日記HOME TOP タイトル一覧 月別 

無色の妄想日記

タイトルを変更しました。

現在、福島県郡山市に仮寓させていただいている。
ありがたいことです。

旅をしている時の状況が時に思い出される。泊まる当てもなく、地図を片手にひたすら歩いた。雨の中、強風の中、雪降る中、そして、暴風雪の中。ひたすら歩いた。歩いている時には不思議に恐怖感や切迫感は無かった。何とかなるという気持ちですね。

今、雨、露、雪、風を凌げる部屋を提供していただいている。このことがどれほど嬉しい事か。実感している。

残された時間がいくらほどあるかは判らないが、残された時間を、自身の身魂を磨くために使おうと思う。スピリチュウアルを学んできているのだから、自身が信じる道を進む。    ただ・・・それだけ。

 ■ 2016/02/05 (金) 日々雑感


「維新」についてメモしたいが、ちょっと不愉快なことが続いたから、日々雑感をメモする。ちょっと飲みながらだから、「維新」についてはどうなるかわからん。頭にきている!!!


いや〜まいった!!!

糞おやじ2号が現れた。
ちなみに、糞おやじ一号は逝った。初夏から急激に体調を崩し、年末に救急車で運ばれて、お仕舞い。私は放射能の影響も否定できないが、仲間に一服盛られたのではないかとも妄想している。

しかし、糞おやじ2号も大変な代物である。

下痢便をトイレ中に振りまき、洗面所の床までも糞だらけ。壁には擦り付けた跡。トイレットペーパーにも付いている。下宿に帰ってきたら、大家さんがぶつぶつ言って掃除をしている。

一度や二度ではない。
私自身3度、自称情報通のおっさんが2度か3度掃除をしたという。
一度、厳しく注意をした後、糞をもらしたパンツが流しの下においてあった。(もう、どうしようもないね)


糞おやじの1号と2号の共通点。

・ トイレの使い方が幼児に劣る。(犬や猫でもトイレマナーを教えれば守るというのにね。糞虫どもが!!!)

・ 食事内容が在来種の私たちと異なる。
1号も2号も脂っこいものを料理し、洗面所が油でべとべと。そして、残飯をきれいに掃除をしない。三角コーナーがあるのだからそれに入れればいいのだがね。

・ 「年金」を貰っている。
別に貰っているからといって、とやかく言うつもりはない。しかし、生活態度を見ていても、長年、社会生活をしていたとは思われない。

・ 異常にふてぶてしい。
汚したら一言謝罪をし、掃除すればいいのだがね。(普通の常識人ならば、謝罪する前に掃除をするよね)
私は頭にきて、一度掃除をさせた。しかし・・・。
また、注意をしに行ったら”寝転んだままタバコを吸い出した”。

・ 上履きと下穿きの区別が付かない。


私は大家さんや地元の人に、この糞おやじのような生活習慣がある地域がこの辺にあるのかを聞いた。答えは・・・「ない」。
糞おやじ1号も2号も同じ行動パターンである。
このような行動パターンは一朝一夕に身に付くものではない。

私は、このような人間を「工作員」と呼んでいる。

「混乱」と「破壊」が目的だから、何でもありなのです。

彼らが加害者や被害者になることは望むことなのではないか!?

加害者になれば・・・三食付の雨、露、雪、風しのげる施設・・・すなわち刑務所に入れる。

被害者になれば・・・痛くもないのに「痛い!痛い!」とわめきたて、慰謝料を加害者から搾り取る。またそれを援護する弁護士がそろっているのではないか!?

そして、薬付け、自虐思想付けになっている大和民族。
何をやっても「我慢」するだろうと高を括っている。
依存と寄生、責任転嫁の姿勢。

大家さんとも話したが、先に手を出したら負けとなる。
困った連中である。傍迷惑もいいところである。

しかしね、この世は「原因と結果の法則」に支配されている。自分でしたことは、自分に結果が返ってくる。その責任を取らなければならない。

キリスト教教会の教えは・・・イエス・キリストが贖ってくれる。
そこらへんに転がっている宗教信者たちは・・・私たちの信じている宗教を教祖様は霊格が高いから、救ってくれる。

あほな事言うな!と言いたい。

「雑談でもよしが・・・」のスレッドからコピーする。(スレ主は私です)

夜曲さんのコメント

シルバーバーチの霊訓より・・・・どうもありがとうございます、感謝が基本なんです。

「タネ蒔きと刈り取りの摂理は、大自然の摂理の中でも、もっともっと多くの人に理解していただきたいと思っているものです。
大地が実りを産み出していくという自然の営みの中に、大霊の摂理がいかに不変絶対のものであるかを読み取るべきです。

大地に親しみ、大自然の摂理の働きを身近に見ておられる方なら、その仕組みの素晴しさに感心し、秩序整然たる因果関係の営みの中に、そのすべてを計画した大精神すなわち神の御心を、いくばくかでも悟られるはずです。

蒔いたタネが実りをもたらすのです。

タネは正直です。トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(たね)は、大自然の摂理に正直にしたがって、それ相当の結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは、そのまま人間界にも当てはまります。

利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の報いを刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の報いを刈り取らねばなりません。寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、悲寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。永遠に不変です。

いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよいように変えることはできません。発生した原因は、数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。
聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。

霊的成長を望む者は、霊的成長を促すような生活をするほかはありません。
その霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば、内部の神性が日常生活において発現されてはじめて成長するのです。邪(よこしま)な心、憎しみ、復しゅう心、悪意、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪(ゆが)んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。

いかなる摂理も、全宇宙を包含する根源的な摂理の一面を構成しております。その一つ一つが大霊の計画にそって調和して働いております。この事実を推し進めて考えれば、世界中の男女が自分の行為に対して自分の日常生活の中で責任を果たすべきであり、それを誰かに転嫁できるかのように教える誤った神学を、一刻も早く捨て去るべきであることになります。

人間は自分の魂の庭師のようなものです。魂が叡智と崇高さと美しさを増していく上で必要なものは、大霊がぜんぶ用意してくださっております。材料は揃っているのです。あとは、それをいかに有効に使用するかに掛かっております」
no.8627 ( 夜曲15/12/08 10:44 )


インペレーターの霊言(2012年の黙示録よりコピー)

われわれが知るところの神、そしてそなた(モーゼスのこと)に確信をもって説く神こそ、真実の意味での愛の神――その働きは愛の名を裏切らず、その愛は無限にして、その慈悲はすべての創造物に及び、尽きることを知らない。

いかなる者にも分け隔てせず、すべてに絶対的公正をもって臨む。その神と人間との間には無数の天使が階梯をなして待機し、神の言葉をたずさえ、神の意志を時に応じて啓示する。その天使の働きによって神の慈悲が途切れることなく人類に及ぶのである。
これぞわれわれが説く神――摂理によって顕現し、天使を通じて作用するところの神である。

では、人間についてわれわれはどう説くか。たった一度の改心の叫び声、たった一つの懺悔の言葉、筋の通らぬ恐ろしい教義への忠誠の告白行為一つで、退屈きわまる無活動の天国を買収し、恐ろしい体罰の地獄から逃れることを得るという、その程度の「不滅の魂」なのか。

違う! 断じて違う! 人間は、より高き霊的生活を得るために、ほんのわずかな期間を肉の衣に包まれて地上にいるにすぎない。霊の世界にあっては地上生活でみずから蒔いたタネが実をつけ、みずから育てた作物を刈り取るのである。待ち受けているのは永遠の無活動の天国などという、児戯に類する夢まぼろしのごとき世界ではなく、より価値ある存在を目ざして絶え間なく向上進化を求める活動の世界なのである。その行為と活動の結果を支配するのは、絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は魂を堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化、すなわち一歩一歩と神に近づく過程にこそ見出されるのである。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂のよろこびを味わう。ものぐさな怠惰をむさぼる者など一人もいない。より深く、より高い真理への探求心を失う者もいない。人間的情欲・物欲・願望のすべてを肉体とともに捨て去り、純粋さと進歩と愛の生活にいそしむ。これぞ真実の天国である。

地獄――それは、個々人の魂の中を除いて、他のいずこにも存在しない。いまだ浄化も抑制もされない情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪行の報いとして容赦なく湧き出る魂の激痛にさいなまれる――これぞ地獄である。

その地獄の状態から抜け出る道はただ一つ――たどり来る道を後戻りして、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。罪に対してはそれ相当の罰があることはもとよりであるが、その罰とは、怒りと憎しみに燃えた神の打ち下ろす復讐のムチではない。悪を知りつつ犯した罪悪に対して、苦痛と恥辱の中にあって心の底から悔い改め、罪の償いの方向へ導くための、自然の仕組みにほかならないものであり、お慈悲を乞い、身の毛もよだつドグマへの口先だけの忠誠を誓うような、そんな退嬰的手段によるものではない。

幸福とは、宗教的信条には関わりなく、絶え間ない日々の生活において、理性に適い宗教心に発する行ないをする者なら、誰もが手にすることのできるものである。神の摂理を意識的に侵す者には必ず不幸が訪れるように、正しき理性的判断は、必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を捨てた霊との区別はない。霊的生命の窮極の運命については、われわれも何とも言えぬ。何も知らないのである。

が、現在までに知り得たかぎりにおいて申せば、霊的生命は、肉体に宿る人間もわれわれ霊もともに、同じ神の因果律によって支配され、それを遵守する者は幸福と生きがいとを味わい、それを侵した者は不幸と悔恨への道をたどることになることだけは、間違いなく断言できる。
no.8432 ( やまと15/05/30 05:40 )

コピー終わり。

日本を貶める。
戦後賠償、その後の支援。
そんなものは「知らん!」と言う態度の「時代認識」の連呼。
自国民に説明をせず、反日教育をする。この行為自体が「国家的犯罪」に他ならないのではないか!?

まあ〜反日国家の権力者たちは、

「自分さえよければよい 今さえよければよい お金さえ手に入ればよい」

と言う、安易な考え(もしくは、というかの組織からの恫喝・・・常套手段)により、動いているとしか思えない。それがよいのならば、それでよいと思う。

しかしね、「時代認識」と言う言葉を連呼し、日本に・・・いや、大和民族に国家的カルマを背負わさせているのです。その事は、「原因と結果の法則」では、そっくりそのまま原因創った国に民族に結果が返ってくるのではなかろうか。それも、権力が大きいほど、大きな責任を問われる。
だからこそ、権力者は「肉体の死」を極端に恐れる。自業自得ではあるのだがね。
心ある反日教育を受けた人々よ、あなたたちも民族的カルマ、国のカルマを背負うことになるのですよ。


しかし、日本に蒔かれた「毒麦」は何とかならないのかね!?
いや・・・世界中に蒔かれている「毒麦の種」が芽を吹き出しているようだ!!!

ウッキーペディアより引用

イエス・キリストのたとえ

「また他の譬を示して言ひたまふ『天國は良き種を畑にまく人のごとし。人々の眠れる間に、仇きたりて麥のなかに毒麥を播きて去りぬ。苗はえ出でて實りたるとき、毒麥もあらはる。僕ども來りて家主にいふ「主よ、畑に播きしは良き種ならずや、然るに如何にして毒麥あるか」 主人いふ「仇のなしたるなり」僕ども言ふ「さらば我らが往きて之を拔き集むるを欲するか」主人いふ「いな、恐らくは毒麥を拔き集めんとて、麥をも共に拔かん。兩ながら收穫まで育つに任せよ。收穫のとき我かる者に「まづ毒麥を拔きあつめて、焚くために之を束ね、麥はあつめて我が倉に納れよ」と言はん」』」
                   — マタイによる福音書13:24–30、文語訳聖書

イエス・キリストによる解説
「ここに群衆を去らしめて、家に入りたまふ。弟子たち御許に來りて言ふ『畑の毒麥の譬を我らに解きたまへ』答へて言ひ給ふ『良き種を播く者は人の子なり、畑は世界なり、良き種は天國の子どもなり、毒麥は惡しき者の子どもなり、之を播きし仇は惡魔なり、收穫は世の終なり、刈る者は御使たちなり。されば毒麥の集められて火に焚かるる如く、世の終にも斯くあるべし。人の子その使たちを遣さん。彼ら御國の中より凡ての顛躓となる物と不法をなす者とを集めて、火の爐に投げ入るべし、其處にて哀哭・切齒することあらん。其のとき義人は父の御國にて日のごとく輝かん。耳ある者は聽くべし。」
                   — マタイによる福音書13:36–43、文語訳聖書
引用終わり。

まいったね。
まだまだ、混乱は続くのか!?

暖かかったり、寒くなったりと”異常気象”世界的に続いているようだ。

1月18日
今年初めての雪かき。雪見酒である。無職の特権ですね。

1月19日
変にリアルな夢を見た。

昔の職に復帰している夢。嫌で、半ば意識がさめかけているが、嫌だから、否定的な思いを持っても、ドラマは持続している。何なんだこれは〜!?嫌だと言う意識は自覚できている。映画やテレビのドラマを見るように持続している。
多くの人々の前で、「調子に乗って、能書きをたれている私」を見る。ここで、気が付いたことがある。私の能書きを聞いている人の顔が身に覚えのない顔ばかりだということである。まさか・・・前世でも、こんな人生を送ってきたのか!?冗談じゃないわ!?まったく。
これが、今年になっての初夢になるのか!?ただ、覚えていないだけなのかもしれないがね。
河合隼雄先生の本によると、映画とかテレビのドラマを見るように、自身を自覚しながら見る夢は、日本からの症例報告しかないとのこと。今はどうかわからないがね。そういえば、旅をしている時も、このような第三者的な意識で見ている夢がある。
さてさて・・・です。

1月23日
朝、下宿前でえさを置いている。
雀たちが餌をついばんでいる。その雀の中に、白っぽい鳥がいるのを見る。大きさはすずめと同じ、だが、首の周りの白い所が大きく、頭のほうにも広がっている。そして、羽にも白い筋が見られる。雀の中にいると目立つ。別の種の鳥か!?それとも・・・「放射能による、突然変異か!?」

「こら〜妄想狂のやまと!自分の無知をひけらかすな!」と、お叱りを受けそうである。しばらく観察。

1月26日
午前0時過ぎ。
突然、変な感覚に襲われた。女の人が轢かれたような悲鳴に似た声と走り去る車の音。ブレーキの音はわからない。(ないと思う)49号線のほうに行って窓をあけても、それらしきものはない。反対側のほうも異常はないようだ。車が普通に走っている。

何なんだ〜この感覚は!?

朝も、そのような事故の話はない。にゃんこのことを考えていたからか〜!?もで、かわいがっていた猫は、ほかの人にかわいがってもらっている。わからん。

また、寝てから変にリアルな夢を見た。
反日の夢。反日の国に行き、言いがかりの罠にはまり逮捕される。ばかばかしいからメモをやめた。

2月2日
白っぽい雀!?をまた見た。

2月3日
節分。
福は〜内 鬼は〜外・・・・って、本当か!?
お多福 般若 ・・・・ 女性の特性。
魂・・・・ 「鬼」という字が入っている。(日本ならでは)
鬼・・・人が抵抗できない力の象徴・・・自然の力・・・恵みと破壊をもたらす自然の力。
改竄か!?

私は、「幻の桜」の、MAHAOさんが指摘している説に魅力を感じる。

   「  福は〜内   鬼も〜内  」

とね。
自然と共に生きてきた大和(倭)の民。色々な思想が入り込み、支配に適した話に改竄される。よくあることです。だからこそ、一人ひとりが、今までに刷り込まれてきた常識、知識、教義を横に置く、自身の脳みそを自身で使い、考え、感じ、判断できるようにならなければならないのではなかろうか!?


名前

内容

中年競馬夜曲 やっぱり半端にいつもどうもありがとうございます。 (16/02/12 20:18)


[前] 革命と国譲り | [次] 日々雑感


無色の妄想日記TOP

タイトル一覧 月別