咄嗟の判断で勝敗が決まったという。本当に天下分け目だった
no.2 記入なし (16/08/13 19:07)
大河ドラマ「真田丸」で、家康と三成の応酬が始まるね。
no.3 記入なし (16/08/13 19:10)
信長の野望、でもすごくリアルにやってる
no.4 記入なし (16/08/13 19:17)
西軍側の毛利家に戦う気があったら、西軍の勝利だった。
no.5 記入なし (16/08/13 19:22)
鎖国せず外国貿易が盛んになり西欧列強の状況を把握し残業革命が早くおきた。
no.6 記入なし (16/08/13 20:59)
四民という階級制度もなく、また参勤交代もなかったため今でいう一極集中にもならず過疎問題もなかった
no.7 記入なし (16/08/13 21:51)
そうそう江戸すなわち東京に人口が集中した原因も諸大名の家族を人質にして参勤交代を頻繁に行わせたからだ。すなわち徳川政権によるもの
no.8 記入なし (16/08/13 21:58)
日本の中心が関西だったら?を論じたほうがはやかったかな?
no.9 記入なし (16/08/13 23:57)
日本が大阪中心ののりだったら・・ちょっとおそろしい
no.10 記入なし (16/08/14 11:48)
長州幕府で日本の中心が山口県になっていたかも。
no.11 記入なし (16/08/14 14:36)
だとすると。朝鮮や中国にも近く交易はもとより領土化してもっと密接になったかな
no.12 記入なし (16/08/14 16:33)
鎌倉幕府の頃から関東進出はしていたけど
no.13 記入なし (16/08/15 18:55)
徳川、上杉、毛利、前田、伊達、島津、黒田、石田、豊臣がパワーバランスを保ちながら、
各地が発展していく。
または戦乱へ戻る。
no.14 香具師 (16/08/15 23:24)
どーなってんのかわからんな。
no.15 記入なし (16/08/15 23:29)
分かるわけないだろ
no.16 記入なし (16/08/15 23:30)
戦国乱世の延長戦突入だったかな
求心力を失った徳川は地方の一勢力に転落(家康はすでに
高齢で残された時間は史実どおりなら15年ほど)
@優れた智謀と統率力を持つ若き野心家、伊達政宗
A九州で大躍進を果たした戦国屈指の軍師、黒田如水
B謙信公以来の武と義を誇る上杉景勝と直江兼続
C最強の精鋭、薩摩隼人を率いる島津義弘
上記4者の天下争いとなっただろうか
伊達政宗か黒田如水が天下をとれば日本人が海外に積極展開していく
面白い時代が到来していただろう(もしかしたら日本語が国際語に
なっていたかも?)
no.17 記入なし (16/08/16 07:44)
徳川が仮に関ヶ原で負けて滅んだとして、豊臣家は秀頼がまだ幼く勢力がないかも。結局は諸大名が政権とるか各地で競いあうことになる可能性もあるから微妙かも
no.18 記入なし (16/08/16 10:22)
九州と奥州は独立国家として自治区となってる。
no.19 記入なし (16/08/16 12:00)
かつて大和朝廷に敗れたアテルイの旧勢力が復活して独立してた可能性も。
no.20 記入なし (16/08/16 13:05)
蝦夷、奥州、金沢近隣、本州、九州の連邦共和国が濃厚だと思うが。
豊臣氏を中心とした諸外国との交易により、堺はトップシティーとなってる。
no.21 記入なし (16/08/16 13:43)
長崎も交易場所に一番近いことから中心都市の肩で繁栄した?
no.22 記入なし (16/08/17 04:21)
座りしままに食うは○○とあるが、もし西軍の勝利なら座りしままに食うも△△か、地方分権が結局続いて天下餅も食う前に腐らせるか?どちらか
no.23 記入なし (16/08/17 13:15)
坂本龍馬を始め西郷隆盛らの明治維新の英雄たちは歴史上、名前を残すことは無かっただろう。
no.24 記入なし (16/08/17 18:32)
現代において、御所は京都、首都は大阪、大阪タワーから大阪スカイツリーが出来、大阪弁が標準語。東京は過疎地になっていただろう。
no.25 記入なし (16/08/17 18:39)
東京(江戸)はもともとはなかった。家康が関ヶ原で勝ってから幕府たちあげてから大きくなった。
no.26 記入なし (16/08/17 18:50)
大阪都構想が事実上そうなってたのか
no.27 記入なし (16/08/17 19:07)
いっそ西軍、東軍両方弱ってへろへろになるまで待ち、小早川軍が両軍をぶっ潰し天下をとる。
no.28 香具師 (16/08/17 21:05)
まぁ江戸は関ヶ原の合戦に関係無くてもそれなりに拓けていたと思います。
築城は太田道潅だが関東平野から収穫される米は日本最高。
家康が放っておくはずが無い、もちろん幕府が大阪に在ったとしても日本有数の大都市になっている事は間違いない。\(^O^)/
no.29 記入なし (16/08/17 21:10)
江戸時代には一時期江戸より大坂のほうが人口多い時期だってあったし、いずれにせよ江戸がそこそこの大都市ではあっても幕府がおかれなければ中心はずっと関西だった可能性高い
no.30 記入なし (16/08/18 04:19)
あるいは今でいうキャンベラ、ブラジリアといった行政専用の国際的には目立たない首都をどこかにおいてたか
no.31 記入なし (16/08/18 04:22)
天下を納める武将とは強いだけではアカン。
地学に長じていなければならない。
いかなる方法でも1000万石を超える関東平野を無視することは無い、
自然災害に強い東京湾も地の利としては見逃せない。
no.32 記入なし (16/08/18 06:33)
まあ鎌倉時代からすでに関東に進出ははじまってはいた。どんな権力者でも交易にも利便よく災害にも強い関東を見逃す人はいない。ただ将来的に日本の中心がどこになるか?はちょっと話は別。
no.33 記入なし (16/08/18 10:36)
大阪にしろ東京にしろ、とにかく名古屋は出てこなかったんやなぁ
no.34 記入なし (16/08/18 10:39)
もちろん強いだけではだめ。知識も必要。それは武将も同じ。西軍がもし勝っても、いずれ有能な武断派が政権奪回する可能性は否定できない
no.35 記入なし (16/08/18 10:40)
ちなみに名古屋はむかしは 那古野 とか書いたそうだわ
no.36 記入なし (16/08/18 10:59)
西軍が勝っても、その後、三成には諸将をまとめていくカリスマ性も力量もないので、空中分解する。そしてまた乱世に逆戻り
no.37 梵唱(盗墓筆記) (16/08/18 12:24)
三成は豊臣の政権が徳川に奪われるのを防ぐために戦ったというが、それはデマ。自分がうまく利用しようとしてた。仮に豊臣に政権残ったとして、秀頼はまだ小さく、誰かがしばらく摂政しなければならない。結局乱世に逆もどりする。だから勝つべきものが勝った
no.38 記入なし (16/08/18 13:15)
大阪がかつて大"坂"と書いてたのと同じだね。いずれも江戸が東京になった時点で変わったのさ
no.39 記入なし (16/08/18 13:17)
壬申の乱 にしても、源平合戦にしても、関ケ原にしても、応仁の乱にしても、日本って東西に分かれて戦うのが好きだねぇ
no.40 記入なし (16/08/18 15:17)
日本人の起源を考えると双方からの混血があるからその名残かも
no.41 記入なし (16/08/18 16:04)
岐阜県関ケ原は今でも特になんにもない原っぱです
no.42 記入なし (16/08/18 16:25)
厭離穢土 欣求浄土
人の一生は、重き荷を負いて、遠き道を行くがごとし、いそぐべからず
及ばざるは 過ぎたるに勝れり
no.43 東照公遺訓 徳川家康遺訓 (16/08/18 16:27)
古戦場はそんなもん。戦死者の霊があるからまちには出来ない
no.44 記入なし (16/08/18 16:31)
大谷吉継は偉い!
no.45 記入なし (16/08/18 21:12)
関ケ原ウォーランド とか言う施設があったような。今もまだあるかは不明だが、珍スポットである
no.46 記入なし (16/08/18 21:25)
日本って国はすごいね、ただの戦国武将の一人にすぎなかった徳川家康が神様になっちゃった。イワシの頭もナントカカントカ
no.47 記入なし (16/08/18 21:28)
>>40
西日本(関西から以西)は独立したほうがいいかもね。
首都は大阪都。
no.48 記入なし (16/08/18 23:18)
明治維新も東西対立
薩摩、長州、土佐、肥前 VS 徳川幕府
no.49 記入なし (16/08/18 23:32)
うん十年前に関ヶ原に行ったことあるが、ウヮーランドたるものはなかった、歴史的に有名な場所のわりには所々に陣地跡碑があるくらいで、見た目田んぼばかりだった
no.50 記入なし (16/08/19 09:06)
小早川秀明軍のとっさの判断で家康側が逆転勝利。日本の行く末がわすかの決断で。そしてたった一日で決着ついた。世紀の一瞬だった
no.51 記入なし (16/08/19 11:52)
乱世に戻っていたと思う。
石田三成の器量では、統治できないでしょう。
豊臣秀吉や徳川家康に敵わない。
no.52 記入なし (16/08/19 12:18)
三成は豊臣の政権を守るために戦ったんだが、秀吉亡きあと後継者の秀頼はまだ幼くすでに無力だった。結局どこかの緒大名が統率するしかなかった。
no.53 記入なし (16/08/19 14:54)
秀頼の父親は秀吉ではないとおもうんだけど、誰だと思いますか?私は石田治部輔が怪しいとにらんでます。だって負けるのわかっているのに,家康と敵対しましたからね。大谷刑部はえらい迷惑です。
no.54 記入なし (16/08/21 22:18)
秀頼の父親は秀吉ではないとおもうんだけど、誰だと思いますか?私は石田治部輔が怪しいとにらんでます。だって負けるのわかっているのに,必死で秀頼を守ろうとしましたからね。
no.55 記入なし (16/08/22 06:57)
伊達政宗が早々に江戸まで支配してたら
だいぶ変わってたんじゃない?
no.56 記入なし (16/08/22 11:39)
伊達政宗が早々に江戸まで支配してたら
だいぶ変わってたんじゃない?
no.57 記入なし (16/08/22 11:39)
後の世に関ヶ原の布陣をみたアメリカ人の戦略家が圧倒的に西方の勝利だろうと語ったそうだ。
三成は最初から負けるとは思っていない。
秀頼は三成の子の可能性は否定できないが秀吉が当時性交可能だったことは間違いない。
no.58 記入なし (16/08/22 12:33)
三成が負けたのは松尾山の小早川秀明陣の一気にねがえりで急に三成軍が総崩れになったから。それまでは三成軍が優勢だったという。最初から負けると分かってたはけはない。秀頼が三成の子かどうかは分からないが
no.59 記入なし (16/08/22 16:30)
戦う前から決着はついていた
小早川秀秋は、秀吉生前から三成に悪意の限りを受けて、復讐の機会を
うかがっていた。黒田長政の調略により、たやすく寝返りを約束。
また、西軍総大将である毛利輝元は、吉川広家の傀儡に過ぎず
吉川広家は政敵安国寺恵瓊が親三成派のため親徳川派の立場をとった。
この時点で西軍総大将はハリボテ化。
味方だと思い込んでいた戦力の大半が、敵、あるいは日和見主義者であった。
三成は豊臣に忠誠を誓っていたろうが、結局は大局を誤り
主家の家運を衰退させて、家康の天下取りをお膳立てしてしまった
愚かな男として歴史に名を刻んでしまったわけだ。
no.60 記入なし (16/08/22 22:37)
関ヶ原の動乱 = 太平洋戦争
石田三成 = 大日本帝国
徳川家康 = アメリカ
no.61 記入なし (16/08/22 23:17)
太平洋戦争でもし日本が勝ってたら?を論じても大体同じすじの論議となりそう。世界大戦こそ全世界をふたつに分けた戦いだし
no.62 記入なし (16/08/23 15:55)
三成が勝つためには、いかなる挑発にも乗らずにひたすら自重し
老いた家康が死ぬのを待つほかなかったと考える
加藤清正、福島正則ら武断派に対しては、過去のいきさつを詫びて
和睦し、豊臣秀頼のために豊臣系大名の団結を呼びかけるべきだったか…
三成自身、赤心を示すために所領を秀頼に返納し、高野山に退去
後事を大谷刑部に任せておけばよかったろう
家康が望んだのは、三成を挑発して兵を挙げさせて、諸大名を糾合し
野戦でこれを殲滅、その勢いで天下を取るために邪魔なものたちの滅殺する展開
この企みを挫くのが隠忍自重戦略であったのだが、愚将三成は挑発に乗り…
no.63 記入なし (16/08/23 23:20)
家康が死ぬのを待つしかない。それまでに大坂夏の陣を起こしては意味がない
no.64 記入なし (16/08/24 07:52)
歴史は変わらない。過去の話。
no.66 記入なし (16/08/29 21:44)
しかも今の時代にどう影響したかも誰もわからん。
no.67 記入なし (16/08/29 21:46)
仮に三成が勝ったとしても天下を取れたかすらわからない
no.68 記入なし (16/08/29 21:48)
家康が死ぬのをまつしかない…とは…
あの家康が死の直前まで無策でいる訳がない。
所詮 後世の凡人の理論。
no.69 記入なし (16/08/29 22:05)
↑あなたならどうする?
no.70 記入なし (16/08/29 22:08)
家康の臣下になりますか〜
no.71 記入なし (16/08/29 22:23)
>家康が望んだのは、三成を挑発して兵を挙げさせて、諸大名を糾合し野戦でこれを殲滅
そのとおりだと思いますが、
それにしては三成善戦、家康苦戦だったとおもう。
やっぱり小早川の小せがれのちょっとの判断が大きい。
あんなに迷うなら小早川軍参戦しなければよかったんだ。
そしたらどうなってたかね。たられば。
no.72 香具師 (16/08/30 00:28)
海道一の弓取りの下で戦を学び
右府との盟は生涯にわたって之を果たし
衆寡敵せずとはいえども機山との一戦に及び
長久手では一歩も退かぬ棋譜をみせたのである。
まさに戦国大名の生き残り・・・
諸侯の多くは、だからこそ身を委ねて
家運を切り開こうとしたのである
no.73 サイコロ (16/08/30 00:29)
政に携わる事も無き輩がしたり顔で偉人を語る。
偉人と大所高所で対峙するなど凡人には余りあること甚だし。
no.74 記入なし (16/08/30 06:12)
no.74
凡人の分際で偉人を論評してゴメンね〜(笑)
まあそのうち優秀な嫁と二人三脚で財界、政界に
影響力を発揮するようになるからちょっと時間ちょうだい^^
no.75 記入なし (16/08/30 14:51)
>no.72 ( 香具師
一説によれば、小早川秀秋は、三成と家康が大垣城でにらみ合っている時
少し遠くで、高見の見物をしていたらしい。
家康としては、大垣城を攻めて、消耗するより野戦を望んだ。
で、大垣を去り、三成の佐和山城へと・・
三成が乗って来ればそのまま野戦へ、乗って来なければ、佐和山城を落とす。
家康としては、関東を留守にしているから、上杉がいつ留守を狙ってくるか?
上杉の抑えとして、伊達をおいているが、伊達も信用できない。
伊達は元々、米沢・会津で、上杉は越後である。
「この戦いに勝ったら、上杉は越後に帰り、米沢・会津は伊達に譲る」と
上杉と伊達が合意したら・・・・
結果として、三成がおびき出され、野戦となり、家康が勝利した。
小早川秀秋はこの事が原因かわからないが、2年後に狂い死にしたと言われる。
家康の誤算は秀忠が間に合わなかった事。
このため、広島や土佐を外様大名に与え、その結果
幕末に薩長土肥が連郷して、討幕をした
no.76 記入なし (16/08/30 20:07)
小早川秀秋は遠くに離れていた所に、家康と三成がやってきて
勝手にドンパチを始め、そのうち、家康から鉄砲を撃ち込まれたので
冷静な判断ができなくなり、三成軍に突っ込んだ・・・のかもしれない
no.77 no.76 (16/08/30 20:11)
no.77
小早川秀秋は石田三成の讒言により、朝鮮出兵後、大幅な減封の
憂き目にあった。もとの知行に復帰出来たのは家康の奔走に負う
ところが大きい。
関ヶ原の合戦後、早逝したのには諸説ありますね。
家臣による衝動的な刃傷沙汰、あるいは多量の飲酒によるものなど
no.78 記入なし (16/08/30 21:08)
家康が鉄砲撃ち込んだ。その瞬間、人によっては撃ち込んだ側に逆上してそちらを攻撃したかも。咄嗟の瞬間だった。あるいは家康は秀秋の性格をうまくよんでたのかも
no.79 記入なし (16/09/03 10:24)
小早川の寝返りよりも毛利勢の日和見(傍観)のほうがおおきいのでは?地形的には
東軍は西軍に囲まれていた。
no.80 記入なし (16/09/05 22:08)
な事実はない。
no.81 記入なし (16/09/05 23:51)
そう毛利が突っ込めば状況変わったかも。
しかし毛利が突っ込むには小早川が東軍に突っ込まなくてはいけない。たられば。
ところで俺、面接のお誘いが3社きた。
3社とも御社が一番です。御社に入りたいです。御社に味方します。
とうそをこかなくてはいけない。
そして複数内定取れたらどこかを裏切らなくてはならない。
小早川秀秋な状態。
全滅だけはさけたい。
さてどうしたらいいと思います?
no.82 香具師 (16/09/06 02:18)
ターニングポイントは、大谷
吉継軍が小早川の寝返りを想定して配備していた
脇坂軍も寝返った時だ。これじゃあどうしょうもない。
no.83 記入なし (16/09/06 05:33)
今や、合戦の成り立ちは大きく変わりました。
敵味方が巨大な力にまとまり、それがひとところで一気にぶつかり合う。
そうなったら、この戦は案外、早く決着がつくかも知れません。
徳川と豊臣(石田)、勝った方が次なる覇者となります。
徳川であれ、豊臣(石田)であれ、戦に勝った後は、
今より、はるかに大きな力を手に入れています。
太刀打ちなど、できるはずがありません。
真田丸 35話
no.84 記入なし (16/09/10 14:17)
妄想家の戯言
真実は曲げられない
人望無き石田三成に勝機なぞ100%ない。
no.85 記入なし (16/09/10 17:18)
豊臣秀頼が現地に行っていたら、福島正則は攻めることができなかったでろう。
毛利輝元も現地に行っていたら、小早川や吉川も参戦せざるえなかった。
毛利輝元が、大阪城に籠っていたら、それなりの戦いができたかもしれないが、
すでに、小早川と吉川が家康についていたので、毛利勢同士の消耗戦になる。
このため、毛利輝元は大阪城を明け渡した。
関ヶ原で西軍が勝利すれば、中国地方の毛利、宇喜多が加増され、お互いを削らねば
毛利は黒田長政の九州、宇喜多は山陰から前田家の北陸を削ることになる。
九州は加藤清正の領地を小西行長が、四国は長宗我部が
上杉は会津の他、越後も取る。
関東はどうするか、あくまで家康の首を取るか、相模程度を秀康に残すか?
家康の首を取って、誰が関東を抑えるのか
真田は本来は秀忠の大軍を抑えた功績は大きいが、信幸が徳川についたため、
助命嘆願で加増はなく、上田・沼田に止まる。
関東は誰がいいかな?
北陸を三成が取って、前田を関東に流すか
さて、秀頼が関ヶ原に行けなかったのは、淀君が反対したからである。
三成は「太閤殿下の意志を継ぎ」をセリフに豊臣に君臨するだろうが、
自分の地位では命令できないので「秀頼様のご命令により」を連発する。
しかし、秀頼には母である淀君がついており、「秀頼殿はこう申しております」と
淀君が言えば、逆らえない。
そこに、イケメンの側用人がついていれば・・・・
no.86 記入なし (16/09/10 19:11)
東の海に「日本」という国がある。
元々「天皇」と呼ばれた者が統治していたはずだが、戦国になった。
その戦国を統治したのが、「猿」と呼ばれる者らしい。
その者が朝鮮に攻めてきた。
一度は「そなたを日本の国王に任ずる。(だから兵を引け)」という書状を送ったが、
納得せず、戦はすでに7年も続いている。
さて、歴史では、その「猿」は亡くなり、「朝鮮ぜめに加わらなかった徳川」とゆう武将が
豊臣政権倒し、征夷大将軍のなり和解したが・・・(実際に和解したのは秀忠の代)
さて、三成が関ヶ原で勝っていたら、朝鮮と和解できずにそもまま鎖国へ
no.87 記入なし (16/09/10 19:28)
昨日の真田丸
徳川大勝利
大谷刑部・・・討ち死に
石田三成・・・行方不明
no.88 記入なし (16/09/12 16:41)
真田丸
今回は、関ヶ原どう描かれるか楽しみにしてたのに、結果だけ。つまらん。
今回は石田三成が勝つと思ったんだけどなぁ。
no.89 香具師 (16/09/13 01:09)
信長の野望。でシミュレーションしても、自身がやるとどうも家康が有意になるみたいだ
no.91 記入なし (16/09/16 04:23)
三成は本当に私利私欲とは全く無縁の人だった
また、人を遇すると言うことをよく知っていた
だからこそ石田軍から離反者は出なかった
三成処刑後も地元住民からは慕われ続けた
確かに物言いは横柄で無駄に敵を作ると言う不器用なところはあったと思うが
こんな政治家が今の世の中にも出てきて欲しい
no.94 記入なし (16/09/21 02:24)
今回は石田三成が勝つと思ったんだけどなあ。大河ドラマシリーズで例えば本能寺の変が場面に出るために視聴者から信長を殺さないでくれ、とNHKにクレームいったそうです。しかし歴史は変えられないでしょ。真田丸にせよ嘘の歴史は演じられないからね
no.95 記入なし (16/09/23 11:06)
それにしても、豊臣秀頼の本当の父親はだれなのだろうね?秀吉ではないのは確かだと思うよ。
no.96 記入なし (16/09/23 19:03)
実は秀頼の本当の父親は三成だったとかもきく
no.97 記入なし (16/09/23 19:09)
関ヶ原での西軍の敗戦が、明治維新の原動力となった。
no.98 記入なし (16/09/27 21:05)
関ヶ原の合戦で、秀忠率いる徳川の主力部隊は真田昌幸に足止めをくらった。
そのため、主力部隊が参加できず、福島、黒田、細川等の外様大名の力を借りざる得なかった。
このため、勝っても、徳川が得たのは大阪から東、西は外様大名に渡さねばならなかった。
明治維新では、西国の大名が一気に京都を制圧してしまった。
no.99 記入なし (16/09/28 00:17)