秀頼は大変大きな身長で大男だったらしい。それにしても権力者が歴史をねじ曲げる事は簡単に出来たんだな
と思うト怖い気がする。大河の真田丸で「秀頼の父は誰かと茶々に聞くのは怖い」という秀吉のセリフがあった。
no.100 記入なし (16/09/30 06:59)
>それにしても権力者が歴史をねじ曲げる事は簡単に出来たんだな
秀吉の父は?
秀吉は本能寺の変の後、将軍職になろうとし、信長に追放された足利義昭に頼んだ。
しかし、あっさり断られたため。
「自分は貴族の出である」と言って、関白になった。
そもそも、貧乏百姓の出の秀吉が貴族であるはずがない。
で、「母が貴族の家に奉公し、そこで身ごもり、里へ帰った」という話をした。
しかし、知人は「お前には、姉がいる。子連れの女が貴族に奉公したとは思えん」
といったが、強引に歴史を捻じ曲げ、「豊臣」という新しい性を作り、関白になった。
no.101 記入なし (16/10/01 09:39)
>それにしても権力者が歴史をねじ曲げる事は簡単に出来たんだな
今の天皇もそうでしょ!天武天皇の時に神話と歴史を歪曲して
でっち上げている。天皇は韓国あたりから来ている。
no.102 記入なし (16/10/07 12:23)
秀吉の父は?木下弥右衛門のこと?尾張中村(現名古屋市)で足軽だったけど負傷して百姓を続けてたと聞きます
no.103 記入なし (16/10/07 16:16)
no.102 おまえはあほか
no.104 記入なし (16/10/07 19:13)
いや、102は正しいと思いますよ。本人が言っている。
no.105 記入なし (16/10/07 21:14)
本人って、誰???
no.106 記入なし (16/10/07 21:19)
>秀吉の父は?木下弥右衛門のこと?尾張中村(現名古屋市)で足軽だったけど負傷して百姓を続けてたと聞きます
そんな事は「秀頼の父は誰?」と同じで、DNA鑑定でもしない限り分からないじゃないか?
わかる事は、秀吉の父が弥右衛門だとしても、秀吉は権力の座に着いた後
「大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述されており、天皇の落胤である」と歴史をねじまげてしまった。
no.107 記入なし (16/10/07 23:27)
真田丸とは、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で、真田信繁(幸村)が築いた出城(出丸)のことである。
no.108 記入なし (16/10/10 22:21)
与謝蕪村の句です:「真田丸 炬燵で語れ 冬の陣」
相当頑張ったらしいな。雪村は。mais,
猿飛佐助は架空の人物だよ。おれは三好青海入道が好きだった。
no.109 記入なし (16/10/12 21:17)
真田幸村が豊臣について家康に逆らったのはまずかった。兄貴
は偉い。結局生き残ったもんね。
no.111 記入なし (16/10/22 14:37)
本人って、平成天皇だよ。
no.106
私は国民の総意に基づいて天皇性を廃止すべきだと思います。退位なんておかしい。
元々存在理由がない。天武天皇の時に百済から来た渡来人だから。
no.113 記入なし (16/10/27 20:55)
三成は曹操になって覇権を奪う。
no.114 記入なし (16/10/27 22:00)
徳川が政権を取って、鎖国したから、独立が守られた。
もし三成が勝っていたら、西洋の植民地になっていた。
no.115 記入なし (16/10/27 22:42)
三成て、事務は有能だったかもしれないが、秀吉のイエスマンだよね。
三成が関ヶ原に勝っていたら、秀吉が秀頼になるだけ。
百姓から苦労して天下人になったからイエスマンでよかったが、
秀頼は生まれた時から天下人の息子のボンボンだよね。
ボンボン息子、天下の情勢が読めないその母親、それに従うイエスマン。
もし、「朝鮮攻略は父上の悲願でありました。」と母親が焚きつけ、
それに盲目に従う有能なイエスマンがいたとしたら・・・
no.116 記入なし (16/10/27 23:19)
秀頼様!
無職の総大将が大坂城に入城されました!
no.117 記入なし (16/10/28 14:05)
秀頼様!
無職丸が完成しました!
no.118 記入なし (16/10/28 17:34)
それにしても秀頼の父おやは誰だろうね。
no.119 記入なし (16/10/29 12:55)
信雄?有楽?治房?
no.120 記入なし (16/10/29 13:05)
大阪城に忍び込み、淀君の体を頂く。
天下の大泥棒、石川五右衛門か?
no.121 記入なし (16/10/29 18:00)
納得。それで釜茹(ゆで)での刑になったのか?!
no.122 記入なし (16/10/30 14:55)
人間の相関関係などは、そんな生やさしい問題じゃないよ。
たった四人の麻雀でさえ人の心や行動なんて想像もつかない。
凡人の出る幕などは無い。
no.123 記入なし (16/10/31 14:15)
>115
大坂の陣で、豊臣軍にキリシタンがたくさんいましたね。
no.124 記入なし (16/10/31 14:30)
合戦で負けた大将は打ち首だけども
歩兵とかは逃げちゃえばわからないよね、鎧に兜していれば顔はわからないし
no.125 記入なし (16/10/31 16:20)
>no.125
戦国末期の足軽(歩兵)とは、
鎧が正面にはあるが、背中にはない。
理由は
・経費節減のため、後ろの部分を削った。
・元々の戦は刀を使った戦いで、後ろから切られる場合もあったが、団体戦の鉄砲は前から来る。
・当時の鉄砲は貫通力が低い、前を分厚くすると思くなるので、その分後ろを削った。
・敵に後ろを見せて、逃げようとすると、弓や鉄砲の餌食になる。
という事で、足軽は逃げようとすると、敵の餌食になる。
ちなみに、時代劇で、背中に丸い玉を背負い、馬に乗った武士が出てくる。
丸い玉の中に何が入っているか疑問だったが、何も入っていない。
これは、母衣衆と呼ばれ、前線と本部との連絡をする連絡係である。
前線で何かがあると、敵に背を向け、本部に向かう。
そうすると。弓が飛んでくるが、この玉で受けるのである。
no.126 記入なし (16/10/31 20:11)
大坂牢人五人衆(大坂城五人衆)
後藤基次(後藤又兵衛)
真田信繁(真田幸村)
毛利勝永
長宗我部盛親
明石全登
no.127 記入なし (16/11/03 20:47)
それより 信長が暗殺されずに全国統一をした日本を見てみたい。
海に乗り出し西洋列強と張り合い海洋国家となっている姿が見える。
恐らく日本人の性格そのものが大きく変わっているのではないか。
no.128 記入なし (16/11/06 08:59)
財津一郎の物まねで「そのとおり!!」
no.129 記入なし (16/11/06 13:38)
どうなんかなあ
信長が特殊な人間である事はみんな承知である。
信長と秀吉は二つしか違わない。
信長が天下統一をして、朝鮮に出兵したとしても、秀吉が出兵した時期とそんなに変わらない。
秀吉は家来になった相手の領土を安堵している。上杉、徳川等
真剣に戦をしかけたのは、九州(島津)と関東(北条)だけ、しかも島津は領地はほとんどそのまま
信長は全面戦争をしかけるので、日本の天下統一はもっと時間がかかったかも知れない。
問題は信長の年だ。
秀吉は朝鮮出兵したが、本人は高齢のため朝鮮に行っていない。
本人が前線の指揮を取っていたわけではない。
信長が出兵しても、年齢からいって、前線で指揮をとるわけではない。
そして、戦いが長引き、信長が死ぬ。
秀吉との違いは成人した子供が数人いる事だが・・・
no.130 記入なし (16/11/06 15:05)
関ヶ原の合戦で石田三成が勝ってたら
真田昌幸は信濃50万石をまかされ、幸村はそれを継ぐ
大阪夏の陣はなく、幸村は無名の大名として、世に伝わる事はない。
no.133 記入なし (16/12/18 19:00)
小早川秀秋が裏切らなくても西軍が勝ことはなかっただろう
毛利、吉川陣営は吉川広家が静観すると戦前から密約
島津はことの成り行きで戦場にいただけ
まさかの要素は大阪冬の陣のほうがあったと思う
no.134 記入なし (16/12/18 19:41)
「まさかの要素」て、籠城にまさかはないだろう?
夏の陣はもう籠る事はできないから攻めていった。
さて、無職・引き籠り、冬の陣は何年続く、「まさかの要素」はあるか?
no.135 記入なし (16/12/18 19:52)
↑大阪冬の陣は負けたわけではなく和睦講和だぞ
お前底が浅いな 上から目線の無職com10何年とフハイ完了なみ
no.136 記入なし (16/12/18 19:59)
>大阪冬の陣は負けたわけではなく和睦講和だぞ
だから、「まさか」て何があるの?
歴史を見れば、あれは、家康が勝手に仕掛けた戦で、勝手に講和した。
(堀を埋めるために)
「まさか」とは?
小早川秀秋のように、「伊達正宗や上杉景勝が寝がえり、家康の首を取る。」とか?
no.138 記入なし (16/12/19 20:52)
no138
説明済みだが関ケ原は西軍の毛利、吉川陣営は直前に静観すると吉川広家が家康と密約
島津義弘隊は元々東軍に就きたかったが諸事情により西軍についたのでい戦闘意欲なし
小早川秀秋は戦う前から傍観するか東軍に寝返るかしか考えていない
小早川秀秋が傍観していたら戦が長引き上田で足止めされてた別動隊の秀忠軍か加わるから戦力的に東軍が有利になる
これでわからないならこれ以時間の無駄
もっと勉強してください。
no.140 記入なし (17/01/06 22:22)
冬の陣は野戦案が直前で籠城に変わってしまったためチャンスが減ってしまった
徳川勢が集結する前に近畿各地で第二次世界大戦のドイツのように各個撃破しながら
最終的に大坂で籠城と家康本陣突撃が成功すれば泥沼の長期戦になりいろいろ策が広がる
かも知れないと思わないか?
no.141 記入なし (17/01/06 22:39)
>no.140
わからないなあ
no.138はno.136の「大阪冬の陣は負けたわけではなく和睦講和だぞ」
に対し、「まさか」て何があるの?
と問いかけている。
「関ヶ原」と「大阪冬の陣」を比較した場合、「関ヶ原」の方が各大名がどちらかに付くのか
不安定であり、バランスが崩れれば、どちらかによる。
「大阪冬の陣」の場合、大阪勢が局地戦に勝った場合、家康軍で寝返る者が出てくるかどうか?
可能性があるとすれば、領地を1/3に削られた、毛利や上杉だが・・・
質問を最初に戻す。関が原で「小早川秀秋が傍観」していても事態は変わらないとして、
「大阪冬の陣」でどうひっくりかえるの?
no.142 no.138 (17/01/06 23:03)
誰が寝返るなんか知らねえよ
自分で考えろよオッサン
no.143 記入なし (17/01/07 00:26)
関ヶ原の合戦の後、黒田長政の戦功に対し、家康は左手を取って、功をねぎらった。
それを聞いた父、黒田官兵衛は「その時、お前の右手は何をしておったのじゃ」と言った。
黒田長政が寝がえり、家康を刺していたら?
秀忠は家康の後を継ぎ、二代将軍となったが、元々側室生まれの三男である。
正室生まれの長男信康は信長に嫌われ切腹、後は側室生まれの次男秀康、三男秀忠、四男忠吉がいる。
しかも、秀忠は関ヶ原で遅参しており、この頃ははっきりと後継者として指定していない。
武田が滅んだ理由の一つとしては、正室生まれの長男・三男が死に、次男は盲目
後は、側室生まれの四男、五男、六男で、信玄がはっきりと後継者を指定しなかったためといわれる。
no.144 記入なし (17/01/07 08:24)
この時代の戦の兵站ってどーなってたんだろ
爆薬とかは少ないだろうけど、兵士の飲料とか食糧輸送が主だったんだろね
no.145 記入なし (17/01/10 20:02)
黒田長政が家康を刺す?
そんなことあり得るわけないだろ
黒田家重臣が止めに入るだろうし大勢の家臣を養ってる責任があるので
一時の感情で謀略などあり得るわけない
no.146 記入なし (17/01/10 20:34)
武田勝頼は長篠の合戦で大敗しても10年近くは持ちこたえたしそんなに愚かでもないだろ
武田家を継いでからも勝率は低くなかったし
穴山梅雪の裏切りが痛かったのと信長が経済の中心地を抑えていたので財力ではかなわないし時代の流れもあるので仕方なかったところもあるんじゃないの?
no.147 記入なし (17/01/10 20:42)
>no.146
わからんよ。
小早川秀秋だって裏切ったんだから
毛利輝元が大阪城にまだいる時に家康が死んだら?
秀忠はまだ合流していない。
本能寺の変の時に、滝川和益が袋叩きにあった事を考えると?
関ヶ原の直後に家康が死ねば、上杉は伊達と和睦し、関東を攻める。
当時伊達は60万石、上杉は120万石、伊達単独では上杉に勝てない
とりあえず、伊達は様子を見る。
そして、九州は黒田、中国は毛利、四国は長宗我部が息を吹き返す。
いや、関ヶ原の真っただ中に富士山が噴火して江戸を襲うなんてどうか
no.148 記入なし (17/01/10 22:00)
黒田家重臣は鉄壁の結束で長政にしかりつけるほどの気骨ある家臣団だから
勝手気ままな思い付きはないよ。
黒田官兵衛の逸話も江戸時代にできた持ち上げるための作り話だよ
no.149 記入なし (17/01/10 23:16)
いや、明智光秀のように「敵は本能寺にあり」と軍を向ければ、いさめる家臣がいるだろう
しかし、戦功の礼をとって、家康が長政の左手を取った時、右手は・・・
では、寝返りは真田信幸にしよう。
真田信幸は父と弟が石田方についたため信用されていない。
実際、砥石城を攻めた後、その城に居座っている。
問題は家康が秀忠を呼んだので、途中で秀忠は関ヶ原に向かってしまった。
秀忠は徳川軍の主力約4万を率いている。
まともに戦ったのでは真田に勝ち目はない。
しかし、秀忠が関ヶ原に向かい、信幸は昌幸・幸村の抑えである。
そこで、信幸が昌幸に「秀忠が関ヶ原に向かった」言う。
秀忠軍は4万だが、当時の中山道は大軍が移動するのに向いていない。
細長くなる。そして、昌幸の地元である。
山道を通り、先回りして、秀忠が通る所に奇襲をかける。
別に軍でなくてもいいな。猿飛佐助、霧隠才蔵がいればいいだろう。
秀忠の首を取った後、信幸が後ろから攻める。
徳川主力の4万が散り散りになった情報が伝われば、家康は三成との決選どころではない。
no.150 記入なし (17/01/10 23:49)
毛利輝元はカリスマ性のあるリーダーじゃないから吉川家は従わないから
石高ほど実情は力ないぞ
お前教科書で知ったようなことで憶測するなよ
no.151 記入なし (17/01/10 23:50)
猿飛佐助って・・・講談の世界で架空人物だろうが
真田信之は本多忠勝の娘が正室で家康を尊敬しているから東軍についたんだろ
憶測するにのも底が浅いのう
no.152 記入なし (17/01/10 23:57)
関ヶ原の「まさか」は何でもありなんだよ。
関ヶ原に遅参した秀忠が家康に叱られ、切れて、家康を差す。
no.153 記入なし (17/01/11 00:04)
>真田信之は本多忠勝の娘が正室で家康を尊敬しているから東軍についたんだろ
単なる政略結婚です。
当時信幸は結婚していた。
しかし、忠勝の娘と結婚したため、正室を側室にしてしまった。
その側室が後に長男を産む。
そして、忠勝の娘は一か月遅れで次男を産む
当然相続争いがおきてもおかしくない。
もし、信幸が側室の方が好きだったら、側室の子を後継ぎにするだろう。
元々忠勝の娘と政略結婚しなければ、正室の子としてうまれたのだから
no.154 記入なし (17/01/11 00:10)
それよか、豊臣秀頼の父は誰か知りたい。大野治つぐや、石田三成が怪しい。
なにしろ、2m近い巨人だったらしいから。元気な男子だ(チチ親は)秀吉ではないことは確かだと思う。
no.155 記入なし (17/01/20 08:51)
淀君の本心は浅井家再興だから誰だもよかったんだ
豊臣秀頼より浅井秀頼が妥当だろ
no.156 記入なし (17/01/20 10:00)
>2m近い巨人だったらしいから。元気な男子だ(チチ親は)秀吉ではないことは確かだと思う。
石田三成も小男だったらしい。
だから、加藤清正のような武勇伝もない。
体の大きさで秀吉でないなら、三成ではないだろう。
no.157 記入なし (17/01/21 17:12)
二条城で、秀頼の立派な体格と、知能に感心、恐れをなし
家康は豊臣家の滅亡を決意したと言われる。それ程立派な人だったらしい。
秀頼は。
no.158 記入なし (17/02/17 10:28)
関が原に実際に行ってみたいな
観光ツアーとかないんだろか?
no.159 記入なし (17/02/17 13:24)
>159
真田丸の影響で、和歌山の九度山には観光バスがたくさん来てた。
no.160 記入なし (17/02/17 14:39)
西軍の勝ちかた次第じゃないの?
家康の首を捕れないで局地戦で勝ってもまた建て直して
近江か尾張辺りですぐ戦になっただろ
no.163 記入なし (17/10/17 21:07)
いちいちネットの引用しないで自己分析せい!
no.165 記入なし (17/10/25 22:53)