難しい本一度も呼んだことないや。
俺って駄目人間だなぁ・・・・・。
no.2 記入なし (03/11/20 02:42)
読んでだった。
no.3 記入なし (03/11/20 02:42)
シモーヌ・ヴェ−ユ、いいっすよ。
no.4 記入なし (03/11/20 12:54)
なまいき小僧さん、実存主義が好きなんですね。たしかに入りやすいかも。オモシロイし。
「存在…」は、わはは。さっぱりわからん…(すまん)。死の不安とか頽落とか、そのへんだけ解ったつもりになったけど、あとは全滅。なさけねーけど難解。
no.5 記入なし (03/11/20 13:41)
西洋哲学の古典もいいけれど、
しょせん翻訳モノですから疲れます。
それでもって、読んだけどわからなかった、では
骨折り損のくたびれもうけ。
それより、日本の哲学者・思想家が
日本語で考えて日本語で書いたもののほうが
読んですいすい頭に入るし、
ストレスがたまりません。
中島義道『哲学の教科書』『哲学の道場』『孤独について』
小浜逸郎『なぜ人を殺してはいけないのか』『人はなぜ働かなくては
ならないのか』
……あたりが、「人生の意味」を考えたい人にもお薦め。
その他に、
『14歳からの哲学』(タイトルうろ覚え。著者名忘れた)
も、ちょっと立ち読みしただけですが、
良さそうでした。
no.6 記入なし (03/11/20 15:24)
こうも、働き出すのを邪魔されると、気力がなくなってくる。でもさ、おれ、離婚2回しているから、無職のまんまではいられないんだ。
結婚は、最初は、ふたりが一人一人、勝手な夢を描いているもんだよ。そして、日が経つにつれて、それが薄れて、現実に戻り、それは、夢だったときがつくのさ。
no.7 疲れの2乗、昔、算数やったよね。 (03/11/20 15:59)
「哲学はこんなふうに」(紀伊国屋書店) とても面白かったです。
no.8 つる (03/11/22 00:30)
つるさんへ
著者名教えてください。
no.9 記入なし (03/11/22 16:44)
著者はアンドレ・コント=スポンヴィルさん。フランスの方です。
訳者は木田元さん、小須田健さん、C・カンタンさん。
「哲学はこんなふうに」で検索してみるといくつかの書評もあります。
興味があったらぜひ読んでみて下さい。「哲学」に対するイメージが変わるかも知れませんよ。
no.10 つる (03/11/22 21:08)
ここの住民に読めるのはミスターの野球哲学までじゃねーの?
no.11 記入なし (03/11/22 22:19)
有名どころだけど「ソフィーの世界」を今読んでます。分厚いのが難点ですが、読みやすく分かりやすい文体なのでおすすめ。
no.12 記入なし (03/11/24 11:31)
つるさんへ
ありがとうございます。
スポンヴィルといえば、
この人の『ささやかながら徳について』
という本を読みたいと思っていたところでした。
no.13 記入なし (03/11/24 11:55)
あ〜俺哲学科卒(笑)
no.14 記入なし (03/11/24 13:51)
スレッド立てた張本人です。
5さん。
私、確かに実存主義好きです。
まあ、キルケゴールは例に挙げただけでそれほど趣味でもないんですが。
卒論はフランスのレヴィナスという哲学者の『全体性と無限』で書きました。
レヴィナスの紹介は少し前まで読みにくい紹介が多かったけど
こないだNHK出版で出た、
『レヴィナス 何のために生きるのか』(小泉義之)
は好感が持てます。
哲学専門の勉強をしたことがなくても、切実にその手のものを求めてる人にむけてしっかり書かれているところがグー。
しかし哲学で(厳密には倫理学ですが)大学院まで行っちゃうと
なかなか世の中の寒風が馬鹿になりません。
私は「原書をすらすら読める」ほどの語学力がついに身につかずに
ドロップアウト。で、中途半端に世の中に出る羽目に。
でも、いっそ、働くとかよりも、例えば、
哲学教育をやるという建前のNPO作って、国から出た金で
読書会をちょくちょくやる、とかしてみたい。うーん。無理か。
no.15 なまいき小僧 (03/11/30 13:52)
>なまいき小僧さん
無理かなあ。つか、一般市民向けにぜひ、やってほしい。
一般市民への哲学教育の場、って、あまりない(なさそーだ)から。
社会人になってから、切実に哲学を求める気持ちになる人だって、たくさんいるはずだし。
建築現場でバイトしたことあるけど、職人やら警備員やら、哲学の文庫本を、仕事の合間に読んでる奴とかいた(また喋ると面白いんだ、この連中)。市民のための哲学講座、っていうのに行ったことあるけど、いろんな人がいた。若いおねーちゃんからご隠居まで。少数派かも知れないけど、求めてる人はたしかにいる。自分が哲学本を切実に求めはじめたのも、社会人になってから。特に不遇になってから(笑)。いま世の中みんな不遇だし。
というわけで、どんな形であれ、考えてみてください、哲学教育。建前でいいので。
レヴィナス、図書館で読んでみよ。
no.16 4と5 (03/11/30 22:44)
4と5さん、応答してくれてありがとう!
中島義道氏の「無用塾」とかの例もあるけど、
真剣に哲学に触れたい人は本当は大学の外でこそ多いと思うんですよね。
うーん。
どうやって(建前の)活動実績作って、ある程度恒常的な営みに持ってけるかどうかだなあ。多分。制度的に詳しく知らないもので。
NPOはヤクザ屋さんが灰色な仕事の隠れ蓑に使ったりもしているらしいので、
案外土地建物と人間さえそろえば何とかなるのか…いや、土地建物なんて無理だ(笑
つまるところ、哲学できる環境を何とかして整えたいわけです。
要は真剣に本をを読めて、語り合える場が揃っていればよい。
一人で考えるのは寝る前の30分でもできる。
その時間が真剣なものであれば長短は問題じゃないと思うのですが、
それ以上に自分の思考を耕すための読書と対話が重要だったりするんですよね。
働くのは何のため? 生きるため。
何のために生きる? 生きるため。
生きるというのは何のために生きる? 死なないためだ。
…ではさっぱり話が進まないので、むしろまともに生きるためには逆効果の可能性もありますが、
そこで本気になって考えてみよう、っていうのが哲学だと思うんですよね。
本当は、義務教育でやっていいくらい重要なことのはずです。
まあ、そこまで主張するなら大学に入りなおして教員免許とって倫理の先生になれ、
ということになってしまいますけど。
no.17 なまいき小僧 (03/12/01 21:01)
倫理の先生。いいじゃないですか。フランスでは高校で哲学の授業があるんだっけ。ドイツかどっかでは子供のときから「死への準備教育」があるらしい(宗教教育の一環かも)。すげー。
実は自分もよく知らないもので ↓NPOのつくりかた(笑)
http://www.npo-hiroba.or.jp/哲学できる環境。
小さな読書会から始めるのもいいかも。公立図書館の中には、集会室を持っていて、読書会など真面目な集会には、無料で貸してくれるところがある。
自治体所有の歴史的建築物の中には、多目的室を持ってるのがあって、地元の団体にだいたい有料たまに無料で貸し出していたりする。うまくいけば西洋館の一室や茶室、囲炉裏端なんぞで議論ができてしまう(か?!)。
あとは、すぐその気になるノリのいいアホ(いい意味で)が何人かいれば充分。
図書館で『レヴィナス 何のために…』発見。意外と薄い本ですね。読めるかも。実は新規に哲学本読むの、久々。
no.18 4と5 (03/12/07 22:22)
追記 「つくりかた」は、貼ったURL内の、「Q&A」を参照。言葉足らず。
no.19 4と5 (03/12/07 22:34)
NPOの作り方、見てみました。
役員の三分の一が無給ってのは、ヲイ(笑
という感じですが、行けなくもないかもしれません。
でもその前に、うまく集まって読書会できるかどうかが鍵ですよね。
そう、いい意味でノリのいいアホがそろえば…
やってみますか?
とりあえずここで別スレ立てて人を募ってみますよ。
ネタは…ノリで決めればいいや。
ではよろしく!
no.20 なまいき小僧 (03/12/09 12:37)
ルサンチマンって何?
no.21 記入なし (03/12/09 16:34)
ressentiment[仏]恨み でしたっけ
no.22 記入なし (03/12/09 20:53)
>なまいき小僧さん
よろしくって(笑)、マジっすか?!!
no.23 4と5 (03/12/10 02:12)
マクドナルドで哲学書読んでもいいですか
no.24 記入なし (03/12/10 23:51)
〉24
マックで哲学書、ありっす。
おれは喫茶店でコーヒー飲んで読むのが好き。
〉22、23
えーと、ルサンチマン。
おれが理解してる限り、「ルサンチマン」にこだわったニーチェという
哲学者が言うには…
‐‐‐
かつて、権力者や文字どうりに物理的に強い人間に対して、
金もなく力もない弱者が「恨み」、つまりルサンチマンを抱き、
せいぜい知恵を絞って「弱者のための自己犠牲」を正当化する思想を
考案し、広めた。
キリスト教の自己犠牲精神や、
現代では至上の価値のように喧伝されている人権、民主主義など、
どちらかといえば弱者にやさしい部類に入る思想は、
そもそもその歴史のはじめにおいては、自ら力を持てず、
せいぜい言葉でしか勝負できない弱者が自分の存在を強者に対して
正当化しようとしてでっち上げたものでしかない。
逆に言うと、現代の文明はそうしたそもそもの根本的な動機を失い
もはや亡霊のように姿を見せずに蔓延するルサンチマンのせいで、
人間が本来持っているはずだったポテンシャルをすら忘却してしまっている。
そもそも人間は「力への意思」に意識、無意識ともども支配されており、いうなれば弱者の「ルサンチマン」もまたこうした支配への「意思」の捻じ曲がった形に他ならない。精神を支配することは力での支配よりも強いのだから。
‐‐‐
つまりまあ、ニーチェは、
「コクエキとか人権とか自由主義とかITとか言ってるけど、本当に強いのは価値観の枠組みに縋るやつじゃなくて自分の存在をあくまで高め、主張するやつだ」
といってると思う。
no.25 なまいき小僧 (03/12/11 20:00)
4と5さん、
いきなりNPOってのはちょっと…社会経験ないおれには難しいですね。
でも読書会くらいならなんとかなるかな?
住所が近ければ…
別スレたてるのさぼっててすいません。
年明けあたりから身辺が忙しくて…実現できるかどうか(笑
あ、そういえば、一人称が時々変わるのは癖です。
ちょっと多重人格(藁
no.26 なまいき小僧 (03/12/11 20:04)
>>25
ありがとう、何となくわかったような気がしたつもり。
もう少し考えてみます。
no.27 21 (03/12/11 20:41)
なまいき小僧さん
別スレはご無理なさらず。リアルの生活をまず大事にしてください。いつかやりたいな、でもいいじゃないですか。
失礼ですがなまいき小僧さんはどの辺りにお住まいですか?
no.28 4と5 (03/12/11 22:09)
いつも書き込みが遅れて申し訳ないです。
私の在所は神奈川県です。横浜の隣の市です。
でも、いつかできたらほんとに良いですよね。
大学の単位をとるためでもレポートを書くためでもなく
「ただ読みたいから」っていう連中でやる読書会。
ああ、夢だ。
no.29 なまいき小僧 (03/12/16 01:01)
…遠いです。残念!
いまは夢でもいいじゃないですか。
構想、あたためていてください。市民のための
紙吹雪読書会(!!)。
日記拝読しています。テンポがよくてキレがいい文章、
うらやましいです。(スレッド違いか?)
またぜひ。
no.30 4と5 (03/12/16 21:39)
遠いですか… 残念です。
日記拝読の件、感謝です。
近日中にアップします。
文章を書いて誉められたなんて久しぶりです。
no.31 なまいき小僧 (03/12/18 00:02)
上げます。
本を読んでいたら、最近では哲学をきっちりやらなくなったために、論理的に筋道立てて話の出来る者が少なくなったとありました。
ちょっと気になった表現でしたので・・・。
なまいき小僧さん、何か思い当たることありますか?
no.32 記入なし (03/12/19 01:35)
えーと、私の知ってる限りでは、「哲学的思考の訓練」と「論理的思考の訓練」とは、必ずしも一致しないとは、一応思います。
例えば、法学の研究などでも相当厳密に論理的な思考をする必要があるようです。法学部でお人と議論すると、私はたいてい負けます。
彼らは徹底的に合理的な議論しようとするので、哲学がその根底に抱える非合理さや不条理へのまなざしとはどうしても食い違ってしまうのです。
むしろ、哲学で身につくのは、論理的な思考の技術ではなく、批判的で原理的な思考を目指す態度ではないでしょうか。
実際、名だたる哲学者のうち少なからずは、多くは、厳密に論理的な議論を展開しているとはいえないのです。ニーチェやベルグソンなどの、「生の哲学」とまとめられている思索者の議論は、根底に非合理的ものを目指そうとするあまり、うっかり「向こう側」に渡ってしまった思考を内蔵しています。
私の好きなレヴィナスという人は、この「非合理」を人間が人間として生きるための最初の条件と言ったわけです。
そして、その不条理さに飲み込まれ、自らを見失った人間が思想を振りかざして弱者を抑圧するのです。自らが、底なしの不条理に巻き込まれている恐怖から逃れんがために。
そうならないために、哲学や思想は他人に受容されることをあくまで目指していなければならない。その限りで、哲学は論理的になされなければならない。といったところでしょうか。
上げ、感謝です☆
どういたしまして。
ご丁寧に回答頂き、ありがとうございました。
哲学では、「人生とは・・・」とか、確かに抽象的というか、以前の書き込みでの表現を借りて言えば、「非合理的」なものを扱っていますので、厳密に言えば論理的では無いのかもしれませんね。
確かに、法学部の人って私もどこか好きになれませんでしたわ。(ちなみに私は経営学部卒)
何か現実を見ていないっていうか、現実を見ずに法律知ってるのが偉い、って発想がどっかにあって、どこか人を見下した風潮があるようで・・・。
あ、法学部卒の人、気に障ったらすみません。
私なぞ、哲学に関する知識は全くと言って良いほどありませんので、逆に、「哲学」という響きに、少し憧れてしまう部分もあるのですが・・・。
>哲学で身につくのは、論理的な思考の技術ではなく、批判的で原理的な思考を目指す態度
ですか。難しいですね。また何か気がついたら考えて見ます。
ご回答ありがとうございました。また何かあったら教えて下さいね。
no.34 記入なし (03/12/21 01:20)
憧れ、同感です。
で、本の話…。
「…真理との最初の結合は夜になされる。
「…根底に苦渋をやどさぬような一流の芸術は存在しない。…壊滅をつうじて、なんの慰めもなく、神を愛すること。
大したこと何もしてないのにめちゃくちゃ疲れる列車見張りのバイト。
シモーヌ・ヴェーユが身にしみる。ばてすぎて嫁ねー(誤変換ママ)日、多いけど。
冨原眞弓編訳『ヴェイユの言葉』みすず書房 2003
はじめてヴェーユ読む方、おすすめ。
no.35 4と5 (03/12/21 21:40)
>34さん
いやはや、今読み直したのですが、
私の前回の書き込みは乱文というかなんというか、
ひどい間違いが多いですね。いろいろと。
しっかりとお読みくださって感謝の念に堪えません。
哲学を目指す欲望は、レヴィナスによれば
「形而上学的欲望」
と呼ぶべき、だそうです。
私が大まかに読み取ったところでは、
「この世に存在しない・実現しないものへの欲望」
というようなことのようです。こういう考え方、結構怖いんですよね。
「哲学の探求目的であるところの、『人生の意味』はこの世に存在しない・実現しない」
という結論に誤誘導されやすい。
一応、わが師レヴィナスの真意は別にあるようですが。
>4と5さん
ヴェーユ。
なんとなく気になっているんですが…
こないだ出た本ですよね?
ちょっと読んでみたい。
34です。
なまいき小僧さん。ご丁寧にありがとうございました。
乱文だなんてとんでもありません。
私の問いかけが悪かったのかもしれません。
ご参考までに、読んだ本の内容の一部を引用してみます。
〜今の大学生は、論理的な思考に弱点を持つ人が多いですね。目の前で起こっている出来事の、何が事実なのか、何が自分の解釈(意見)なのかが混じってしまうようですので、大学時代の必修として「論理学」は外せませんね。この対談を読んでおられる学生さんにも、「演繹法と帰納法」の用途や意味が解らない人もいるかもしれませんよ。このへんは大学時代に身に着けないと、会社に入ってからでは教えてくれませんからね。
質問者: 道筋をつけて考えていくというのが得意ではないですね。論理的な思考ができていないですから、事実を積み重ねて、じゃあこうだよねというのがとても苦手ですね。
回答者: その通り。私たちの時代は、中学で集合や論理学の基礎をやりましたよね。ところが今はそれは難しいという理由で教えていないのです。変な話ですが、皆がわからないから外すのではなくて、考える基礎だから、早く身に着けさせるべきですよね。其処を考えると、日本の文部科学省の指導方針や計画は時代錯誤ですね。
質問者: 論理学と数学というのはくっついていますからね。
回答者: そうですね。一般的には論理学というのは記号論理学という形で数学に入っていて、命題論理学という形で哲学に入るわけですから、数学や哲学を教養学部で学ばなくなった学生は気の毒ですね。考えるという行為には、どうしても必須なものなのですがね
こんなところです。いかがでしょうか。
no.37 記入なし (03/12/24 00:19)
なるほどなるほど…。
そういうお話だったんですね。
確かにその辺は間違いのないことだと思います。
論理トレーニングというのが、少し前にサラリーマンの必修・教養みたいな感じで流行りましたよね。
引用された箇所で言われている事は、その延長上にあると思われますが、当然、論理的な考えないとえらい誤解をしたまま話が進んでしまう事もあるわけで、そういう意味では大学時代に論理的思考の習慣を身に付けていない人が出世したら恐ろしいだろうなと思います。今の役人とか、政治家とか、経営者とか。
ある意味で、哲学というのは理屈に全てを賭けて行われる営みです。哲学者は論理を操る事に自分の存在を賭けて言葉をつづるわけです。
論理的に思考するという事が大切だということを身に沁みて理解するためには、そうやって理屈に命を張った人の思考をたどるという事も良いかもしれません。
もっとも、企業社会ベースで言われる論理とは、基本的には、意見の合わない相手をねじ伏せるための武器として論理のことでしょうね。
もともと論理学は討論のルールを定める目的で始まった学問なので、無理からぬ事とは思いますが。
私が哲学に何となくしがみついているのは、要するに、そういうような争いの相の元に世界を捉えたくないからです。
no.38 なまいき小僧 (03/12/24 20:04)
お礼に上げます!
no.39 記入なし (04/01/10 01:16)
〉39
上げ、感謝です。
いま、洋泉社という出版社の新書yというシリーズで出ている
『哲学は何の役に立つのか』(西研+佐藤幹夫)
という本を読んでいます。
西研という人の本は初めて読んでみました。
現在96ページ目ですが、手ごたえからすると
このスレッドの読者の方々ならチェックして損はない内容に思えます。
ただ、やっぱり読了してからでないと、ほんとにお勧めできるかはちょっとわかりません。
一応、告知のみです。
みなさま、今年も健やかにお過ごしくださいますよう。
no.40 なまいき小僧 (04/01/13 08:51)
やっぱり哲学って勉強したほうがいいのかね?
勉強すると何か変わるかい?
no.41 記入なし (04/01/13 17:22)
「何か変わるか」と問われると、ちょっと難しいところです。
少なくとも、哲学をやることで突如として思考力が増進するわけではないし、当然、役に立つスキルが身につくわけでもない。
ただ、私の身に起きた場合で言えば、例えばこういう意味で何か変わるかもしれません。
私は、
「もう私はわけがわからない、生きていてる意味なんてまったくわからない、もしかしたらそんなものはないかもしれないけど自殺するのは怖いし、じゃあだったらどうやって生きていったらいいんだ!」
とでも言うようなやり場のない気分になったことがあります(日記コーナーの「人生紙吹雪」、去年の10月あたり参照)。このときは、ある意味で私が本当に哲学に近づいた瞬間だったんじゃないかと思います。
むなしさや無力感に苛まれているときって、そこから抜け出せないような空恐ろしさにがっちりつかまれたような感じで、そのむなしさや無力感の外でものを考えられなくなるものです。
しかし、私の場合、『存在と時間』を読んでその言葉を借りることで、自分の無力感や不安をある程度説明できるようになりました。
これが大きかったように思います。自分を捉えている不安を、理解の対象にすることで逆につかみ返してやった。結構いい気分でした。
おかげでまあ、一線を乗り越えず、つまり自殺も殺人もせずに何とか生きて就活しています。
なんというか、難しくて自分でもうまく言えないのですが、哲学は、正確には、世界や人間、人生の意味を作り出し、肯定するときの武器、道具のようなものなんじゃないかと思います。
結局、私は、かりそめとはいえ哲学することで、私の生活の平和を維持できました。
そこから言えば、哲学は、「生きている意味を感じられない、もう死ぬしかない」というような絶望感が、予感されたり、あるいは目前にあるときだけ威力を発揮する、対「人生の不条理」用に特化した、誰も無意味に傷つけないための、平和なときは扱いにくくて役に立たない最終兵器、ってところではないでしょうか。
no.42 なまいき小僧 (04/01/13 22:09)
>38について、なまいき小僧さん、お久しぶりです。
いつの間にか、話題が進行していたんですね。気が付かなくって失礼しました。
そうですね、というか実際に、上司がまさに、「論理的思考の習慣を身に付けていない」状態のまま、ずるさだけで出世したような人でした。ちなみに金融機関なんですよ。
自分に都合の悪いことは全て、「屁理屈」で片づけ、自分に都合の良いことは「理にかなっている」ことになっていました。
言っていることは一貫性はおろか、筋も道理も無く、矛盾点について質問をすれば、「誰に向かってものを言ってるんだ!」と怒り出す始末。
バカだと思って、最後は放っておきましたけどね。
全て、「あなたのおっしゃる通りです!」ということにしてあげました。それはそれで、また気にいらなかったようですけども・・・。(笑)
いや、金融機関の中高年って、そういうタイプ多いですよ。
実際、私が前にいた金融機関など、今や業績悪いらしいですし・・・。
早くもっと金融機関が潰れてリストラが進んでくれないかな、なんて思いながら見ています。
今後も気に留めていますね。よろしくお願いします。
no.43 記入なし (04/01/14 00:48)
>>42
なるほど。俺の考え方は哲学ではないようだ。
全てのものの存在を否定する道具だからナー。
no.45 記入なし (04/01/14 07:22)
上げ
no.46 記入なし (04/01/16 01:25)
運動、静止をコントロールしているのは誰?操っているのは誰なの??
no.47 記入なし (04/01/16 13:22)
小僧です。
〉37さん
リンクされている箇所を読んでみました。
些か、小林氏の発言中の哲学に関する見解が、おかしい気がします。私との見解の相違ということではなくて、単純な事実認識と、この方自身の発言の論理がおかしい。
まず前者は、
『学ぼうとしたものは、基本的には論理実証主義で、科学哲学の部類に属するものです。僧籍の観点から見ると、科学哲学はある意味では論理を超えた世界で、宗教や哲学とはきわめて近いものです。しかし、哲学と科学もまた隣接する面があり、それを科学哲学といいますので、そのあたりを学びたいと考えました。』
というのは変です。
論理実証主義はもともと科学哲学に「属する」ものではありません。正確に言えば、分析哲学という論理学系統の哲学の方法論から出てきたもので、前世紀初頭に猛威を振るった流派です。簡単に言えば、論理で実証できない主題は真でも偽でもない空疎な命題であるとするものですが、このやり方を科学や哲学に適用してあまりに強力な論陣を張ったために「自然科学は空疎な命題の集合に過ぎない」というところすら越えて「論理実証主義が空疎な命題に過ぎない」という地点まで話が進んでしまい、結局自滅したのです。
つまるところ、論理実証主義は科学哲学の一部門ではなく、より広義の哲学に属する、過去の流行思想です。当時としては強力な議論だったのですが、否定的な威力が強力すぎて自滅してしまったのです。
で、後者の論理がおかしい点ですが、以上に書いたこと事から考えるならだれでもすぐにその論理的な欠陥を指摘できる事と思います。
論理で全てを斬ろうとする思想が、どうして論理を超えたものを肯定する思想である宗教に近い物でありましょうか。
さらに、以下に続く発言も疑問を感じざるを得ません。
「フッサールの論理学を踏まえていないとと哲学が出来ない」
という言葉は、文字どおりに理解するならやっぱりおかしい。
論理学者のゲーデルならまだしも、社会学者の大家であるウェーバーをやる前に「フッサールが理解できなければいけない」というのはちょっと理解不能です。さらに、ヘーゲルの後期思想はウィーンで形成されたというなら正しいが、有名な『精神現象学』はイェーナにいた頃に書かれています。ヘーゲルをウィーン学派という形にくくって理解するメリットが理解できません(そもそもウィーン学派ってどういう意味でいttるんだ? 分野別にいろいろあるぞ、そんな学派)。なにより、ヘーゲルもウェーバーも、論理実証主義とは時代的にも思想内容も関わりが薄い。
全くでたらめと言い切るにはためらいを感じる部分もありますが、この方の記憶の中の哲学史は相当ユニークな物である事は間違いないと思います。大学で論理学を教えるべきだというのは大いに賛成しますが、そういう主張をされる方の主張がこうだと、どこまで本気でそう語っておられるのか疑問を感じざるを得ません。
ここから先は冗談ですが、この方が実はCIAのエージェントで、哲学研究をされたというのは何か別のことを隠蔽しているのではないかとつい思ってしまいます。その他の経歴を見ますと、その辺の条件を満たされた方のようですし。
no.48 なまいき小僧 (04/01/16 14:15)
48がやや言葉足らずで同時に言い過ぎてもいるのでちょっと書き足します。
やっぱりバカ上司に限らず、頭の悪い&話の通じない目上というのは非常に迷惑ですね。こういう方たちは強制的にどこかに収容して再教育しなければいけないんじゃないか、ぐらいの事を思います。
ただ、そうやって「論理的でなけばいけない」という主張をした以上、自分でそれを守らないといけないわけで、それなりにしんどいことですが、そうやって常に自己を律している限り成長を続ける事が出来るのは間違いないと思います。
いわゆる「バカの壁」というのは、バカさ加減というよりも、理解し、思考することを放棄した怠惰が原因になっている気がします。
no.49 なまいき小僧 (04/01/16 14:27)
〉45さん
私にとって哲学がたまたま肯定につながっているだけで、全てを否定するための哲学をされている方がいても別におかしくも何ともないですよ。ただ、私の生活圏にそういう趣旨のかたが関わってこられたときは、真剣にお相手する事にしております。
)47さん
おたずねの件は、じつは古くからある代表的な哲学テーマの一つです。
で、私の師匠から教わった事などを思い出して色々思うところを書き込み、
「よし! 仮定、命題、論証、結論ともすべて完璧だ!」と思って「書き込む」ボタンを押したところ…
「改行が多すぎてだめぽ」と表示が出て全部飛んでしまいました。
それはそれは、疲れがどっと…。
申し訳ないですが、そのとき頭を掠めていたアンチョコ本だけ上げておきます。
元気が出たら、また書くかもしれませn。
シリーズ・哲学のエッセンス
カント 世界の限界を経験することは可能か
■著者
熊野純彦 著
■発売年月日 2002年11月26日
■定価 [本体1,000円]+税
■送料 210円
■判型 B6判
■ページ数 128ページ
■商品コード
0009303
■Cコード C3310(哲学)
■ISBN 4-14-009303-X
NHK出版のページで内容がチェックできます。ただ、物理的な厚みの割りには値段が高いので、図書館&ブックオフ活用作戦をお勧めします。
なまいき小僧さん
熱心なご回答、誠にありがとうございました。
ただ、内容はあまりに高度で、私にはあまり理解できませんでした。(苦笑)
そうですね、私は別に小林氏と面識があるわけでも何でもありませんので、何とも言いようはありませんが、彼の発言も、後編では私にとってよく分からない所だらけでした。
ただ、恐らく研究をされたのが昔の話ですので、古い時代の哲学のままで止まってしまっている、あるいは過去の忘却がある可能性は高いと思われます。
一度、小林氏に連絡を取ってみてはどうでしょう?
もう少し詳しい話が聞けるかもしれません。
私は、哲学上の内容についてはさておき、組織の中で個人が最高に能力を発揮できるスタイルを考える旨の発言には、経営コンサルを目指す者として大変、興味と共感の持てるものでした。
私の持った感想はその程度のレベルですのでご了承下さい。
私が独り言でよく使う口癖に、「全く、こいつは頭が固いのか悪いのか・・・」というのがあります。
結局、頭が固い=頭が悪いで、同じ事ではないかと思っています。
哲学にあった表現のように記憶していますが、「人間とは、観念で生きる動物である」と申します。
いわゆる中高年の世代は、思い込みの激しい世代です。
言い換えれば、「固定観念」とか「先入観」といったものが強すぎるのですね。
結局、思考することを放棄したというのと同じことだと思います。もはや、現実を直視することができなくなっているのです。
中高年にパソコンの扱いを苦手にしている人が多いのですが、これも、このような事情によるものと説明できるのではないかと思っております。
すなわち、相手が人間ならば、強く言えば相手がそれを受けて動いてくれますが、相手がパソコンでは命令通りにしか動いてくれませんよね。そういうことだと思うんです。
私は、正しく哲学を学んだことは一切、ありませんので、こういった周りを観察した結果しか書けませんが、哲学上なら十分、こういう現象は説明できるのでしょうね。
また何かあったら、教えて下さい。よろしくお願いします。
no.51 37=44 です。 (04/01/17 01:17)
立てた本人の私が荒らしてしまった結果、
寂れてしまったこのスレッドですが、
まあまだDAT落ちしていないので今のところ生体反応アリとみなして書き込みます。
最近、自殺関係のスレを見ていて感じますが
いったいどうやったら生きている実感て奴をつかめるのでしょうか?
私もさっぱりわかりません。
痛みや快感すら希薄にしか受け取れず、自分の体のレベルで実感がないという人には、
「思いっきり動いて疲れてみろ」とか、「極限状況に身をさらして生の実感を掴み取れ」といっても、おそらく効き目が薄い。
基本的には、リアリティってのは自分の体で感じるものですから。
それこそいわゆる三大欲求や疲労感、苦痛、性的快感など、「基本的に逆らいようのないもの」のおかげでリアリティというのは成り立っている、と思うです。
そのレベルで「感じない」人は、
ほとんど人間の生き生きと活動する世界からずり落ちかけているんじゃないかとすら思えてくるのです。
私個人はいまのところ幸いにもそれほど希薄な存在感覚を持ってはいないのですが、
たまに「ずり落ち」に近いことは発生します。
いったいどうすれば?
no.52 なまいき小僧(兼ぺけぽむ) (04/02/09 21:59)
退屈でも、存在していればいいと思います。
no.53 記入なし (04/02/10 10:26)
対話することじゃないでしょうか。
できればリアルの人間と。安心でき、信頼できると感じた、誰かと。
あるいは動物と接触することで生きる実感が戻る人もいるかもしれない。
あるいは好きなモノと接触し続けること、
ある作業を続けることで、現実感を取り戻せる人がいるかもしれないけど。
希薄さにもかかわらず、誰かと、何かと、世界と、対話し続けること。
ナマの何かに触れること。
(他のスレッドでも似たようなことを言ってますが…)
希薄ながら、対話し続けることで、少しづつ、ずり落ちてる状態から戻れるのかもしれない。
特定の人と会うときだけ、パッと心に火がともるような状態になって、それが徐々に世界全体に向かって広がっていって、ずり落ちから戻ってくるのかもしれない。
鬱病で治療中です。
文章を書かなきゃならない仕事が待ってるんですが、何も思いつく力がなくて、逃げてます。
もう書けそうにない気がして。
先日、ある友人に久しぶりに会ったとき、まだ元気なときの自分の、書くときの感覚が、急に
本当に唐突に戻ってきて(一時的なもんですが)
帰途、嬉しくて、泣いてしまいました。
友人とは大した話はしていないのです。恋愛感情やら宗教がからんでるわけではありません(笑)。
しかし、現実の人間と、会って話をすることの持つ力に、驚かされました。
安心でき、信頼できる誰かと、あるいは何かと、接触し、それと対話することで、意外な自分の力に気づき、生きている実感に近づくこと。どういう対話が希薄な存在感覚に「効く」のかは、心理療法の技法の話になってしまうのでしょうが…
意外と、この呼吸法が効く!とか、あったりして(笑)。
no.54 4と5 (04/02/13 22:36)
おそくなりました。小僧です。
>4と5さん
確かに「対話」って効きますよね。
何度か私も救われてます。
そういうときの対話の内容って、割と「何でもあり」な気がするんです。
多分、人間の会話ってのは、言葉以外のものとか、言葉以上のものを交わしあう要素があるんですよね。
例えば、無理押しになったり、誤解が発生したり、勘違いで真理が伝わらなくても発語した目的をクリアできたりしますよね。
だからまあ、どんな言葉でも救済の言葉の候補になりうる、とか言ってみたり。
逆にその予測不可能さが、狙って効果を出そうというときには邪魔になったり、言外に目的を達成してしまったりで、そこに「対話」の可能性があるのかもしれません。
ある意味で、言葉の「予想のつかなさ、見当のつかなさ」の中に自分がおっぽりこまれることが「ずり落ち」を防ぐのかもしれません。
固まって平板化した現実という枠からの「ずり落ち」を気にしている状態ですから、逆にその枠を生き生きとしたものに飛躍させればよい。なら、その現実を語るのも言葉ですから、ひたすら自分の生きている現実
について語るうちに現実そのものが飛躍してずれてくれるか…、
いや、ちょっとわがままが過ぎますね。
ところで、ニーチェが
「欝は高貴で大切なものだから、大事にするのが良い」
と、どこかで言ってました(うろ覚え)。
というわけで、お大事に。
文章を書く仕事では、鬱気分がマイナスに作用しないこともありますし、あまりご自分をお責めにになられませんよう。
no.55 なまいき小僧 (04/02/18 15:12)
古代インドのウパニシャッド哲学!
no.56 哲学といえば (04/02/18 22:40)
55の書き込みで、ちょっと事実と違う事を書いてしまいました。
ニーチェの言葉では「鬱」じゃなくって「苦悩」となっていました。
まあ、翻訳の都合その他を勘案して「鬱」と読み取れない事もないのですが、情報としてはまちがっとります。もうしわけない。
)56さん
おお。
インド哲学は、私、全く素人です。
最近本屋で『空の思想史』(著者名忘れたー、講談社学術文庫で出てるやつです)と言う本を買いました。まだほとんど読んでないですが、仏教哲学もとても面白そうですね。
no.57 なまいき小僧 (04/02/20 02:14)
なまいき小僧さん、懐疑主義を教えてもらったものです。
このスレにも顔を出してみました。
インド哲学には究極の一冊がありますよ。
これを読めばウパニシャッドも数々のヴェーダも一切読む必要はありません。
それほど深い「真実の意味」があるのです。
哲学の理論と信仰が見事に融合したインド思想の最高峰。
それは「バカヴァッド・ギーター あるがままの歌」です。
ギーターは大乗仏教などの空の論理も凌駕してます。
ありがちな宗教本でもありません。
どちらかというと私は、生きる意味を教えてくれ、苦しみのない安易な生き方を教えてくれる、「人生のハウツー本」というイメージを得てます。
作者はクリシュナの弟子A.C.バクティヴェーダンダ・スワミ・プラブパーダさん。バクティヴェーダンダ文庫社刊
オススメです。
no.58 記入なし (04/02/20 05:58)
小僧です。
お越しいただきまして、どうもどうも。
なるほど、それほどすごいものがあるのですか…
一応自分で読んだ本に限って私は評価を決定する事にしているので、とにかく入手次第読んでみますね。
no.59 なまいき小僧(ぺけぽむ別キャラ) (04/02/20 21:10)
クリシュナ意識国際協会(ハレ・クリシュナ)ですね…カルト論争でもお馴染みの。
no.60 記入なし (04/02/21 01:04)
60さん、
>クリシュナ意識国際協会(ハレ・クリシュナ)
とは、何ですか?
いや、自分で検索すべきですな。やってみます。
no.61 なまいき小僧 (04/02/22 12:40)
宗教団体には興味を持たないほうがいいですよ。
本を読んでその思想を自分の人生に役立てるだけで十分です。
no.62 記入なし (04/02/22 12:49)
>>55、57
なまいき小僧さん、ありがとう!嬉しかったです。
なまいき小僧さんも大変なときに、お気遣いいただいてすみません。
ニーチェの言葉、了解しました。
健康な人より、軽度の鬱病の傾向のある人の方が、気持ちが高揚しやすいという調査結果があるそうです。混乱の裏返しだというのですが。
その点、もう少し軽くなったら、生産性は上がるかもしれません(笑)。
>どんな言葉でも救済の言葉の候補になりうる、とか
たしかにそういうこともありますね。沈黙も。
>現実そのものが飛躍してずれてくれるか…
投薬の助けも借りない心理療法で、ただ対話を重ね,
自分の現実について語るうちに
病気という現実を変える、という作業もありますから
全然ずれてはくれない、というわけではないかもしれません…。
別のスレッドで懐疑の話が出ていましたので
↓ 懐疑についての最も平易(!)な本
清水哲郎・文/飯野和好・絵『うたがいのつかいみち』福音館書店1993
図書館で発見。自分のような哲学若葉マークの人に。
ウパニシャッド。なんとかの木の喩え、とかいう一節に
「大木の実の中の種を割っても何もない。この見えないものから、この大きな木が生い立つ。この微細なもの、すべてはそれを本質としている。汝はそれである」
というのがあって、うろ覚えながら、なんとなく気にいっています。
講談社学術文庫、もっと安くなってくれー。
no.63 記入なし (04/02/23 00:07)
↑ 4と5です。失礼しました。
no.64 4と5 (04/02/23 00:11)
俺は宗教団体にのめりこんだほうがいいと思う。幸せになれるしな。
no.65 記入なし (04/02/23 01:08)
小僧です。
>4と5さん。
私も、講談社学術文庫、もっと安くなってほしー。
安めのハードカバーくらいの値段ですよねほんと。
あの文庫のコンセプトがそうなのかもしれないけど…
それにしても、少し軽めの鬱というのがキーですね。
軽めの鬱から平常ぐらいの間でコントロールできれば生産性と心の平安と快活さがいいとこ取りできるかもしれない、なんてまた都合よく考えたりしています。
実は、
清水哲郎先生には御本人の講義に出席してちょっと会話したことがあります。
講義内容は、臨床倫理学と題して、末期医療や遺伝子治療、救命医療などにまつわる倫理的に難しいところに関係したものでした。
「末期癌の患者とその家族に対してどう接すればよいのか。どう接し方を考えればよいか」、
「事故などで意識不明になった重傷患者本人の承諾なく治療をして、結果回復後も障害を残して苦痛の多い生を送らせることを直ちに正しいといえるか」等等。
本と抽象的な議論だけの世界にはない、現実に重い話でした。
今にして思うことは、懐疑主義が肯定的な動機で持ち出される時というのは、もしかしたら、死に直面した人に向かって「重い」肯定を差し出すときにくぐらなければならない関門のようなものかもしれない、ということ。
自分で「良かれ」と思って行動しても、相手によってはそうでないことに厳しく直面することがある。とすると、考えられる否定的な可能性や現実に自分が否定されることをいろいろ覚悟しながら何とか肯定をつかみ出さなければならない。
こういうときに安直に自分の行動に固執して固まってしまわないために、健全な懐疑が役に立つ、というあたりが、私の懐疑主義への肩入れの理由ですね。
no.66 なまいき小僧 (04/02/23 10:35)
その懐疑主義への入れ込み方、いいですね。援助する側には必須の態度ですね。
懐疑によって、肯定は精練される、ということでしょうか。肯定が、より微に入り細に入り、受苦の間を縫ってなされるために。
…鬱が回復に向かう頃や回復の後、というのは、特に、他者への援助への関心も強くなる気がします。そんな時、善意と正論ほど拷問具に変わりやすいものもない、と自戒しながら、
懐疑の健全さをも携えていけたら、と思います。
清水哲郎先生、そういう方だったんですか。
著書、また見つけました。『医療現場に臨む哲学』勁草書房1997、まだ全部は読んでいませんが。
「自らの思惟によって時の流れを鳥瞰する視点に立ち、瞬く間のほのかな光であると自らを見、また自らの傍らで瞬いている他者を見ることが、そこから再び、過ぎ行く者としての視点に戻って、悲しみに裏打ちされた喜びを共にする仲間として、傍らにある者を受け入れることの始まりとなろう。…
私たちは共に過ぎ行く者であり、死に向かう存在である…だが、『過ぎ行く』ということが『現に共に存在している』ことを、『死に向かう』ということが『共に生きている』ことを指し示している。…」
他者を受け入れ、共に生きるための実践に付き添う哲学。
哲学が、実践の現場に生きるもの、というイメージがあまりなかったもので、少し驚きました。
軽度の鬱。思考力、記憶力、言語能力の低下というダメージさえなければいいのですが(泣)。
no.67 4と5 (04/02/28 14:22)
>4と5さん
軽度の鬱。確かにデメリットが…こればっかりはコントロールできないんですよね…
欝っぽい状態で就職試験に臨み、惨敗したことが何度かあります(泣)。
結局反動で気分が良くなるまで頭悪いまま、みたいな事があって辛いっす。
さて、懐疑主義ですけど、うまく肯定をつかみ出す方向に運用できれば、うまく自分自身の肯定もつかみ出すことが出来るのではないかと。
他者に向かって差し出したその手が、最終的に恐らく自分を暗い淵から引っ張り上げてくれるのではないか、と思うのです。
恐らく哲学が実践で役に立つときというのは、「暗い淵」に直面した時のことなのでしょう。
「情けは人のためならず」という言葉は、見かけ以上に奥深い真理を含んでいる気がします。
no.68 なまいき小僧 (04/02/28 21:50)
なまいき小僧さん、ありがとう!
『うたがいのつかいみち』についての説明。…「デカルトの疑いをウィトゲンシュタイン風に乗り越え、…最後にはアウグスティヌスの『時と永遠』にいたります」
モノスゴイ本だったんですね…(←解ってない)。
『医療現場に臨む哲学』への、医師の書評もあって面白そうですね。
自分の頭でどこまで理解できるか心配ですが(笑)、拝見します。
no.70 4と5 脊髄反射レスヴァージョン (04/02/28 22:56)
大丈夫ですとも。
個人的な経験から感じる事ですけど、哲学の基本的なアイデアは、求めている人には自然に開かれているようです。
どうやら、求める人の「哲学の病の深さに応じて」、おのずと問題とそれに関する思索が開かれるようです。
なので、高尚な学者の名前がいくら出てこようが気にしないでオッケーです。そんな人たちだって、基本的には凡人の私たちと似た問題や動機を抱えていたはずですから。
学説史や文献上の根拠を踏まえた高度な議論を戦わせることに本質的な部分があるんじゃなくて、
しぶとく自分の興味にしたがって「何故なんじゃ〜、コラ」と言い続けることがまさに哲学、だと思います。
あ、でも、時々、丁々発止の空中戦みたいな議論をやってる人を見るとつい憧れたり…まあ、そういう議論って、他人の立場からは意味がなかったりするんで、気にしないでいいんですよね。
ついうっかりそんな方向に流れて、自分の興味を見失ってしまうと言う失敗(しかもそこから学習しない)には、私は事欠かないんです。
まあ、そんな風にでも、哲学は基本的に誰にでも開かれています。
開かれ方が、人によって様々なだけで、それが場合によって難解な議論の形をとることもある。それだけの事だと思います。
no.71 ぺけぽむ (04/02/29 02:09)
ぺけぽむさん、お久しぶりです。励ましてくださってありがとう。
>他者に向かって差し出したその手が、最終的に恐らく自分を暗い淵から…
ちょっと感動しました。美しい文章を書かれますね。
>哲学は基本的に誰にでも開かれています
そうですね。死が誰に対しても開かれているように。
以前、「生きる意味…」スレッドでも、「誰でもがいつか死ぬ、というのは避けられない事実でもあるわけで、一旦それにとりつかれると簡単には忘れられないことなわけです」と触れられていますが、
私も死の想いとでもいうべき感覚にとらえられたことはあります。
死に直面した人の最初の世界観はまさにこれなんじゃないか、と思うような、寂しさ、悲しみ、激しい不安感、無気力。これまで自分を支えてきた足場が崩れたように感じ、それまで自分を支えたり楽しませたりしてきたものがその力を失い、どんなものも自分を慰め得ない。自分も人も、いつかは死ぬ存在にしか見えない。死ぬのが怖い。…実際人がいつか死ぬことは普段から知ってはいますが、その事実がある日実感として自分の喉元に迫ってくるわけです。夕方から夜にかけて少し和らぎますが、朝ごとにこの不安と悲しみは鮮烈になり、不安のために死ぬこともあるんじゃないかと思うほどの苦痛でした。
自殺でさえ、無意味なものにしか思えませんでした。…自分がこの苦痛から逃れて死んだところで、死と直面したときの問題は変わらない。この死の認識を受容して、不安に圧倒されながらでも、生を肯定し、全力を尽くせるようにならなければならないのではないか、…でもどうしたらそんな気になれる?なれなくても、とにかく動かなければ…。
こんな調子で生きていました。
この情態は、しばらくして消失しました。乗り越えたのではなく、単にきっかけとなった喪失体験から、時間が経過して自然に回復してしまっただけなのですが。この不安が続かなかったのは、自分に根源的な問いに対峙し続ける力量がないからだ、と勘ぐったりしました(笑←実際そうかも知れませんが)。
この経験のあと、特に実存主義哲学の中の、不安という言葉を探すようになりました。
この死の不安を理解するのに、ぺけぽむさんは哲学ではどの辺りの本を読まれますか?
妙な質問ですみません。スルーしていただいても結構です。
no.72 4と5 (04/03/08 21:39)
ぺけぽむ(=小僧)です。
若干ペルソナに違いがありますけど基本的には同じ人間ですので、両方の役割分担を兼ねてお答えします。
個人的には、本当は実存主義にはあまり詳しくないのです(申し訳ない)。
実存主義に入る哲学者のもので言うと、サルトルの『実存主義とは何か』、そしてニーチェ、キルケゴールあたりぐらいしか読んでいません。
むしろ「強い主体」であり続け、その結果として自分が世界の主人公であるかのように振舞おうとする実存主義の思考に、私は若干ついて行きづらいものを感じるのです。
誰もが自分の死に直面し続けて生きられるわけではないわけですから。
それに問う力量の多少もありますけど、よくよく考えると、そもそも日常とは死について考えないでいられる状態のことだから、というのもあります。
私の最初の哲学の師匠であるレヴィナスは実存主義とちょっと違う事を言っていました。
私が理解している限りで編集して言えば、
「他人の死について考える、何らかの仕方で関わるなどの仕方で、自分の限界である死を超えることが出来る」
という様になるでしょうか。
ちょっとここで、実存主義の弱点について考えるために、実存主義の源流にあたるハイデッガーが言うような死を考えてみます。
ハイデッガーが言うような死は、私が色々このサイトで死について書いたことの元ネタになっています。
さて、
あくまで自分の死のみを見つめる時の心の状態を考えます。それは自己の完結する最終地点だけを見つめている事と同じなので、結局、その視野の中のものはそのときの自分の関心によってだけ意味付けられる事になる。当然、何もかもが自分の死との関連でしか意味を持たない事になるのです。
…これでどうやって自分の死に立ち向かえというのでしょうか。その状態ではどこに行っても自分の死が付きまとってくる状態になるわけですから、畢竟どこにも足を踏み出せない状態に陥ることになるわけです。
この時の態度そのものは真摯なものです。しかし、その真摯さが結局自分にのみ向かっているなら、他者への視線を失わせ、挙句自分を追い込んでの自殺や、あるいは逆説的に他者の無視や積極的な排除(「ユダヤ人虐殺」や「サリン散布」など)に転化するのではないかと思うのです。いずれにしても、とても不幸な結果です。
そこで、レヴィナスは、自分の死より重い物があるだろう、と言って懸命に抜け穴を探すわけです。
自分の死より、言い換えれば自分より大切な物を、自分が不幸にならないために探すのです。
no.73 ぺけぽむ(兼なまいき小僧) (04/03/09 17:08)
あなたは
唯物論者ですか?
それとも観念論者ですか?
no.74 記入なし (04/03/09 17:18)
多分私にお尋ねなんだろうと思いますので、その前提で返答します。
観念論と唯物論の、そのどちらでもありません。
質問の意図を明確にしていただければ深く突っ込んでお答えできますが、
ただ一言だけ、その二項対立で全ての対立を包括できるとは私は考えません。
(もっとも、全てを包括できるような二項対立なんてないはずですが。)
no.75 なまいき小僧 (04/03/09 17:51)
勝手に補足しとくと、そもそも唯物論と観念論は対立してないからな。マルクス主義者でもなければ無意味な質問だ。
唯物論の反対は唯心論、観念論の反対は実在論。
no.76 記入なし (04/03/09 17:56)
おお、そうだった、まったくそのとおりです。
まったく、私は本当にこれでも院生なんだろうか。
というわけで、補足、感謝します。
それにあわせて訂正しますと、やっぱり
「どちらでもない」
かもしれません。
「意味」をまったく与えることなくモノを見る事は出来ない、というより、モノを「見ること」自体が「意味を与えること」に等しいと考える立場なのでだいぶ観念論的なわけですが、
むじろ「観念対実在」の対立が発生する地平について考えることが出来るとする立場に入るので、結局その対立にコミットしたくても出来ない、する気もない、というところです。
重ねて、
訂正、どうもありがとうございました。
no.77 なまいき小僧 (04/03/09 18:27)
難解な言葉が多いスレですね。w
なまいき小僧さんにお聞きしたいのですが。
なぜ面接でいつも落ちるのかとか、やりたい仕事が見つからないなどの悩みは哲学で解決できるのですか?
no.78 記入なし (04/03/09 19:47)
モノの見方とか考え方を変えてみては?ってことじゃないのか。
ちゃんと哲学スレを名乗っているんだからいいんじゃないか。
no.79 記入なし (04/03/09 19:53)
>>79
別にスレを否定はしてないんじゃないか?
確かに揶揄してるような感じはするが。
no.80 記入なし (04/03/09 19:54)
>>80 79だけど、否定してるとは言ってないよ。哲学スレを名乗っているんだから”哲学”に重きを置いていいんじゃないかと言っただけ。
no.81 記入なし (04/03/09 20:00)
うーん、何かどうでもいいんだが、79の言葉を借りれば、
78は「哲学重きを置いてよくない」とは言ってないんじゃないか?
ってことでOK?
no.82 記入なし (04/03/09 20:03)
揶揄しているのなら良くないよ でOK
no.83 記入なし (04/03/09 20:04)
揶揄してるような感じはするって言っただけで、実際に揶揄してるかどうかは知らないよ。
80で言ったのは、
「揶揄してるようにもとり得るけど、はっきりそういってないからいいんじゃないか?」
ってことだよ。仮に揶揄だとしても(79は)78に対する応答にはなってないしね。汲み取ってくれよ。
もうこの話題はお仕舞い。
スレ汚しスマソ>スレ主
no.84 記入なし (04/03/09 20:14)
はた目では80が79の揚げ足とって煽ってるだけだな。w
sage
no.85 記入なし (04/03/09 20:26)
そう見えるか?残念だ。
俺としてはなまいき小僧氏がなんて答えるだろうかということに興味があったというだけの話なのだが。
no.86 記入なし (04/03/09 20:29)
>>85 79だが、そうは思っていない。煽るな。
スレ主さん。 ごめんなさい。
no.87 記入なし (04/03/09 20:29)
そういうことか 邪魔したな78
no.88 記入なし (04/03/09 20:31)
ワロタ >>81は”なぜ哲学で?”の答えだろ?
84の言葉を借りれば、82は)81に対する応答にはなってないしね。ってところか。w
俺としては81がなんて返すか興味があった。残念だ。
no.89 記入なし (04/03/09 20:47)
>89
すまん、必死で考えたけど文章の意味がわからない
no.90 記入なし (04/03/09 20:55)
>>88 同意。黙って見てりゃよかったのに。w
no.91 記入なし (04/03/09 20:55)
小僧です。
私が来ていない間にいろいろあったみたいですが、
まあ皆さん落ち着かれてようで安心しています。
個人的には哲学というのは難しいことなので、時に難解になるのは仕方がないと思いますな。無意味に難解にしようとしたつもりはないです。
さて、78さんのご質問ですな。
「面接でなぜ落とされるか」については、哲学よりも就職活動用の面接マニュアルを徹底的に読み込んで内容を完璧に消化し、さらに知人と模擬面接して練習するとかの常識的な対策をしたほうが現実的です。
哲学しないで働いている人のほうが圧倒的に多数派ですから。
「やりたい仕事がみつからない」というのはかなり厄介ですね。個人的にはこういう生き方に関わる問題のほうがいじりがいがあります。
最近のリクナビ的な就職観に顕著ですが、
「やりたい仕事を見つけ、それに従事して働くことを通じて自己実現する」
というパターンがありますよね。
でも、そうでなくっちゃいけないと、誰が言ったんですか?
もともと労働というのは生きるためにやるものではないですか?
自分の理想を見つけ、それを実現する道を見つけ、最後には成功を手にする…
そんな自分の人生の物語を形成できる人が何万人もいるって、おかしいと思いませんか。現実に働いている人が本当にそんな物語を本気で信じているのでしょうか。
むしろそれを本当に信じられる人は、ごくわずかの幸せな少数派なのではないでしょうか。
…話がちょっと哲学とずれていますな。
これ以上は「新しい働き方を考えるスレ」のほうで続けるべき話とも思えます。
私個人の結論を言えば、哲学は目の前の問題の解決にはあまり役に立たないものです。火急の問題ではないくせになかなか念頭から消えない難しい疑問に対してだけ、有効です。
これ以上は、哲学書を読むなどして哲学に触れてみるなどして、ご自身で確かめられるより外はないかと。
no.92 なまいき小僧 (04/03/12 12:11)
↑( ´,_ゝ`)プッ
no.94 記入なし (04/03/12 14:52)
小僧です。
92でいろいろ書き込みましたが、
「新しい生き方を考えるスレ」で旧スレ主の方が現実的な処方箋を提示されていますね。とてもすばらしいので、未見の方はご参考になさってください。
で、つまるところ、
哲学は結局哲学それ自体を目的としているので、就職のために役に立つものではないです。
私も就職活動では「あー、認識というのはうんたらかんたら」などと言ったりはしません。
結局、多少嘘でも何でもなにをやりたいかをはっきりさせないことには採用する側も取っ掛かりがなくて採用できない、ということになるでしょう。
no.95 なまいき小僧 (04/03/12 15:07)
なまいき小僧さん
わざわざつまらない質問にお答えいただきありがとうございます。
少しなりにもモヤモヤした悩みが解決出来たような気が致します。今後気持ちを入れ替えてまた仕事探しに励んでいきます。くだらない質問及び失言をなにとぞお許しください。
なまいき小僧さんに幸せが訪れることをお祈り申し上げます。
no.96 78です (04/03/12 15:25)
良かったな 78
no.97 記入なし (04/03/13 08:53)
タガタメ
no.98 記入なし (04/03/14 22:38)
>>73
4と5です。
なまいき小僧さん(HN混同失礼)、ご回答感謝します!
いつもお礼が遅くなってすみません(つか返答する気あんなら早くしろ!>自分)。文章作成能力が落ちまくっています。
実存主義。そういうご意見をうかがうと少し楽になります。
レヴィナスについて、わかりやすい解説を有難うございます。
自分の死より大切なもの。
…あの死の想いのさなか、自分の激しい不安を外に影響させることなく、要求されないうちに、礼を言われる間もないほど的確に誰かに配慮できたとき。それが、あの経験の中で味わったわずかな、ささやかな勝利でした。
他者の死に関わる、とまではいきませんが、自他の死の不安に動揺させられている自分をとにかくそのまま置いておいて、他者の不足のために動けたことが、当時わずかに救いになったことは確かです。不安に変わりはないにしても。
(また何かずれたことを言っていましたらすみません)
死すべき存在である他者を見い出すことが、自分の死と立ち向かう上で重要な鍵となるのですね。
それについての記述のあるレヴィナスの著作は、何がありますか?
(チャレンジャーですね私も…多分いま読んでも玉砕です(笑)。おすすめの『レヴィナス 何のために生きるのか』に次いで2冊目の、熊野純彦『レヴィナス入門』ちくま新書1999を、やっと読んでいるところです)
あるいは、比較的わかりやすい著作、関連書は、あるでしょうか?
no.99 4と5 (04/03/17 04:39)