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ヒモと呼ばないで9年ぶりに帰ってきました。誰か助けて。 |
■ 2004/01/29 (木) 休日/フツー |
今日は休日。
午後から散策へ。 今日はあえて山には上らずに、それを遠目に見ながら街を歩いてみることにした。 理由はない。 途中、「ふるさと歴史館」という施設を見つけたので入ってみる。 規模が小さい割には外装にお金かけすぎという気はするが、結構面白い。 俺はこういった類の場所なら大抵のものは面白がるタチなので、普通の人にとっては「?」かもしれないが。 特に、「少し前」の、それもここら辺の「フツーの生活」についての展示が興味を引いた。 家の近所であちこちに見かけることの出来る「屋敷」の表札の名が、ここ一帯に力を及ぼした名主であることが改めてわかった。 すごいな…江戸時代からの名主だったのか。 茅葺きの家の前には防風林があって、雑木林を、長い視点で丁寧に手入れをする暮らし。 薪や枯れ枝を燃料にするのはもちろん、落ち葉を肥料やサツマイモの苗床にしたり、炭焼きをしたり…。 よくこんな生活を評して「時間がゆっくり流れる」なんて言い方をしたりするが、実際は現代から見れば不便極まりなく、火を起こすところからして「ゆっくり」どころか汗にまみれるような生活だったことだろう。 でも、それが不幸だとは到底感じられない。 これでいい…っていうか、これしかない、からだろうか。 他と比較しようのない、してもしょうがない生活。 今から見れば、変化が乏しく退屈とも言えるだろうが、逆に今では難しい、地に足の着いた強さもあったはずだ。 長い視点を持ち、丁寧に生きる、か。 ほんの50年前までの「フツー」の生活。 俺の生活とはまるで正反対だ。 その日の無事だけを考えて、ルーティーンワークを繰り返すだけ。 これだけ見れば「変化が乏しく退屈」なことろは同じだ。 俺もよく「これでいい」「これしかない」って言うし。 でも50年後の人が今の俺の生活を見て、それに「地に足の着いた強さ」などどうして感じられようか。 まるで、永遠の挟殺プレーで、塁間に夾まれる間抜けな打者走者だ。 そして、挟まれて、あっちに走り、こっちでタッチをかわしているうちに、俺は最終的に目指していたはずの「ホームベース」のことなんか忘れてしまった。 ただ「アウト」になることだけを恐れる生活。 …でも、そもそもどうして「夾まれて」いるんだろう。 もう随分前のことのような気がするが、フルスイングして球を芯で捉え、野手の間を抜いた所まではよく覚えているぞ。 一塁を蹴って、二塁へ…。 その時、欲張ってこうなったような気がする。 行っちゃダメだ、と心のどこかで分かっていたのに。 何が何でも自分の打球を「長打」にしたかったんだろうか。 よくわからんが。 もうここはさっさとアウトになって、次の打席でもう一回スカッとかっ飛ばすことを考えるか。 でも、俺に次の打席なんてあるのか。 もしあっても、また打てるのか。 そうだ…。 そんな心配から無縁でいられるのが、「地に足の着いた強さ」なんだ。 俺にはまだそんなものはない。 …今いきなり思い出した。 こんな句を聞いたことがある。 「かかるとき さこそ命の惜しからめ かねてなき身と思い知らずば」 地に足が着くどころか、天地と一つってヤツか…。 確か、太田道灌だったか。 さすがサムライ。 俺も欲しい。 そんな強さ。 昔の百姓に憧れるも、それにも到底及ばないような男には無理とは分かっていても。 俺も「地に足を着けた強さ」が欲しい。 |
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