っていた。

だがもう知ったことじゃない。方向なんて進んでみてから考えればいい。
大体オレは自分でこれと決めた方向が全部間違っていたんだ! 
だから、今度は手当たり次第に手を出してだな〜、片っ端からつ突っ込んでだな〜、限界までヤってやるんじゃ〜!

某H書房の募集見っけ! 期限ぎりぎりで応募書類郵送!
何を狂ったか学部時代に内定を蹴った会社にもES夕べ深夜に提出!
あっ! 電通が募集している! 突っ込んだれ! 
朝日新聞も毎日もえんとりーシートがたまってる! 書くんだ、さすれば救われん!

…とそこへ、母が今来た郵便から博報堂の資料を持ってきた。
ある頁に、ちょっといい言葉が書いてある。
「いいことがあるかもと信じて気楽に行けば、自然にいい方向に向かえる気がする」

そうだよなあ。「信じて」って言うのがミソだよな。
現実を乗り越えるということは、現実に意味を与え、捉えなおすことと一緒。
言ってみれば、信じることというのはそれに近いのかもしれない。


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ぺけぽむ レス感謝です! なかなか勢いってのも持続させるのが難しいもんです。明日当たりES書いて徹夜くさい… (04/03/01 23:43)
哲スレ4と5 方向性。たしかに進んでみてはじめて見えてくるものってありますね。 (04/03/01 16:17)
名無しの案山子 その勢いでガンバレ〜!! 私はノッキング起こしてます・・(汗) (04/03/01 09:10)
ギャン 好転を願ってます! (04/03/01 00:20)
無色透明 エンジン点火ですか。漏れはまだアイドリングすらできません・・・。 (04/02/29 14:11)


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