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議論 日本史について語りませんか?
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投稿者 : 記入なし 日時 : 08/02/04 22:11

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(σ・Д・)σゲッツ!!小判百両
no.100 記入なし (08/03/09 17:29)

日本の歴史における最大の関心事は?と聞かれたら。
確かに天皇家を遡りたい。そうすればいろいろわかるんだろう。
no.101 ネロ (08/03/09 20:04)

>98
日中戦争・太平洋戦争がなぜ侵略戦争と言われてしまうのか謎だな。
no.102 記入なし (08/03/09 20:23)

そうだね・・・。
no.103 サイコロ (08/03/09 21:08)

戦国大名、北条早雲の素性は? 
no.104 記入なし (08/03/09 21:11)

伊勢平氏の末裔だと
自称していたとかいないとか・・・
no.105 サイコロ (08/03/09 22:29)

伊勢新九郎長氏という人物は、全くの別人として実際にいたそうだ。京で礼儀作法を下の者に教える役割をしていたとか。
だから北条早雲とは別人。早雲の素性は全く分からない。が、北条氏を名乗ったからには、やはり平家の流れを汲んだもの、としか思えない。
no.106 記入なし (08/03/09 22:35)

食い詰め浪人で
今川家に潜り込んだところから
運が開けてきたというか・・・

それなりに格式ないと
今川家には入れないと思うのですが・・・
no.107 サイコロ (08/03/09 22:41)

では、やはり伊勢新九郎長氏?
no.108 記入なし (08/03/09 22:47)

どうなんでしょうか・・・
経歴詐称ってのもあるかも
no.109 サイコロ (08/03/09 22:51)

あるいは
伊勢神宮の関係者とか
詐称したのかも・・・^^
no.110 サイコロ (08/03/09 22:54)

烈公・徳川斉昭は大の艶福家だったといいますが本当ですか?
no.111 記入なし (08/03/09 22:59)

 斉昭は単に艶福家であったのみならず、女色に淫すること甚だしく、兄嫁・峯姫(徳川家斉の娘)の上臈・唐橋(元大奥女中)にも手を出していたと言われる(三田村鳶魚の著作より)。また大奥の女性達に対して、今で言うセクハラまがいの発言も多かったと指摘されている。このため、大奥の女性達に忌み嫌われており、息子・慶喜の将軍継承にも影響があったとされる。なお、斉昭は生涯に男女あわせて37人の子供をもうけたが、その多くが各地の藩主になったり、嫁いだりしている。
no.112 サイコロ (08/03/09 23:14)

↑出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
no.113 サイコロ (08/03/09 23:16)

サイコロさん、恐れ入ります
no.114 記入なし (08/03/09 23:23)

今川義元の武将としての評価はどうなんですか?
no.115 記入なし (08/03/10 18:31)

もともと、出家していたのを、父の氏輝の急死で現俗したから、そんなに厳しい武将としての躾は受けてないですね。ただ、頭は切れる人物だったそうですよ。
しかし、京を目指して尾張に攻め込んだときの作戦に問題がありますかね。2万5千の大群を小城を攻め落とすためだけにどんどん分散させてしまって、桶狭間では義元の周囲には1千ほどしかいませんでした。また、古い大名家に伝わる恒例というか、戦の前に兵に酒を飲ますのを許したのもまずかったですね。信長が攻め込んだとき、今川兵はみんな酔っ払っていて、最初はけんかが起こったと思ったそうです。織田の兵は、それもあってやすやすと本陣に切り込めた、という感じですね。
no.116 記入なし (08/03/10 18:44)

今川義元って世間一般では、信長に討たれた敵役で、単なる公家趣味のお歯黒武将みたいになってるけど、これって明らかに過小評価ですよね。
単純に、当時2万5千もの大群を率いて上洛できるだけの力を持ってたというだけでも凄いわけですから。
軍師であり僧であった太原雪斉が存命だったら、桶狭間での悲劇は有り得なかったのではないでしょうか・・・。
no.117 記入なし (08/03/10 19:26)

今川というと、よく武田や北条との関係が持ち出されますが、もっと義元を評価すべきところは、三河の松平元康(徳川家康)を離反させなかったことですね。
上洛するに、一番抑えて置かねばならなかったのは三河です。
no.118 記入なし (08/03/10 22:09)

黒田如水とは、どういう人物でしたか?
no.119 記入なし (08/03/14 22:03)

なんで突然日本史なんだ!? ちなみに日本史・世界史とか歴史の教科書と参考書は 山川出版っていう会社が昔から定番らしいですよ。おれも日本史勉強は山川出版の本でやった。
no.120 ☆パピポ (08/03/14 22:06)

>120

一体、何を言いたいんだ? 訳分からんこと言うな。
no.121 記入なし (08/03/14 22:12)

センゴク 桶狭間戦記。っていうマンガで今川義元が主人公になってますよ。
今川に興味があるんならそっちのほうもみてみるといいと思うよ。
no.122 ☆パピポ (08/03/14 22:13)

黒田如水について知りたかったのに…。
no.123 記入なし (08/03/14 22:39)

秀吉に疎んじられるほどの野心家
何かで竹中半兵衛に忠告されたと思うが・・・
no.124 ちゃめごん (08/03/14 23:14)

黒田家については司馬遼太郎の本を読んでみ
no.125 記入なし (08/03/14 23:17)

本を読んでみ、で終わったらこのスレの意味がないよ。
もってる知識を出し合わなきゃ。
no.126 記入なし (08/03/17 20:58)

弥生式土器、
no.127 記入なし (08/04/05 05:56)

人類創世記 資料がありません
no.128 楽世 (08/04/05 06:15)

日本の歴史は日本の資料ではわからん
アメリカの国会図書館のほうが詳しくて正しい
だからあんなに簡単に日本は戦争に負けたんだね
no.129 記入なし (08/04/05 11:06)

西洋に追いつきたいと必死の明治時代。
no.130 記入なし (08/04/08 23:05)

>no.123
1.中国地方の家老クラスの出
  織田家(豊臣秀吉)の進出に伴い、主家と秀吉を結んだ。
  その後、主家は織田を裏切り毛利に付いたため、主家に背いて
  秀吉に付いた。
2.荒木村重の造反の時に、説得に行ったが捕えられた。
  この時の傷が元で生涯片足を引きずったと言われる。
  信長は息子の長政を処刑を秀吉に命じたが、
  秀吉はひそかにかくまう。
3.本能寺の変の際、秀吉が悲しみで自分を失っていた時
  冷静に「天下をお取りなさい」と助言したと言われる。
4.九州征伐、小田原征伐で手腕を発揮したが、その後は
  その地位を石田三成に取って替わられる。
5.秀吉が酒に酔った際、部下に「わしが亡くなった後
  天下は誰が取るか」と問うた。
  前田利家、徳川家康等の名が上ったが、秀吉は
  黒田と断言した。
  (本能寺の例があり、重臣でも気が置けなかったに違いない)
  それを聞き、隠居、出家を決断した「如水」は出家名
  水のごとく、何の野心もないと言う意味らしい。
  実際は隠居の身(ただ働き)で秀吉に仕えた。
6.関ヶ原の時、息子は家康に付かせ、自分は北九州を切り取った。
  肥後(熊本)の加藤清正、安芸(広島)の毛利輝元を説き伏せれば
  播磨(兵庫)は生まれ故郷であり、反家康軍として、天下を狙えた。
7.関ヶ原が一日でけりが付き、野望が潰えた。
  息子長政が「家康殿は私の左手を取って感激しておりました」と
  報告すると「その時、そちの右手は何をしておったのじゃ」と
  言ったと言われる。
  (右手で刀を抜き、家康を斬れとの意味らしい)

秀吉は貧農の出であったので、勇猛果敢な部下はいたが、文才に長けた部下は
いなかった。秀長(弟)、如水、三成で支えていた。
「秀吉に天下を取らせたのは自分である」との自負があった。
まさに、戦国一の猿回しであった。
それが、秀吉の死後、三成が支えきれず(関ヶ原直前は隠居の身)
家康に取られるのがたまらなかったのであろう。
no.131 茶菓 (08/04/09 00:09)

たしか如水は・・・
関ヶ原の4年後に死んでいます。

関ヶ原が長引けば天下を望めたか?
結果論的考察ではあるが、3年の間で
天下を掌握するのは
やはり無理があるな・・・
no.132 サイコロ (08/04/09 00:23)

確かに無理があるかもしれない。
前田利家の息子も「おやじなら天下を取れるかもしれないが
おれが掌握するのは無理」と家康との対決を避けたふしがある。

黒田長政も家康に付いたのはある意味おやじを見限っていたのかも・・・
no.133 茶菓 (08/04/09 00:51)

戦国時代は
番狂わせの連続であるが・・・
徳川の世になるには、それ相当の布石を
絶え間なく打ち続けてきたからで・・・
天下の方が突然
転がり込んできたわけではないですからね〜
no.134 サイコロ (08/04/09 00:58)

徳川幕府にとって家康公は神のごとき存在であったろうに、若い頃人質として各地の有力者にたらいまわしにされたり、武田軍に敗れて糞もらして逃げ帰ったとかっていうネガティブな情報が文書として残されてるのが不思議。権力者にとって自分たちに都合の悪いことは改変したり無かったことにする事なんて簡単だろう。
no.135 記入なし (08/04/09 01:31)

>天下の方が突然転がり込んできたわけではないですからね〜

でも関ヶ原の時の家康は60歳、人生50年と言われている時代に
ちなみに落語に出でくる長屋の隠居は40台、初老とは40歳のことだそうです。

家康の60歳て現代の元気な80歳のおじいさんかな?
もっとも北条早雲は50過ぎてから一国切り取ったらしい・・・

5代目の氏直は隠居おやじの氏真に逆らえず、滅亡したらしい。
no.136 茶菓 (08/04/09 01:49)

>136さん、

氏真ではなく氏政。
氏政は殺されたが、氏直は命を助けられ、高野山に出家。一年後に、秀吉によって、河内1万石の大名に復帰。その後も取り潰されることもなく、江戸時代も続き、北条家は現在に至ります。
no.137 記入なし (08/04/09 16:38)

組織の中の出世競争も参加すると面白いかも^^安定しない組織のほうが多くの人に可能性があるw
no.138 ネロ (08/04/09 19:08)

>no.137
へえ、知らんかった。
風魔一族と一緒に滅亡したのかと思った。
no.139 茶菓 (08/04/09 21:04)

おお!今日もにぎわっていますね

ところで後世である我々は、
歴史を俯瞰できる立場にいるから
結論ありきで論じてしまうこと
がありますね〜
no.140 サイコロ (08/04/09 22:51)

茶菓さんの言われるとおり
関ヶ原の戦いに勝利したときの
家康の年齢は60才であったから
客観的にも主観的にも(あるいは現代でも)
晩年であることは間違いありませんね
それはそれで説得力があり納得です。

しかし、そうであったとしても、
家康自身は自分の寿命を知ってか知らいでか
晩年を感じさせないくらいに、慎重にかつ大胆に
天下掌握のための手を打ち続けていたと
思われるのです・・・
no.141 サイコロ (08/04/09 22:58)

したがって、たしかに棚ぼた式に
天下が転がり込んできたようには
見えるけれども・・・私には
いつでも天下取りができるよう
準備しており、そのための布石をうっていた
としか思えないのです。
no.142 サイコロ (08/04/09 23:04)

>no.142
棚ぼたとは思っておりません。
秀吉の死後、加藤清正に追われた石田三成をかくまったり、
前田家に難癖をつけ、上杉景勝に喧嘩を売らせて、関ヶ原を
強引に起こしています。

五大老の内の残り4大老を敵に回して?(はて前田家は敵だっけ、味方だっけ)
空前の合戦を起こしております。
no.143 茶菓 (08/04/09 23:14)

たしか前田家は
芳春院を徳川家に人質として
江戸に送り出しています。

家康はもっと以前から
(秀吉の生前中を含めて)
天下取りのための
布石をうっていた節があります。
no.144 サイコロ (08/04/10 00:20)

前田利長(利家の長男)は東軍、前田利政(利家の次男)は西軍。今頃出てきても遅いか。
no.145 記入なし (08/11/10 12:45)

利家の死が 関ヶ原を左右した といっても過言ではないなぁ
no.146 (08/11/10 21:15)

信長の野望でちょっと齧った
暇なら面白い鴨
no.147 記入なし (08/11/10 21:30)

老さん、茶菓さんとサイコロさんが書いてるのは、確かに利長のことですね。でも、利家が長生きしたとしても、関ケ原は行われたと思う。もう時代の趨勢は止められなかった。やれたとすれば、利長の早期隠居→利常の早期跡継ぎを防げたか、くらい。でも、あまり意味がない。

関ヶ原の勝敗をは左右したのは、明らかに吉川広家ですよ。
no.148 記入なし (08/11/10 21:45)

話題はそれるが 何故光秀が 本能寺の変を起こしたか その謎について 硯学諸兄の意見を伺いたい
no.149 (08/11/10 22:09)

そうかねえ?
三成は家康の横暴(忠輝の婚姻等)を糾弾しようとして、
利家に止められている。

利家の死と共に、加藤清正は石田三成をつるしあげようとした。
双方をなだめる役である。

秀頼の後見人として、大阪城に一万の軍勢と共に入っていたら、
関ヶ原の合戦は起こらなかったのでは?
no.150 茶菓 (08/11/10 22:12)

>何故光秀が 本能寺の変を起こしたか

パワハラにうつでキレた。
no.151 茶菓 (08/11/10 22:13)

朝廷ですよ。
信長がまさに日本の王を目指して、朝廷そのものを亡き者にしようとして、それを悟った朝廷は早くから公家との付き合いが長く、朝廷を重んずる明智光秀に目をつけた。
光秀は、単に信長から不遇にされたから本能寺の変を起こしたのではありません。朝廷の密命に従ったのです。
no.152 記入なし (08/11/10 22:17)

>茶菓さん

加藤清正と福島正則に襲われた光成は、自ら家康の懐に飛び込んだ。それはあくまで彼らからの危険なくして大阪城で働きたかった。しかし、もくろみは外れ、家康は佐和山へちっ居を勧める。光成はそうせざるを得なかったが、それが東西対決にさらに拍車をかけた。

>秀頼の後見人として大阪城に入る

ありえません。
no.153 記入なし (08/11/10 22:27)

no152 オイラもそう思う 信長にブレーキをかけたのだろう
no.154 (08/11/10 22:27)

>秀頼の後見人として大阪城に入る。ありえません。

前田利家が秀吉の遺言により秀頼の後見人だった事は事実です。

そして、伏見城の家康に対抗して大阪城に兵を布いていた。

自分の寿命が近いから、北陸に引き上げたのです。
no.155 茶菓 (08/11/10 22:32)

>加藤清正と福島正則に襲われた光成は、自ら家康の懐に飛び込んだ。

利家の死の直後、利家が生きていれば三成を襲わなかったでしょう。
no.156 茶菓 (08/11/10 22:36)

>茶菓さん

だから?

ちなみに、家康が自由に秀頼に謁見すること自体不可能でした。関ヶ原後もそうだったにもかかわらず、まだ光成を始めとする西軍代表勢力がいたのにそれを許すわけない。有力大名だけでなく、増田、長束なども健在。豊臣恩顧の大名もどう出るかわからず。だから、それをしたければ、まず合戦だということですよ。
no.157 記入なし (08/11/10 22:40)

>茶菓さん

利家が生きていても、清正と正則はいつかやったはず。その前に生きていたらという仮定はどうですかね? 激しく動いた時代ですからね。
no.158 記入なし (08/11/10 22:48)

前田利家は自軍1万6千の半分を利長率いて大阪に送るよう遺言している。

http://www.hokkoku.co.jp/tokusyuu/jyosetsu/20000110.html

生きていれば、自分で大阪にいたであろう。
三成からそれを要望されていたし、淀君の信頼も厚かった。

>だから?

関ヶ原の勝敗でなく、関ヶ原の合戦そのものが
起きなかったと思います。
no.159 茶菓 (08/11/10 22:50)

>その前に生きていたらという仮定はどうですかね? 
「確かに利長のことですね。でも、利家が長生きしたとしても、関ケ原は行われたと思う。」
no.148 ( 記入なし 08/11/10 21:45 )

↑と書かれたから「生きていたらという仮定」で書いただけ、
no.160 茶菓 (08/11/10 22:54)

もしも?
という仮定で語る日本史は楽しいけど、
あまり意味が無いよ。
それこそ、
信長・秀吉・家康が病気で早死にしてたら、
日本史は全然違うことになっていただろうし(^^;
      
no.161 下っ端公務員 (08/11/10 22:57)

>茶菓さん

その遺言ですが、利長に、それに従わず、家康につくよう命じたのは、ご母堂であります。理由は、「お前にはその器量はない」です。

利政の方は光成との親交が厚く、分家という気楽な立場がありましたが、利長には前田家を守るがやはり第一義でした。
no.162 記入なし (08/11/10 22:57)

>160、茶菓さん

それ、反論としては非常に弱いですよ。利家長生きしても、病床で家康とまともに交渉する能力がなかったら意味なかったでしょうから。
no.163 記入なし (08/11/10 23:03)

>理由は、「お前にはその器量はない」です。
その通り、だから、利家が元気で長生きしていれば
「利家に、その器量はあった」と推察します。

下っ端氏の言う通り「あまり意味が無い」と思うのでこの辺でやめます。
no.164 茶菓 (08/11/10 23:05)

一つだけ誤解がありますね
「利家が長生きしたとしても」
長生きなので私は家康並の長生きと思っていました。
no.165 茶菓 (08/11/10 23:11)

白熱した議論だったようですね^^
参加するのが少し遅かったようだ・・・
no.166 サイコロ (08/11/10 23:18)

>茶菓さん

二人は生まれた年は4年しか違わないと思いましたが、何か?
no.167 記入なし (08/11/10 23:18)

>167さん
だから同じくらいの年まで生きる可能性はあるよね。
    
no.168 下っ端公務員 (08/11/10 23:20)

一つだけ、疑問が残る。
歴史のもし論で
「・・が長生きしたとして」の場合
「病床でまともに交渉する能力がない」と想像するのだろうか。

「本能寺で信長が生きのこったとして」の場合
「ケガでまともに交渉する能力がない」と想像して、もし論をするのかなあ?
no.169 茶菓 (08/11/10 23:24)

まぁ普通は、
合戦に出陣できるくらいの健康状態を想定するだろうね。
     
no.170 下っ端公務員 (08/11/10 23:26)

>二人は生まれた年は4年しか違わないと思いましたが、何か?

私のもし論は、「秀頼が成人するまで、前田利家が元気でいる。」
を前提にしておりました。
no.171 茶菓 (08/11/10 23:27)

>茶菓さん、

だから、個人的に、秀頼が家康と謁見出来るまで、利家に生きていて欲しかった、ということでしょ。しかし、史実は残酷でそうはいかないですよ。

秀頼が成人した後まで彼を守ったのは、先に名前が出た加藤清正、福島正則でした。しかし、二人とも死に、豊臣家を守る人間はいたにもかかわらず、もう大野治長とか数の上でかないませんでした。牢人では真田幸村ですかね。
no.172 記入なし (08/11/10 23:38)

>個人的に、秀頼が家康と謁見出来るまで、利家に生きていて欲しかった

違います。

「利家が長生きしたとしても、関ケ原は行われたと思う。」に対して

「利家が(家康並に元気に)長生きしていれば、
関ケ原は行われなかった」と思っているだけです。
no.173 茶菓 (08/11/10 23:44)

>茶菓さん

前田家も潰されてます。
no.174 記入なし (08/11/10 23:54)

>前田家も潰されてます。

そうゆう仮定もあるし、上杉や伊達が天下を取ったかもしれませんね。^^
no.175 茶菓 (08/11/10 23:58)

>茶菓さん

上杉は西軍、伊達は東軍。

どちらか軍勢を動かせば、どちらかが追い討ちをかけました。
というように徳川が仕組んでいました。両者ともお互いを牽制し、領土を動けなかった訳ですから、両家とも潰れはしなかったと思います。
no.176 記入なし (08/11/11 00:14)

>両家とも潰れはしなかったと思います。

潰れるのではなく「上杉や伊達が天下を取ったかも」と書いたのです。

上杉は越後に帰りたがっていたし、伊達も会津に戻りたがっていた。
徳川が前田、毛利軍と長期戦をすれば、上杉と伊達が手を組む事もある。^^

元々上杉と伊達を牽制させたのは、秀吉だが、伊達正宗は黙って徳川に
従うタマではない。
no.177 茶菓 (08/11/11 00:25)

前田と徳川の力の差は歴然としてるでしょ。
no.178 記入なし (08/11/11 00:27)

伊達政宗は小田原攻めの様子を見て、秀吉にすぐ従ったではないか。
no.179 記入なし (08/11/11 00:31)

>前田と徳川の力の差は歴然としてるでしょ。
徳川家250万石、
それに対する
前田家100万石
毛利家125万石
上杉家125万石
宇喜多家60万石だっけ?
no.180 茶菓 (08/11/11 00:35)

>伊達政宗は小田原攻めの様子を見て、秀吉にすぐ従ったではないか。

小説「伊達正宗」では上杉と手を結び、スキあらば、天下を狙おうとしている。^^
no.181 茶菓 (08/11/11 00:38)

で、何を言いたいの?
no.182 記入なし (08/11/11 00:43)

>no.182 
↓に答えているだけ。
 >茶菓さん

 前田家も潰されてます。 

 no.174 ( 記入なし 08/11/10 23:54 )
no.183 茶菓 (08/11/11 00:45)

小説をソースにしなさんな。
伊達と上杉が手を結ぶなんてありえない。家柄が違いすぎる。上杉家は藤原氏で足利氏と縁戚関係をもった歴史的エリート。

伊達はなんだ? あれ、なんでもないよ。
no.184 記入なし (08/11/11 00:47)

>伊達はなんだ?

伊達家は足利幕府の奥羽探題、奥方の田村家は征夷大将軍、坂上田村麻呂の末裔

もし論だからケチをつけても始まらんでしょ。
no.185 茶菓 (08/11/11 00:52)

>上杉家は藤原氏で足利氏と縁戚関係をもった歴史的エリート。

上杉家は確かに関東管領だったが、養子に入る前の長尾景虎の長尾家は
越後守護職でもなく、その家老職^^
no.186 茶菓 (08/11/11 00:57)

>茶菓さん

長尾影虎はそれを充分知った覚悟で受けついでおり、上杉氏は、徳川幕府では米沢30万石に下げられたが、明治維新では伯爵に列せられた。
no.187 記入なし (08/11/11 01:08)

文句があるなら、明日またかかってきたまえ(笑)。
no.188 記入なし (08/11/11 02:07)

>長尾影虎はそれを充分知った覚悟で受けついでおり、

長尾景虎(謙信)は北条氏康に追われた上杉を助け、名門上杉の名跡を継いだ。
そして、関東を奪還すべく小田原城を包囲した。

北条氏康は武田信玄と組んで、それに対抗した。

数年後、元の上杉(名前忘れた。ノリマサだっけ)が亡くなると
北条と組んで、武田を攻めた。
北条から養子をもらい、それに自分の幼名、景虎と名づけた。
謙信の死後、景虎と景勝の家督争いは有名である。
単なる人質では家督争いになるまい。

で、結論は名門である上杉を継ぎながら、それを蹴落とした北条と
組んでいる事を見て、上杉と伊達が組む事は十分考えられる。

足利幕府の家柄から見れば、関東管領と奥羽探題であり、通常の守護職より
ずっと上である。

守護職ですらなかった徳川家の下に付くのはいかがなものかと・・・^^

>明日またかかってきたまえ(笑)。
かかっても良いが、HNを付けて頂けるとありがたい。
no.189 茶菓 (08/11/11 12:46)

あれれ、最後は冗談で書いたのに(笑)

まず、長尾影虎の関東管領就任については、息子を敵方に殺された上杉憲正の方から持ちかけ、幕府の承認の下になされてます。

伊達政宗を奥羽探題としてますが、それは正式なものなの? 奥羽探題は代々大崎斯波氏です。仮に正宗かその前の代に伊達氏が大崎斯波氏を滅ぼして勝手に名乗ったとしても、もうあの時期だから幕府の統制が東北まで取れてなかっただけじゃないんですか?

北条氏秀の謙信の養子入りは、和睦の意味の他に、謙信亡き後家ごと上杉氏を乗っ取ろうという氏政に汚い意図もありました。
no.190 記入なし (08/11/11 19:26)

日本史には史実とされているものが数種類あったりするし、
どれが本物と断言できないことも多いぞ。
      
no.191 下っ端公務員 (08/11/11 19:30)

しかし NHK大河の風林火山は面白かったなぁ 市川文書なんかも チラッとでてきた 内野の戦国武将役は格別だ
no.192 (08/11/13 20:03)

甲陽軍艦と市川文書にでてくる勘助は同一人物なんですかね?
もし、市川文書が見つからず、甲陽軍艦だけだと架空の人物とせざるを得ないですが。ちょっと分からないですね。
no.193 記入なし (08/11/13 21:48)

昭和40年代に 北海道で市川文書の存在が明らかとなり その中に 武田が藤若に宛てた書状の使者に勘助と記されていた それで実在がほぼ確定したらしい
no.194 (08/11/13 22:16)

>老さん
市河文書に書かれていたのは「山本菅助」ですよ。
山本勘助と同一人物かどうか確定できていないし、
実在は、まだグレーゾーンです。
            
no.195 下っ端公務員 (08/11/13 22:28)

no193 甲陽軍艦って 江戸時代の作りものじゃなかったっけ?
no.196 (08/11/13 22:30)

老さん、そうなんです。下っ端公務員の言うとおり、字が違うので、甲陽軍艦の勘助と同一人物なのかも分かってないんですよね。
no.197 記入なし (08/11/13 22:32)

下っ端さんは 史跡を疑ってかかる癖があるなぁ
no.198 (08/11/13 22:35)

甲陽軍艦について

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91

史料ですが、あんまり当てにならないのは事実です。だから、これだけだと勘助は実在しなかった、と結論づけられてしまうのです。
no.199 記入なし (08/11/13 22:36)

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