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ヒモと呼ばないで

9年ぶりに帰ってきました。誰か助けて。

 ■ 2004/01/14 (水) 休日/花見


今日は休み。

午後から丘陵散策へ。

今日は風が本当に冷たく、いつもなら歩き出して10分もしないうちに外すマフラーや手袋も、とうとう山に着くまで身につけたままだった。

果たして、久しぶりの八国山は、まさに丸裸。
以前に比べ、その「色」は影を潜め、「グレー」の木肌と、せいぜい踝辺りまでの高さにしか群生しない笹の一種と思しき葉の「緑」と地面の「焦げ茶」、そして古い落ち葉の「薄茶」の4色しか感じない。

そしてその印象もどこかクールで、皆似通っていたため「丸裸」なんて言ってしまった。

しかし、先に行けば行くほど鋭利に尖ってくる枝の鋭さを競うような木々の存在感は決して軽くはない。
緑溢れる、あるいは紅葉に彩られていた時とは違う、「洗練された」感じがする、と言ったら余計分かりにくいか。

見るからに生命力に溢れる「色」っぽい姿だけが、人を惹きつける訳じゃない。
葉が付いていたときには気が付かなかったこの木々の「脱ぎっぷり」は、それだけで充分魅力的だ。

「…にもかかわらず」「YES、BUT」…こういう言葉で表される精神的な取っかかりから、人は力を盛り返したり、話の急展開を自ら招き入れることもあるだろう。

当たり前だが、これらの木々は枯れてはいるが、死んでいるわけではない。
その時が来たことを受け入れ、葉を落としただけだ。
最盛期が過ぎたことをあっさり受け入れることで、実は次の「色」の準備が調うことを山は知っているんだ。

葉が落ちきった木の姿は、終わりを受け入れ、次のスタートを始めたというサイン。

その象徴が大挙して集まっている山に、何もないわけがない。

モノトーンである、というだけで「ダサイ」と言ってしまえないのとどこか似ているかもしれない。


それにもう一点。
これだけ風が強いのに何故かあまり「音」を感じなかった。

やはり、里山の音は「葉」が作るのだろうか。
とにかくこの静けさは、今日の「sophisticated」な山の空気に一役買っていたのは確かだが。

そんな気分のまま山を下り、これも久しぶりに都内唯一の国宝建築物の「千体地蔵堂」のある正福寺に寄り道。

これもまた思いっきりモノトーンな風情で、冷たい風に吹かれていた姿が、なんとも潔い感じがして良かった。
特長である屋根の「反り」を滑り台にして、冷風を上から顔に向かってを叩きつけられているかのような錯覚を覚えるほど、寒かったが。

そして、その風から身を守るように背を丸め、正福寺正門前の道を駅に向かって戻る途中、今日最後にして最大の発見をする。

それはなんと「桜」。
確かに咲いてる。

ある民家のもので、道端からも読めるように書かれたカードによると、「四季桜」と言って、10月頃から冬の間少しずつ咲き続けるそうだ。

小さいけど、確かに桜の花だ。

「枯れてるけど、死んでいるわけじゃない」どころか、真冬の寒風吹きすさぶ中「にもかかわらず」、花を咲かせる桜まであるんだ。

自分がどんな木で、どんな花を咲かせるのかを予め知っていられたら、人生の問題の多くは招かずに済むのかもしれない。

でもそれが分からないから、みんなが咲く季節が来たから、春だからと言って、自分の開花の具合を気に病むんだ。

「四季桜」か。
こんな木もあるんだ。

また見に行こう。


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