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アラフィフ喪男の花粉症日記

この日記は、
中国山地にある小さな町在住の49歳の日記。

[悩み]
・冬は超冷え性、春は超花粉症、夏は汗かき。

 ■ 2016/01/25 (月) 15年前の雪の日の旅立ち


15年前の1月下旬の月曜日の朝、大雪だった。26歳だった。
僕はこの日、西日本にあるとある新幹線の停車する駅から、大阪に向けて旅立った。
駅まで両親が車で送ってくれた。仕事をするための旅立ちだった。

半年間、ポリテクセンターで溶接やその他金属加工を学び、溶接の仕事を探したが地元じゃ「ポリテクセンターで訓練した程度じゃ使い物にならない」と言われ断られた。そんな時に見つけたのが、[溶接工未経験者歓迎・当社で研修あり]の派遣会社の求人だった。大阪で溶接の研修を受けるためだった。
研修センターの住所は、大阪市東成区東今里2丁目16。ネットの地図で検索したが今は何もない。
研修センターにつき、半自動溶接の訓練を受けた。研修中に住んでたマンション名は、大宝深深江CTサンコート。一人で暮らすには最適なワンルームだった。部屋から見える大阪の夜景は、山間の小さな町から出て来た僕にとって、素晴らしかった。
家に電話し、たくさんのカップラーメンやカップうどんを送ってもらった。

1週間後、研修生が来て僕と相部屋になった。普通の男だった。彼と1週間同じ部屋で暮らしたが、今思うと(人見知りの僕がよく1週間他人と同じ部屋で暮らせた)と思う。威圧的な男でなくて本当に良かった。大阪での研修の2週間が1番楽しかった。

研修に来て2週間、僕は溶接がずいぶん上手くなった。そして、滋賀にある工場で仕事をすることになった。カップ麺は工場に持って行くのが難しかったので、相部屋だった男にあげた。だが、3日で溶接をやめさせられた。
ポリテクセンターや研修センターで、ただ鉄板と鉄板を溶接するのと、
工場で、溶接して売れる製品を作るのは全然レベルが違ったからだ。その後、サンドペーパーで10時間磨くだけの作業に就いた。

大阪に向かう新幹線の中で、溶接工として活躍する自分を想像してた。40歳になった時には、結婚して子供がいる自分を想像してた。まさか、無職で、散歩とテレビとネットの毎日を送ってるとは夢にも思わなかった。



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