LOさん
人類が絶滅することはないと考えます。
なぜならば、人類は考えることが出来る、”理性”と良心”が備わっているからです。そこが、他の動物との決定的な違いです。
地球の進化に合わせて人類も進化するのは確かだと考えますが、人の生き死にに、そう感情的になることはないのです。「死」ということは、鈍重な肉体を脱ぎ捨てて本来の霊体に帰ることですから。
たいしたことではないのですよ。
人は、この生きているときが大切と考え、如何に楽しむか、いい思いするかを考えていますが、この世界は、修行の世界なのですよ。
苦しみ、悲しみが多い世界なのです。だから修行になるのですよ。
大きな苦しみは、大きな悟りになり、更なる世界へのジャンプ台なのです。
それを、目の前の楽しみの目がとらわれて、他人を踏み台にしてまで楽しんでいると、何倍もの苦しみを味わうことになるのですよ。
エボラ、狂牛病、エイズ等は人の悪想念が生み出したものではありません。
生まれるべくして生まれたのですよ。
偶然ではありません、必然です。
たとえ人類が作ったのだとしても、必要だから出てきたのですよ。
宗教に関しては、歴然としています。
宗教とは「名」ばかりのものばかりです。
このことに関しては、後日議論しましょう。
大切な事柄ですから・・・・
no.1100 放浪者 (06/12/13 20:59)
LOさん
基本的のことを伺いたい。
人とはどのような生き物なものなのでしょうか???
no.1101 放浪者 (06/12/13 21:18)
放浪者さん 度々 長文でおそれいります
今まで貴方のたくさんのご意見を読ませて頂きました。98パ-セントは
私も同じ考えです。ただし威張る訳ではありませんが その部分は20年近く前から
学んで知っておりました。はじめてこの真理に触れる他の人も見られるでしょうから、あなたの労も無駄ではなかったと思います。変な言い方で失礼しました。
解らないのは後の2パ-セントの部分
資本主義は巨悪の権化・・・と否定されていますが、ではそれに代わる良きものは
いったいどのようなものとお考えでしょうか?
理想を言えば共産主義でしょうが、永くは続きません。
皆ながいたわり合い 睦み合い 平等に暮らす ト-マスモ-アのユ-トピアの世界
ですね。桃源郷ともいいますね。まさに理想郷かもしれません。
しかし それでは努力する者が報われません。
又、努力しても怠けても同じなら、いずれ怠け者が続出するでしょう。国家も成り立ち
ません。
人間が進化するどころか、退化してしまいます。これでは生まれて来る意味が無い。
結果平等の世界はかならず破綻するでしょう。
それとエボラ、エイズ、狂牛病等の件 あなたは必然であると言いきられますが
何と説得されてもこれには同調できません。
no.1102 L.O (06/12/13 21:57)
狂信者だ・・・
no.1103 下っ端公務員 (06/12/13 21:59)
>LOさん
私は、スレ主の太郎さんではありませんから・・・・
「資本主義は巨悪の権化・・・」に対しては、コメントできかねます。
この世の中での出来事は、偶然とか奇跡的なことはありえないと思っているからです。
この世の中は、「因果律」で成り立っているのですよ。
原因があるから結果があるのです。
原因がないのに結果はありません。
人がわからないことでも、原因がわからないからそれは神様の警告と受け取るという考え方には、同意できません。
どのよう現象にも、原因はあるのです。
no.1104 放浪者 (06/12/13 22:10)
>LOさん
1102の内容は非常におかしな内容ですよ。。。
気持ちを落ち着けて、よく考えなさい。
1102の内容を分析してみなさい。
支離滅裂ですよ。
そこらへんの宗教の信者が言っていることと変わりはありません。
よく考えなさい。
あなたにも、“良心”と“理性”が備わっているのですから・・・
no.1105 放浪者 (06/12/13 22:25)
放浪者さん 1100 は必然といわれ、1104では因縁因果を説いておられますが
矛盾していませんか?また どのような現象にも原因がある といわれていますが
その原因を私は人間の悪想念と言っておりますが・・・
no.1106 L.O (06/12/13 22:26)
一晩ゆっくりと考えました。
LOさんの1102の内容は、当然考えなければならないことですが、今の段階ではまだ早いのではないでしょうか。
LOさんは、豊富な知識をお持ちだから、「これくらいは理解できるだろう」というお考えで、出されたものと推察します。
階段は一段一段上るものであって、二段飛ばしとか三段飛ばしでは、誤解、曲解を招くだけだと思います。
基本は、人間はこの地上で肉体をまとった霊体であるということを前提で考えなければならないことです(このスレッドの内容からしてスレ違いとは考えておりません)。
「死」とは肉体を脱ぎ捨てて、本来の霊体に戻るということです。
では、今の生活をどのように考えるかが大切になってきます。
生はこの世のものだけだから楽しまなければならないと考えるか、永遠に続くものだから、今何をしなければならないか・・・を考えるかだと思います。
私の信じているスピリチュアリズムは宗教ではありません。知識なのです。
no.1107 放浪者 (06/12/14 11:59)
「生」はこの世だけだから、死んだらおしまいという方は、しっかりと今の生活を楽しんでください。
肉体の死後も霊としての生活があると考えると、その生活とはどのようなものなのだろうか?という疑問が出てきますね。
どのような世界で、どのように生活するのか、天国とか地獄とか言われていますが、どのようなところなのか?
ちょっと興味がある方は考えてみてください。。。
no.1108 放浪者 (06/12/14 21:19)
なかなか読み応えはある内容だとは思うけど。
現実的な俺にとっては「肉体の死後の霊」に生存権を含めた基本的人権は存在するのか?課税主体になりうるのか?天国や地獄の地上権はどうなっているのかなどと考えてしまう。
no.1109 記入なし (06/12/14 21:30)
そうですね。
霊からお金を取れれば、国の財政難も何のそのですね。
しかし、霊界では精神の世界らしいですから、お金とかの物欲はなくなるみたいですね。必要がないみたいですよ。
肉体を持って生きているから、その肉体を養うために働く、また、色々な欲がありますから、それを満足させるために、色々な行動をとることになりますね。
その行動から、色々な感情の衝突があって、争うことになるのではないでしょうか。
頭の体操程度に、考えてみても面白いと思います。
no.1110 放浪者 (06/12/14 22:01)
放浪者さん
人類の起源はおよそ四億五千万年前と教わりました。
が何百年前でも、そんなことはどうでもよいことでしょう。
何百回〜何千回も生まれ変って、少しでも上の境地(霊格)をめざして
魂修行をしています。少しずつ 一歩一歩です。
人はこの世に生まれ出る時、あの世に居た時のこと、過去世の経験など一切忘れるような仕組みになっています。この世でのスタ−トラインは大富豪であろうと石川五右衛門
であろうと、同じでなければ不公平だからです。
生まれる時、過去世がドロボウであったり、大富豪であった事を知っていたら
今世の魂修行のさまたげとなるからでしょう。 さて 先ず宗教の概念ですが
この世で魂修行を積んでいる人に指標を示す、神の子である人間の本来の姿、
あの世の姿を教えるのが宗教のつとめと思います。
あなたはスピリチユアリズムは宗教で無いと、シルバ−パ−チもそうおっしゃっていますが、目に見えない実在界(あの世)の姿をこの世の人々に教示するのが、一般的に宗教
と言います。宗教で無く知識であると言われるのは、現代の宗教があまりにも
だらしないから、その上を行くものである と言いたいのでしょう。さもありなんです
私は本来、釈迦の教えを信奉する者ですが、今の仏教の有り方に大いに疑問を持ち、
不満をいだいています。漢文と梵語を合わせた訳のわからんお経をとなえ、戒名
というおかしなもので、それも布施の多寡で位まで差別している。
釈迦がそんなこと教えたはずが無いのです。わけの解らんお経は生きている人に
解らないのですから、ましてや死者に解るはずがないでしょう
解らないから崇高なのである、とでも云うのでしょうか。もっと誰にも理解できる言葉
で説くべきで、余りにも形式的、儀式的です。しかも困ったことに、坊主の多くは
あの世の存在すら解らない、認めようともしない。と言います キリスト教にしても
然り、本来神の子である人間を罪の子である、(一面ではそうかも知れませんが)
と決めつけています。 これではあなたが宗教を認めないのも解ります。
釈迦入滅して2650年、イエス帰天して2000年、本来の教えも歪んで伝わるのは
やむをえないことかもしれませんが、こういうのを 末法の世 と言います。
仏教であれ、キリスト教、イスラム教、ヒンズ−教にしろ、根源の教えは神仏から
おろされ、それを説く人がその時代環境に応じた説き方をされた訳ですが、
何千年も経た今、相当ゆがんで伝わっている事でしょう。 そんな時代だからこそ
今、本来の諸宗教、諸思想を統合した教えを説く人が出られたのです。
釈迦の本体意識で エルカンタ−レと言い、この世での名は 大川隆法と言います。
この方が法を説き始めた最初の頃(20年前)はあの世の実在を証明するため、
偉人と言われる方々(高級霊)の霊言でした。イエス、モ−ゼ、ゼウス、ソクラテス、
ミカエル、スエ−デンボルグ、エドガ-ケ-シ-、孔子、荘子、老子、荘子、天照大神、
天之御中主之命、卑弥呼、坂本竜馬、木戸孝允、西郷隆盛に至るまで、その他たくさん
ありましたが・・これらの霊言集を読んで、それぞれに個性はあるが云わんとする
ところ、真理はひとつなり 万教は同根 万教は帰一を確信しました。 その後、
以前紹介した基本三部作(太陽の法、黄金の法、永遠の法)を著わされ、現在まで
三百冊近くの著書を出されています。シルバ−パ−チの霊訓の紹介もありました。
私はこれらをあなたや皆さんに押しつけるつもりはありません。
ただ自分が信じているものが最高のものだ とは限らない、他にも立派な教えは有る
ということを知って頂きたい一念で書かせて頂きました。いろんな所で学ぶのは
良いことです。私もこれから、スピリチュアリズムも詳しく学びたいと思います。
このコ−ナ−に もうお邪魔はしませんのでご安心下さい 長々とすみません
ありがとうございました
no.1111 L.O (06/12/14 22:59)
>LOさん
こんばんわ
あなたのご指摘どおりですが、はじめから難しいことを並べても拒否されるだけですよ。どんなに、良いことを述べられても、意味がわからないと誤解曲解されるだけではないでしょうか。
急ぐ必要は無いのですよ。
私は、宗教という固有名詞にこだわることはしたくないのですよ。
no.1112 放浪者 (06/12/14 23:11)
この世があるのは自明だよね
少なくともこの世は納得
それゆえあの世があってもおかしくないとは思う
仮にあったとして、どこにあって人間とどうかかわりあうのかは不明
no.1113 記入なし (06/12/14 23:16)
あの世でも無職になるかも
no.1114 記入なし (06/12/14 23:18)
人類が最も尊い存在ならばなぜ最初に微生物、小動物、恐竜などが栄えたのか。
彼らはただ生まれただけの存在と言うのなら納得できない。
人類が仏になる崇高な目的を持って生まれたなら地球ができた
当初から存在しなければおかしいではないか。
人類だけが神に選ばれた存在であるという根拠に乏しい。
そう言ってるのは人類だけだし。人類は自己中な生き物だから祖先はそう考えた
のではないのか。
no.1115 疑問あり! (06/12/15 01:19)
おはようございます
>1114さん
霊界では、自分のしたいことをすることが出来るらしいですよ。
利他愛。これに準じて働くことが喜びに感じることなのですよ。
この世みたいに、いやいや働くこともないのですよ。
>疑問ありさん
あなたの的をうがった疑問提起には感心させられます。
微生物も他の動物も、恐竜も存在に意味があるのですよ。人類だけの勝手な考えだけで、存在しているのではないのです。この世界は調和が取れているのです。その調和をかき乱しているのが人類なのですよ。傲慢と利己心から・・・・
地球も進化の過程にあるわけですから、その時代時代に必要なのです。人間が理解できずに勝手な理屈をのたまわってもね。
人類には“良心”と“理性”が備わっていますね。
これは神様から授かった監視装置らしいですよ。これらがないと、利己心が強い生き物の世界になります。本当に、弱肉強食の世界ですね。力の強いもの、意志の強いものがのさばる世界です。
それでは、進化が遅くなってしまうのです。力が弱い人は、それを補う知性が備わっています。お互い足らざるを補って進化するようにとに配剤なのですよ。
no.1116 放浪者 (06/12/15 09:18)
1108の続き
人が「死ぬ」ということは、不要になった肉体を脱ぎ捨てて本来の姿である霊体に帰ることになるのですね。臨死体験や幽体離脱を経験している人は、自分の体を自分が見ていると証言されています。また、霊界通信では、死ぬと自分の体(死体)を少し上から眺めているといわれています。
と、すると、死んだ後も自我意識があるということではないでしょうか。自分の体を自分自身が観ている。混乱してしまいますね。そのような状態が多いのだそうです。
では死んだ今の自分は何なのか?
ちゃんと意識もある、周りの環境も識別できる、生きていたときの状態のままだ!
「私は死んでいない」と思うらしいのですが、他の人は「私」に気づかない。また、体の不具合が在った人は、その不具合がなくなっている。
非常に混乱してしまいますね。
その混乱が続く時間が人それぞれみたいですね。それは、地上に生きていたときに培った、考えが影響しているのです。宗教を信じて自分の世界を築き上げている人や、頑なだった人は混乱の期間が長いみたいです。
no.1117 放浪者 (06/12/15 09:34)
はぁ、、、早く環境破壊を止めたいね
私たちが出来ることって節電やリサイクルだよね
大気の乱れと人間界の乱れって密接に関係してるんだってね
no.1118 記入なし (06/12/15 12:42)
あの世があるって言うなら学会か何かで証明してみてくれ。
科学的に立証できたら皆信じてくれるって。
節電? 環境?
貧乏ってのは物凄くエコだと思うのですよ。
頑張らなくてもその現状がすでにエコなのですから。
no.1119 記入なし (06/12/15 12:48)
信じる信じないは、個人の自由意志にお任せしますから、証明するしないは大きな問題ではないと思います。
それに、証明は、日本では「いたこ」の存在や、霊界通信等で証明されているのですが、そのことに目を伏せて、耳を閉じて、ご自分で柵を作っているだけなのですよ。
1117の続き
人は自分の死を実感するまで時間がかかるようです。
それまでは、地上をうろつくみたいですね。今まで行っていたお店とか会社、または自宅に帰ってみて、「私はここにいるよ、生きているよ」と自己主張するのですが、誰も気がつかないのですね。そこで変だと多くの人は気が付くみたいです。
そこで、もしかしたら、自分は死んでいるのか?と、自覚するわけです。そうなると、何か近くにいるという気配を感じて、そのほうを見ると、お迎えの霊がいるわけですね。そこで色々と忠告され、居るべき所に案内されるのですよ。そのお迎えの霊が、身近な人もいれば、それを仕事としている霊もいるわけですよ。
no.1120 放浪者 (06/12/15 13:02)
>1119さん
ものすごい、真理を伴ったご指摘ですね。
「節電? 環境?貧乏ってのは物凄くエコだと思うのですよ。頑張らなくてもその現状がすでにエコなのですから。」
貧乏の方は、自身が望むと望まないに関わらず、「利他愛」を実践しておられるのですよ。
no.1121 放浪者 (06/12/15 13:23)
ちょうど、今読んでいるスピリチュアリズムの本の内容に、参考になる文面がありましたので、紹介させていただきます。
「人間に永遠不滅の魂が宿っていて、それが肉体の死とともに霊的存在として個性と記憶のすべてを携えて次の世界へ赴くこと、そして適当な霊媒を通して通信を地上へ送り届けることができることは、これまでに繰り返し行われてきた実験と理性的推論によって疑問の余地のないまでに証明されている。
一方、これを否定せんとする者も後を絶たないが、彼らは実験に参加することを拒否し、ただ「そんなことは信じられない。したがって不可能である」という筋の通らない理屈を繰り返すのみである。これでは「太陽はどう見ても地球のまわりを回っている。だから地動説は信じられない」と言うのと同類で、そう思うのは自由であるが、それではいつになっても無知の牢獄から脱け出られないことになる。」
no.1122 放浪者 (06/12/15 13:27)
またまた、紹介なのですが、興味のある方はお読みください。
興味がなければ、時間の無駄ですし、腹が立つだけだと思います。
唯物論者には大きく分けて二つのタイプがある。
一つは、理論上そう考えているタイプ。このタイプの人間にとって霊的なものは“疑わしい”のではなくて、理論上の観点から“存在しない”のである。人間というのはゼンマイ仕掛けの機械と同じで、ゼンマイが巻かれている間は動くが、ゼンマイが切れると動かなくなる。後に残るのは死骸だけであり、他には何も残らない。
幸いこのタイプの人間は少ないので、こうした思想の蔓延による弊害を声高にあげつらう必要はない。
もう一つは無関心から取りあえずそういう立場を取っているタイプ。確信をもって唯物論を主張しているわけではない――言うなれば、それよりもっと良い説があれば喜んで信じるタイプで、こういう人が数としてはいちばん多い。
このタイプの唯物論者も、おぼろげながら来世へのあこがれのようなものを抱いている。が、これまでの伝統的信仰で聞かされている来世観は理性が納得しない。
そこで疑念が生じ、その疑念が不信へと進行する。が、その不信には何一つ理論的裏付けがないのであるから、合理的な説を提示されれば喜んで受け入れるであろう。ということはスピリチュアリズムを理解する可能性があるということで、本人が自覚しているよりも我々と通じ合えるものをもった人々なのである。
その点から言うと、第一のタイプの唯物論者には啓示だの天使だのパラダイスだのといったものを持ち出しても意味がない。
彼らには、この宇宙には現在の物理学の法則では説明しつくせないことが沢山あることを証明することから始めねばならない。
その点、第二のタイプの唯物論者は信仰心がまったく無いわけではなく、いわば胚芽の状態で潜在していて、それが在来の根拠のない教義によって抑圧されているだけであるから、真理の光を当ててやれば生気を取り戻す可能性があるわけである。
no.1123 放浪者 (06/12/15 13:56)
1120の続き
多くの人は、死んだ後多少混乱するのですが、あまり混乱することなく、幽界まで行く霊もあるみたいです。
それはどんな霊なのか?
それは、多くの人に感激とか慰めとかを与えることが出来、または、人類の進化に貢献した人たちだそうです。
ではなぜ、そのような人たちは、あまり混乱せずに、幽界までスムーズにいけるのか?
それは、使命を帯びて生まれてきた霊たちなのです。
多くの人々に感激、慰め、喜びを与えることを使命として生まれてきたのですよ。
一芸に秀でた人たちは、そのような霊なのです。
多くの人たちは、その晴れやかな表の舞台しか見ていませんが、そのようになるまでには、多くの悩みとか苦しみ、悲しみ、不安を乗り越えてきているのです。それを乗り越えて、人々に感動や、楽しさを与え、または、人類に貢献しているのです。
記憶に新しいのは、マザーテレサですね。
利他愛の模範とされる人(霊)です。2000年前にもいましたね。生きた模範とされる「イエス」という人が。。。
「イエス」も「マザーテレサ」も高級霊の降誕でしょう。今の世界の現状を見て、必要だとなったのでしょうね。
no.1124 放浪者 (06/12/15 21:00)
たった今、江原さんが言ってました
「物が豊かになっただけで、イエス様が生きていた時代と何も変わっていない」と
他者を愛せない自己愛主義者が増えたのでしょうか
私も家族のことで悩み中です
社会の小さな写し絵は家族と言いますが、
どん底の家族でも再生は出来ますよね…
no.1125 記入なし (06/12/15 21:29)
人の生き様は、その人がその時々にあわせて、自由意志で決めてきたのではないでしょうか。そして今日があるのですよ。
人には”良心”と”理性”が神様から与えられています。
感情的になり、動物的本能が暴走すると“良心”と“理性”が引っ込んでしまいます。
人は大きな愛で包まれているのです。
自覚できなくても、生まれたときから見守られているのですよ。しかし、多くの人は、愛を見失っていますね。一人寂しく荒野を放浪するがごとく愛に飢えているのではないでしょうか?
選択肢は沢山ありますよ。感情的にならずに、“良心”と“理性”に照らし合わせて考えることにされたらいかがでしょうか。
及ばずながら、心からお祈りさせていただきます。
幸せでありますように・・・
愛を見つけられますように・・・・
no.1126 放浪者 (06/12/15 22:19)
1124の続き
死んでから多くの人(霊)は幽界という所に逝くみたいです。
不幸にして、頑なな心を持った霊は、地上をうろつくみたいでして、それが自縛霊と言われる者ですね。自縛霊も自覚が出来るまでどうすることも出来ないようです。霊も自由意識がありますから、指導霊が強制的につれてはいけないみたいです。
幽界はどのような所なのか、なぜストレートに霊界に行かないのか?
霊は地上生活では意識の一部しか使っていないのです。ほんの一部分だけが顕在して生活をしているのです。多くの意識は潜在しているのですね。と、言うことは多くの能力も眠っている状態なのです。
幽界では、その潜在能力の覚醒をするわけですね。
幽界で、生まれてくる前の自分、地上生活で培ってきた性格や考え方、どのように生活してきたかを総て思い出すのです。
ここで問題がありますね。地上生活ではほんの一部の意識で生活してきたのです。その生活の中で、小さな私が感じてきたことを今度は大きな私が総て感じる事になるのですよ。いい事をした時の喜びも悪い事をしたときの後悔も大きな私が感じることになるのですよ。
no.1127 放浪者 (06/12/16 08:16)
1127の続き
幽界では、潜在意識の覚醒が始まるみたいですが、そこでは記憶がよみがえりますね。
何の目的で、地上世界に生まれ変わってきたのか、目的を達したのか、それとも余計に罪を作ってきたのか・・・・など色々なことが解るのではないでしょうか。
生まれ変わり(再生)は、その霊の罪障消滅のためなのか、足らざるものを補うためなのか・・・色々な意味合いがあると思います。霊の目的はひとつらしいですね。霊格の向上みたいですよ。進化向上するにしたがって、よりすばらしい世界に行き、満足感、幸福感を感じることが出来るみたいです。霊の世界は精神の世界ですから「利他愛」の実践です。
幽界から霊界に行くときは、その霊の親和性によって住む世界が違ってきます。霊格の同じ霊が集まって、ひとつの生活を始めるみたいです。そのことを類魂(グループソウル)といいます。無数の界層があり、そのひとつの界層に行くのですが、自分がいる界層より上の界層がどんなにすばらしい所かが、直観的に解るみたいです。どうしても行きたい、でも行けない。なぜ行けないかの理由もわかっている。その理由を解消するためには何をしなければいけないかも解っている。だから、生まれ変わってくるのですよ。
生まれる前は、目的がわかっているから、どのような体で、どのような環境に生まれるかは、その霊が選ぶのですが、悲しいかな、生まれるとそのことはすっかりと忘れているのですね。
人にはそれぞれに、親和性の強い霊が守護霊としてついてくれ、また、目的にあった指導霊団がつくのですが、現実の生活に追われて、背後霊団の忠告を聞かなくなってしまうのですね。人には自由意志が与えられていますから、どうしても自分に都合のよい事ばかり選んでしまうのです。「守護霊がそちらに行ってはいけないよ!」と忠告していても行ってしまうのですね。
“良心”と“理性”にそむいてしまうのですよ。そして苦しむことになるわけですね。
自分で選んだ人生だとしても、ベルトコンベアーのように決まりきったことしか起きないのではないのです。自由意志が働きますから、自分で選ぶことが出来るのですよ。程度の差こそあれ・・・
no.1128 放浪者 (06/12/16 12:30)
霊的浄化のために仮にあなたが艱難辛苦をなめる必要があると見た時、あなたの守護霊や指導霊は、それに対処する心構えを支え、あまり過酷すぎる時に少し和らげることはしても、艱難辛苦そのものを排除するようなことは許されていません。
それに耐えることこそあなたのためであり、長い目で見た時はその方が良いからです。守護霊というのは叡智と真の愛情をもった父親のようなものです。欲しがるものを何でも与えるようなことはしませんし、為すべきことを避けるようなことも許しません
no.1129 放浪者 (06/12/16 17:35)
1128の続き
死んでから幽界に行きます。
幽界とはどんなところなのか。ここで考えなければならないことは、霊は魂一つで幽界に来ているということです。地位もお金も持ってきてはいないのですね。
本来の自分自身なのですよ。今まで経験してきて、築き上げた自分自身だけなのですよ。霊性の発達程度をさらけ出すわけですね。お金とか肩書きは意味を成さないのですね。
では幽界とはどのようなところなのか。霊にとっては現実的な世界なのです。今生きている間、感じていることが、幽界でも感じるわけです。だから、霊は今も生きている、死んではいないと感じるのです。ある霊界通信の説明では、この世よりももっと現実的で、実感のある世界みたいですね。
なぜ実感があるのか、それは霊の波動(バイブレーション)にあった世界だからです。この地上世界は、肉体の波動(バイブレーション)にあった世界だから、肉体をまとった霊にとっては現実的、実感のある世界なのですね。ほとんどの霊が説明するところでは、大変すばらしい世界だそうですよ。地上世界とは比べ物にならない世界だそうです。
no.1130 記入なし (06/12/17 09:02)
スピリチュアリズムの一文(霊訓)です。参考までに紹介させていただきます。
・・・・神への道は常に開かれ、分け隔てがないこと、進歩より停滞を好む者は生命の基本条件の一つを犯していること、こうしたことをわれらは教えんとしている。
神への道を閉ざし、その門戸に鍵を掛け、己の説く道へ進むことを強要する権利を有する者は一人もおらぬと言うのである。硬直化せる神学、人間の発明せる用語にて勝手に規定せる頑(かたくな)な信仰、その道より外れし者は神より見離されると説き、一字一句たりとも動かし難き教説――これらはみな人間的想像の産物であり、羽ばたかんとする魂を引き止め、地上にくぎ付けにせんとする拘束物であると言うのである。
そのような宗教を教え込まれるまま受け入れ、自由を束縛されるよりは、背後霊のみを指導者として自ら迷い、自ら祈り、自ら思考し、自ら道を切り開くことによりて真理の日の出を見るに至る方が、どれだけよいか知れぬ。
その迷いの道がいかに苦しくそして長く、頼りとすべき教義がいかに乏しく、且つ心を満たしてくれずとも良い。冷たき風に吹きさらされ、嵐に吹きまくられ、身の細る思いをする方が、息苦しく風通しの悪い人間的ドグマの中に閉じ込められ、息を切らしつつ魂の糧を叫び求めても、与えられるものが石ころの如き古き教説であり、化石の如き人間的無知の産物でしかない生活よりは、遙かに良い。
複雑怪奇にして魂の欲求にそぐわぬものを不用意に受け入れ、試練の場であるべき地上生活を無為に過ごし、死してその誤りに気づいて後悔するよりは、たとえ単純素朴であっても背後霊の直接の働きかけによりて、自分なりの神の観念のもとに生き、神の息吹きを受ける方がどれほど良いか知れぬ。
己に正直であること、そして恐れぬこと、これが真理探求における第一の条件である。これなくしては魂は羽ばたくことが出来ぬ。そしてこれさえあれば必ず進歩する。
・・・・・
no.1131 放浪者 (06/12/17 12:09)
守護霊ついて参考までに
地上に生をうけた霊(人間)と同じ霊系に属する類魂の一人で、誕生時あるいはそれ以前から付き添い、他界したのちも、事実上永遠に、切っても切れない絆で結ばれている。
守護霊という文字に“守る”という意味があるために、とかく守護霊とは何ごとにつけて守ってくれる霊とばかり想像されがちであるが、本来の使命は本人の地上での使命の達成と罪障消滅すなわち因果律を成就させることであって、それを挫折させ又は阻止せんとする勢力から守ってくれることはあっても、ぜひとも体験せざるを得ない不幸や病気等の“魂の試練”まで免除してくれることはしない。
ただ、各家庭によって躾の仕方が異なるように、守護霊によって考え方や方針が異なる。従って守護霊とはこういう働きかけをするもの、と一概に論ずることはできない。
どのような人にも守護霊は付くのですが、人自身の自由意志のもと堕落していく人がいます。これも自己責任なのですが、あまりのも堕落してしまうと、守護霊がその人に付き添えなくなるみたいですね。 そうなると、本人の自覚が出来るまで落ちるだけ落ちていくみたいです。
だからって、ホッタラカシではないのですよ。本人の自覚が出来、良心が芽生えてくると、手助けして、霊性を浄化するのを手助けをする高級霊団が控えているのです。
それも本人の自覚しだいですから、基本的には自己責任ですね。。。
no.1132 放浪者 (06/12/17 14:09)
基本的な質問ですみませんが、霊とはいったい何ですか。
no.1133 ベッポ (06/12/17 17:50)
私は、スレ主の太郎さんではありませんが、私の理解している範囲内でご説明させていただきます。
>1133さん
霊とは、進化向上を目指した永遠の生命体と考えています。
人間は、物質的肉体をまとった霊なのです。この地上に生まれてきたのは、霊の進化向上のためなのですよ。地上生活においての苦難や楽しみ、悲しみ、苦しみを経験して霊性を磨くことが目的なのです。
「利他愛」これだけなのですよ。今の世の中は「利己心」がおおせいな世の中になっていますね。この中で、いかにすれば人のために、また社会のためになるかを考えて、行動することなのです。そのようにすれば、霊性が磨かれるのですよ。
マザーテレサやイエス・キリストはよい手本なのですよ。
何もたいそうなことをすることはないのですよ。人のためになること、ちょっと自分のことは我慢して、人に手を貸すことも「利他愛」の実践になるのです。
>1134さん
この世に生まれてきたのは、使命があるのですよ。
その使命を放棄して霊界に行っても、放棄した分は免除されませんよ。埋め合わせの原理が働いて、償いをすることになりますよ。
それに、自殺をしたい・・・・その「動機」を問われることになります。
単なるこの世からの逃げなのか?どうしようもないから自殺したいだけなのか?
ちょっと前のレスにも書きましたが、霊は生まれてくるときは自分で決めて生まれてくるのですよ。生まれる環境や、体を・・・・
ご自分の霊性を磨くために生まれてきたのです。必要な艱難辛苦は耐えられるだけのものを持っているのですよ。
また人には、自由意志が備わっていますから、ご自分の人生はご自分が作ったことになるのですよ。その時々の判断で、今の状況があるのです。
そして、今の問題を解決できるのもご自分なのです。自暴自棄にならずに、神様から授かった“良心”と“理性”でよく判断してください。
一人で悩まずに頼れる人に相談されることも大事なことですよ。
no.1134 放浪者 (06/12/17 18:10)
追い詰められると、人という生き物は冷静に“良心”と“理性”を働かせることが困難になってきます。
恨みつらみ、今の状況の苦しさによって、目が見えなくなるのです。
そして感情的になり、動物的本能のまま行動するようになります。
今の社会のニュースを見ていると、いい年をした大人が、幼稚なことをしていますよね。
そんなときは、自暴自棄になることなく、「どのような行動が出来るか」を試されていると考えるべきだと思いますよ。
相談できる人がいれば良いし、いなければ警察や病院、または、行政機関を利用することを考えるべきですよ。
そのような行動を起こすことも、事態の打開には必要です。
私はこのように考えます。。。
no.1135 放浪者 (06/12/17 20:12)
放浪者さんの説明によると、霊は物質的ではないということなので、存在の確認なり証明が可能かどうかについて疑問があります。
霊の存在を確認できる方法について、ご存じであれば是非教えて頂きたいと思います。
利他愛については是非実践していこうと思っています。
no.1136 ベッポ (06/12/17 22:30)
>1136さん
おはようございます。
霊の存在の説明ですが、難しいですね。私はその方面の専門家ではありませんから。
よく幽霊を見たとか、日本では恐山の「いたこ」が死んだ人の言葉を語るとか、海外では、霊界通信なるもので、高級霊による知識の普及が行われております。
興味があれば、近藤氏がスピリチュアリズム関係の本を訳されておりますから「シルバーバーチの霊訓」をお読みになればいかがでしょうか。
本を買わなくても、サイトに全文が掲載されております。
参考までに
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/how-to.htm人はそれぞれ興味の対象が異なりますから、非現実的なことを言われると、否定に走るのは致し方ないことだと思います。そして、「本当なら証明してみろ」となるのですが、それも致し方ないことです。
人は自身が衝撃的な経験(たとえば死の恐怖に襲われる、病気になって何かにすがりたくなる、追い詰められてにっちもさっちも行かなくなったときに不可思議な感覚に襲われる)をしなければ本来の感覚が目ざまないのだと思います。
この私自体、3回ほど死にそうになりました。どういうわけか、そのつど助かっていますが・・・・そして、金縛りとか、仕事で当直していたときに私一人だけで他は誰も居ない部屋なのに、ざわざわと人が歩き回る気配がしてるけど、目も開けられない恐怖に襲われたことがあります。そのような経験から、人間の世界以外に別の世界があるのではないかと思うようになりました。幸いなことに、私は宗教に興味を持っていましたが、現存の宗教には信頼をおいていません。信用できないのです。
その答えが、スピリチュアリズムの本を読んで理解できました。今の宗教は信頼するには当たらないことを確信したしだいです。
私がここに書き込むことも、私というフィルターを通してですから、「批判的検討」を加えながら読んでいただければ幸いです。そして、ご自分で「シルバーバーチの霊訓」等をお読みになって、ご自身の“理性”で判断していただきたいと思います。
私は、知識の紹介をしているのですよ。こんな考え方もありますよ・・・・ってね。
no.1137 放浪者 (06/12/18 08:25)
人は、霊に関して、物的証拠とか、存在の証明に過度に興味を持つことはおやめになられたほうが良いと思います。先日も九州の方で三人の白骨死体が発見されたニュースがありましたが、低級霊や未浄化霊に取り付かれた霊媒が、人類救済等を訴えて、それを信じた哀れな人たちみたいです。
一人の人間がすることは高が知れています。どんなに立派な教説を唱えようとも、肉体をまとっている限り未熟なのです。インスピレーションを受けても、その人のフィルターを通しているのですよ。その人の考えが粉飾してあるのですよ。
人には神様から授かった“良心”と“理性”が備わっているのですから、よく判断しましょう。
ちょっと、スピリチュアリズム「霊訓」から紹介させていただきます。
生命は一つにして不可分のものである。ひたすらに進歩向上の道を歩むという点において一つであり、永遠にして不易の法則の支配下にある点においても一つである。
誰一人として特別の恩寵には与(あずか)れぬ。また誰一人として不可抗力の過ちのために無慈悲なる懲罰を受けることもない。
永遠なる公正は永遠なる愛と相関関係にある。ただし、“お情け”は神的属性ではない。そのようなものは不要である。何となれば、お情けは必然的に刑罰の赦免を意味し、それは罪障を自ら償える時以外には絶対に有り得ぬことだからである。哀れみは神の属性であり、情けは人間の属性である。
徒に沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎(おろそ)かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。そのような生活によりて神の栄光はいささかも高められぬことを知るからである。
われらは仕事と祈りと崇拝の宗教を説く。神と同胞と己自身(の魂と身体)への義務を説く。神学的虚構をいじくり回すことは、無明の暗闇の中にてあがく愚か者に任せる。われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。
父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務
同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務
身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務
知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務
より深き真理を求める(霊的開発)…… 自己への義務
良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)…… 自己への義務
祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)…… 自己への義務
以上の中に地上の人間としての在るべき大凡(おおよそ)の姿が示されておる。いかなる教派にも偏ってはならぬ。理性の容認できぬ訓えに盲目的に従ってはならぬ。一時期にしか通用せぬ特殊な通信を無批判に信じてはならぬ。神の啓示は常に進歩的であり、いかなる時代によりても、いかなる民族においても独占されるものではない。
no.1138 放浪者 (06/12/18 10:26)
1130の続き
人は死ぬと幽界に行きますね。
善なる魂も、悪なる魂もその中間にある魂も・・・
ではここで天国とか地獄とか、罪について考えたいと思います。
私は、天国とか地獄とか、場所をさすようなところはないと考えています。
人は、神様から“良心”と“理性”を授かっているのですが、その良心に反することを尾もなったときに、「後悔の気持ちで責めさいなまれる」ことを言うと考えています。
人の心の中に天国も地獄もあるのでね。言い換えれば、人の魂が作り出すのですね。
「罪が人を裁く」とはこのことを言っているわけですね。
ただ、類魂といって、親和性の強い霊が固まって世界を作るのですから、霊性の高い霊の世界は当然そのような世界になるし、霊性の低い霊の世界はそれなりの世界になることは、現実の世界を振り返ってみても理解が出来ることではないでしょうか。
またまた、「霊訓」の一文を紹介します。
善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。
真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。神的愛が行動を鼓舞し、互いの祝福の中に魂の喜びを味わう。ものぐさな怠惰を貪(むさぼ)る者など一人もおらぬ。より深くより高き真理への探求心を失う者もおらぬ。人間的情欲、物欲、願望のすべてを肉体と共に棄て去り、純粋と進歩と愛の生活に勤しむ。これぞ真実の天国なのである。
地獄――それは個々の魂の中を除いて他のいずこにも存在せぬ。未だに浄化も抑制もされぬ情欲と苦痛に悶え、過ぎし日の悪業の報いとして容赦なく湧き出ずる魂の激痛に苛(さいな)まれる。これぞ地獄である。
その地獄より脱け出る道はただ一つ――辿り来る道を今一度あと戻りし、神についての正しき知識を求め、隣人への愛の心を培う以外にはない。
罪に対してはそれ相当の罰のあることはもとよりであるが、その罰とは怒りと憎しみに燃える神の打ち下ろす復讐のムチではない。
悪と知りつつ犯せる罪悪に対し、苦痛と恥辱の中にありて心の底より悔い改め、罪の償いの方向へと導くための自然の仕組みにほかならず、お慈悲を請い、身の毛もよだつ恐ろしきドグマへの口先のみの忠誠を誓うが如き、退嬰(たいえい)的手段によるのでは断じてない。
幸福とは、宗教的信条に係わりなく、絶え間なき日々の生活において、理性に適い宗教心より発する行ないを為す者すべてが手にすることが出来るものである。神の摂理を意識的に犯す者に必ず不幸が訪れる如く、正しき理性的判断は必ずや幸福をもたらす。そこには肉体に宿る人間と肉体を棄てた霊との区別はない。
no.1139 放浪者 (06/12/18 13:55)
もっと短く書けませんか
no.1140 記入なし (06/12/18 15:47)
>1140さん
読んでいるのですか?
no.1141 放浪者 (06/12/18 16:46)
祈り
ある人は、今、生きているときが総てであり、死ねばそれで終わりと言う。
ある人は、永遠の命の続きであり、死した後も続く命のため、今があると言う。
神は存在する者なのか。
存在するとしたらどのようなものなのか?
人の想像力を働かせても、考えも及ばないのではないか。
人は、勝手に神なるものを想像、其れによって自ら手械足枷をつけて、苦しみの中にあるのではないか。
神とは、考えも及ばないものだとは考えもせず、身近なものにすり替えているのではないか。
身勝手に生きてきて、神などあるものかと広言せし者も、切羽詰ったときに神に祈る。
「助けてください」
誰に祈っているのか・・・誰に助けを求めているのか・・・
知らぬが故の苦しみなのか・・・知った上での苦しみなのか・・・
求めての苦しみなのか・・・求めざるが苦しみなのか・・・
願わくは、神よ
我同胞にご加護を・・・・
知らぬが故の苦しみを与えたもうな・・・・
no.1142 放浪者 (06/12/19 21:46)
人生は地球なくなれば終わり
no.1143 記入なし (06/12/19 22:15)
1143さん
ちょっと混乱しているみたいですね
人生が終わったら、地球のあるなしは関係ないのですよ。
その人の地上人生は終わっても、その後に続く生の旅路は永遠に終わらないのですよ。
no.1144 放浪者 (06/12/19 22:27)
無限に存在する諸世界はみな、おのおの異なる振動数で機能しており、そのひとつがこの物質世界なのだと思う。
no.1145 吉村礼子 (06/12/20 00:43)
人類が絶滅することはないと考えます。
反対でして、人類も一連の流れの中で滅ぶでしょう しょうがない
no.1146 記入なし (06/12/20 02:28)
この世が地獄なんだよ。
no.1147 記入なし (06/12/20 02:29)
もともと無い方が自然かも
no.1148 記入なし (06/12/20 02:30)
破壊 誕生 無 ∞
no.1149 記入なし (06/12/20 02:32)
破壊神 役割が終われば消え去る
no.1150 記入なし (06/12/20 02:33)
今生きているのが苦しいから、こんな世界は終わればいい・・・
終末論が活発化しますね。しかし、この人の世界は終わらないと思いますよ。
自然災害などで、淘汰される人は出てくるでしょう。
地球も進化していますから、死んだ人はより進化した世界に生を受けて、人類の進化に貢献するのですよ。
人類の進化の過程で、傲慢や利己心が薄れてゆき、本来の目的の利他愛を出すことが出来るようになるのではないでしょうか。
no.1151 放浪者 (06/12/20 07:59)
さて、今日も一日戦いだ。色んな意味でね。
ハートを強く持ってないとやられるからな。
気合いれねーと。
no.1152 記入なし (06/12/20 08:45)
>1152さん
気合入れて、頑張ってください。
色々な意味での戦い中で、自身の向上に勤めてください。
自己の能力の限りにおいて正直に、そして真摯に、ひたすら義務を果たさんとして努力する時、その当然の報いとして生き甲斐と向上とが得られる。
敢えて向上を強調するのは、人間はともすれば向上の中にこそ霊は真の生き甲斐を見出すとの不変の真理を見失いがちだからである。
no.1153 放浪者 (06/12/20 10:26)
1139の続き
霊界にて落ち着くところの最初の境涯は、地上の行為のもたらす結果によりて定まるのである。
怠惰と不純の生活に浸りし霊は当然の成り行きとして、霊界にてそれ相応の境涯に落着き、積み重ねた悪癖からの浄化を目的とする試練の時期を迎えることになる。犯せる罪を悔恨と屈辱の中に償い、償うごとに浄化し、一歩また一歩と高き境涯へと向上していく。これが神の法を犯せる者に与えられる罰である。決して怒れる神が気まぐれに科する永遠の刑罰ではない。
意識的生活の中に犯せる違反が招来する不可避の悔恨と自責の念の懲罰である。これは懲らしめのムチと言えよう。が、それは復讐に燃える神が打ち下ろす恨みのムチではない。愛の神がわが子にその過ちを悟らせんとして用意せる因果律の働きなのである。
同様に、善行の報いは天国における永遠の休息などという感覚的安逸ではない。悔い改めの叫び、あるいは信仰の告白によりて安易に得られる退屈きわまる白日夢の如き無為の生活でもない。義務を果たせる満足感、向上せる喜び、さらに向上する可能性を得たとの確信、神と同胞への一層の愛の実感、自己への正直と公明正大を保持し得たとの自信。
こうした意識こそ善の報酬であり、それは努力した後に始めて味わえるものである。
休息の喜びは働かずしては味わえぬ如く、食事の味は空腹なる者にしか味わえぬ如く、一杯の水の有難さは渇ける者にしか味わえぬ如く、そして我が家を目の前にせる時の胸の昂まりは久しく家を離れし者にして始めて味わえる如く、善の報酬は生活に刻苦し、人生の埃りにまみれ、真理に飢え、愛に渇ける者にして始めて真の味を賞美できるものである。
no.1154 放浪者 (06/12/20 10:49)
三行ばかりの質問に対し、長大かつ親切な説明ありがとうございます。
シルバーバーチはきちんと読んだわけではありませんが、個人的な見解では霊の存在と死後の世界に期待しつつも一定の疑念がぬぐわれたわけではありません。
ですから霊のことは自分なりのとらえ方として「精神」と表現することにしています。
少し読んだ感想としてではありますが、シルバーバーチは健全な精神の持ち方を推奨していると捉えました。
正しい行いが正しい結果を生み出すという考えは人間世界を見ても実際そのようだと確信できる事柄もあり、そうであれば望ましいことだと考えています。
しかし一方で、精神を健全に保つことを阻害するものが僕の目にするところには存在します。
まったく非のない行動が不条理な結果を迎えることがあるように思えるのです。
極端な例を挙げますと、不条理な差別や犯罪被害、いじめ等を受けている人々が「人をあざ笑って優越感を覚えたり、不正な利益を得ながら罰を逃れる人々が罪の報いを受けるどころか、幸せそうに過ごしているのは、彼らが“うまい汁の吸い方”を心得ているからであり、自分が不幸なのは、その方法を知らないからだ。」と考えるのは的を射ているのではないかと考えられるのです。
また貧しい人も裕福な人をそういった目で見ることでしょう。
神が霊を進化させるために地上世界に送り込んでいるのなら、こうした不条理はどの様に説明出来るのでしょうか。
no.1155 ベッポ (06/12/20 20:27)
そして、こういった現実に目を向けたとき、神という存在があるとするならば、神は人間の精神をないがしろにする事柄にはいっさい介入せず、人間の愚かな所行を楽しんでいるのではないかとも考えられます。
例を挙げれば、ギリシャ神話的な神々ではないかと。
ギリシャ神話の神々は地上で人間達が争いあって流す血を求めています。(“神々は乾く”と表現するそうですが)
ところで失礼ながら、放浪者さんの考えに反する僕の持論を述べさせて下さい。
それは、神という存在はないという考えです。そして、人間は決して永遠な存在ではなく、一生を終えると肉体も精神も滅ぶと考えました。
こう考えるのは僕の想像が乏しいからかもしれないですが・・・・
しかし、そういった考えを持ちながらも尚、霊や霊界そして神の存在を願うのは、人間が死をおそれているからであろう、そして死によって人生が一転、不毛の存在になることを認めたくないからだと、想像できます。
しかし、そうであるからといって、霊や霊界、神の存在が空想の産物であるならば人々はその考えに賭けて行動することなど出来ないでしょう。
no.1156 ベッポ (06/12/20 20:28)
そこで、スピチュアリズム的な世界観は確かな裏付けが必要とされると考えます。
確かな裏付けが確立されたのならば、神が人の霊を現世に送り込み、その霊性を磨かせるという一大事業に賛同する人間が出てくるでしょう。
そうすれば、より多くの人間が現世で霊性を高めることが出来るはずです。
そこで、放浪者さんを初めとするスピチュアリズムの世界の博識な方々にご意見を伺いたいと思います。
霊界を発見した人物や神と対面した人物は我々と同じ人間という存在でありながら、いかにして霊や霊界、そして神についての事柄を述べることが出来たのでしょうか。
また、霊界や神の存在、そしてスピチュアリズムの世界に誰もが納得できるような説明が出来るのならば、是非教えて頂きたいと思います。
no.1157 ベッポ (06/12/20 20:29)
ベッポ さん
あなたのご指摘はもっともなご指摘と考えます。
少しお時間をいただきたく思います。
あなたを説得できるとも思っておりませんし、納得させられるとも思っておりません。
私自身の考える時間をいただきたい。
私以上の知識をお持ちの方がお答えするかもしれませんが、私は、私の考えを述べたいと考えております。
no.1158 放浪者 (06/12/20 20:47)
まず1155のレスについて考えたいと思います。
・・・不条理な差別や犯罪被害、いじめ等を受けている人々が「人をあざ笑って優越感を覚えたり、不正な利益を得ながら罰を逃れる人々が罪の報いを受けるどころか、幸せそうに過ごしているのは、彼らが“うまい汁の吸い方”を心得ているからであり、自分が不幸なのは、その方法を知らないからだ。」と考えるのは的を射ているのではないかと・・・
今の世の中を見るとまったくご指摘のとおりですね。いくら進化の過程にあるといっても、無用な苦しみが多すぎます。理性を働かせず、動物的本能が前面に出て、利己主義がまかり通っています。私自身その被害にあった者ですから、人事ではなく実体験として理解できます。上の人にどんなに訴えても、自己保身に汲々としているから動こうとしないのですよ。
今考えると、その時々の判断で状況が出来上がるのがよくわかります。
あの時妥協して、連中の言うことを聞いていれば、もっと楽な生き方をしているだろうな・・・と考えることがありますが、そのときはどうしようもなく抵抗していました。私の中の何かが「潔し」としなかったのですよ。
それは私が選んだことなのですよ。苦しみを選んだのですね。それが私の試練だったのですよ。このように考えると、誰しも選択肢はあったのです。楽な生き方を選択するか、それともあえて、厳しい環境を選択するかを。。。
今、公務員の汚職や勤務形態の問題が明るみになっていますが、あんなものは氷山の一角に過ぎないのだと思います。「わからなければ何をやってもいい」この考えが蔓延していますから・・・
ですから神の不条理ではなく、その人(霊)が選んだことなのですよ。厳しい環境を選ぶことによって、霊性を磨くことができるのですよ。
no.1159 放浪者 (06/12/21 11:14)
1156のレスについて
「神という存在はないという考えです。そして、人間は決して永遠な存在ではなく、一生を終えると肉体も精神も滅ぶと考えました。」
ベッポさんのお考えの通りだとすると、この世に生まれてきたことは味気ないことになるのではないでしょうか。どうせ「死」を迎えれば何もなくなるのだったら、今を楽しもう、やりたいことをやって満足した生を送ろうと考えても良いのではないでしょうか。
そうすると、この世の中はまったくの弱肉強食の世界になってしまいますね。そして、虐げられている人は、馬鹿らしくて生きているのが嫌になり「自殺」に走りますね。
そうすると、この世の中は成り立つことが出来るのでしょうか。
強いものだけの世界になるのですが、その強いものの中でもまた弱いものを作り出し、その弱いものが「自殺」に走る。そして、自滅する・・・
この生のときが、永遠の生の旅路のほんの一瞬だと考え、今出来ること、すべきことを考えて、来るべき新たな生活の準備をすることは決して無駄なことではないと思います。この地上生活における艱難辛苦は自身を磨く場と考えることは有意義なことだと考えます。
とかく「神」というものに責任転嫁を行いがちですね。苦しい人ほど、「神」を恨むのではないでしょうか。どのような人生を送るかは、その人(霊)の自由意志に任されているのですけどね。利己主義者のように楽しく生きている人は「神」というものを考えないと思いますよ。困らない限りは。にっちもさっちも行かなくなったときに初めて「神」に祈るのではないでしょうか。
no.1160 放浪者 (06/12/21 11:46)
1157のレスについて
「霊界を発見した人物や神と対面した人物は我々と同じ人間という存在でありながら、いかにして霊や霊界、そして神についての事柄を述べることが出来たのでしょうか。」
この文章は、ちょっと・・・
霊界を発見した人はいないと思いますよ。また、神と対面した人もいないと思いますよ。イエス・キリストをはじめ、多くの高い霊性を持った人物は、高級霊の降誕だったのですよ。それを、人間が「神」という存在と同一と考えたのですね。
「神」の使者(使徒)だったのですよ。
気球というものがありますね。
ガスを充満させて、空に浮かんで移動するものですが、気球が発明されるまで、そのようなことが出来るといったら、当時の人は狂人とみなすでしょうね。
今、携帯電話が普及して、当然のごとく使っているのですが、100年前の人に今の現状を説明しても、おそらく理解できないでしょうね。
そして、霊感の強い人が、幽霊が見える、声が聞こえる・・・といっても、霊感のない人には理解できないでしょうね。
これらは、知識の普及によって、時が解決するものではないでしょうか。
今現在、スピリチュアリストが多くなってきていますが、まだまだ、認知されるまでは時間を必要とするのではないでしょうか。あわてることはないと思います。知識の普及によって、色々な問題が解決されてきましたから、これからも時間をかけて、神様から授かった“理性”をよく働かせて、判断できるように知識を積み重ねるしかないと思いますよ。
no.1161 放浪者 (06/12/21 12:32)
霊訓より 参考までに
・・・・そなたらの宗教書より引用せる言説にどこまで信を置くべきかは、むろんそなた自身の理解力にもよるが、それと同時に、その引用せる書の正体と、その言説のもつ特殊な意味にもよる。
いかに古き書の中にも崇高なる神の概念を見出すことが可能である一方、その後に出たより新しき書の中にこの上なく冒瀆的で極めて人間的な不愉快千万なる概念を見出すことも出来る。
たとえば人間の姿をして人間と格闘する神、対立する都市への報復の計画を人間と相談する神、血の酒宴を催し敵の血を啜(すす)って満腹する残忍至極な怪物としての神、友人の家の入口に座し、仔ヤギの肉とパンを食する人間としての神、等々。
その説くところは完全に類を異にし、個々の話をいくら集めたとて、正しき理性を物差しとせる判断以上のものとはなり得ぬ。それ故に、無知ゆえに真相を捉え損ね、過ちへと迷い込むことのなきよう、そうした言説は奥に秘められた意味を理解することが肝要である。
啓示とは時代によりて種類を異にするのではなく、程度を異にするのみである。その言葉は所詮は人間的媒体を通して霊界より送り届けられるものであり、霊媒の質が純粋にして崇高であれば、それだけ彼を通して得られる言説は信頼性に富み、概念も崇高さを帯びることになる。
要するに霊媒の知識の水準が即ち啓示の水準ということになるわけである。故に、改めて述べるまでもあるまいが、初期の時代、たとえばユダヤ民族の記録に見られる時代においては、その知識の水準は極めて低く、特殊なる例外を除いては、その概念はおよそ崇高と言えるものではなかった。
no.1162 放浪者 (06/12/21 15:38)
考えすぎだね
no.1163 へたれ (06/12/21 15:53)
ムダだ。まったくのムダ。現実逃避でしかない。
no.1164 記入なし (06/12/21 17:48)
無駄。。。現実逃避。。。
私は、いたって現実的な考えでいるつもりです。
今生きていることは、大切なのですよ。仕事をして社会に貢献し、わが身、家族を養う。そのことをおろそかにして夢物語なことを言っているわけではありませんよ。
今の現実に目を閉じて、耳を塞いでいるのは、多くの利己主義者や傲慢で道徳心に乏しい人たちではないですか。知性は発達していますが、精神的、道徳的、そして霊的には未熟な人が多すぎるのではないでしょうか。
今の現実を見て「わからなかったら何をやってもいい」「見つかったら運が悪かっただけ」「もっとうまくやればいい」このように考える人が多いのではないでしょうか。
ちょっと理性を働かせれば、解ることだと思いますけど・・・
no.1165 放浪者 (06/12/22 09:25)
クリスマスが近いですね。
ちょっと、豆知識がてら話題提供
教会は主イエスの記念として、クリスマス、エピファニー、イースター、アセンション、ペンテコスト等を祝う。これらはイエスの生涯の節目であり、各々が霊的意義を秘めた出来ごとなのである。
クリスマス(キリスト降誕祭)――これは霊の地上界への生誕を祝う日であり、愛と自己否定を象徴する。尊き霊が肉体を仮の宿りとし、人類愛から己を犠牲にする。われわれにとってクリスマスは無私の祭日である。
エピファニー(救世主顕現祭)――これはその新しき光の地上への顕現を祝う祭日であり、われわれにとっては霊的啓発の祭日である。すなわち、地上に生まれ来るすべての霊を照らす真実の光明の輝きを意味する。光明を一人一人に持ち運び与えるのではなく、光明に目覚めた者がそれを求めて来るように、高揚するのである。
レント(受難節)――これはわれわれにとっては真理と闇との闘いを象徴する。敵対する邪霊集団との格闘である。毎年訪れるこの時節は絶え間なく発生する闘争の前兆を象徴する。葛藤のための精進潔斎の日であり、悪との闘いのための精進日であり、地上的勢力を克服するための精進日である。
グッドフライデー(聖金曜日)――これはわれわれにとっては闘争の終焉、そうした地上的葛藤の末に訪れる目的成就、すなわち“死”を象徴する。但し新たな生へ向けての死である。それは自己否定の勝利の祭日である。キリストの生涯の認識と達成の祝日である。われわれにとっては精進潔斎の日ではなく愛の勝利を祝う日である。
イースター(復活祭)――これは復活を祝う日であるが、われわれにとっては完成された生命、蘇れる生命、神の栄光を授けられた生命を象徴する。己に打ち克てる霊、そしてまた打ち克つベき霊の祝いであり、物的束縛から解き放たれた蘇れる生命の祭りである。
ペンテコステ(聖霊降臨祭)――キリスト教ではこれも霊の洗礼と結びつけているが、われわれにとっては実に重大な意義をもつ日である。それはキリストの生涯の真の意味を認識した者へ霊的真理がふんだんに注がれることを象徴しており、グッドフライデーの成就を祝う日である。人間がその愚かさから、自分に受け入れられぬ真理を抹殺し、一方その踏みにじられた真理をよく受け入れた者が高き霊界にて祝福を授かる。霊の奔流を祝う日であり、神の恩寵の拡大を祝う日であり、真理の一層の豊かさを祝う日である。
アセンション(昇天祭)――これは地上生活の完成を祝う日であり、霊の故郷への帰還を祝う日であり、物質との最終的訣別を祝う日である。クリスマスをもって始まる人生がこれをもって終焉を告げる。生命の終焉ではなく、地上生活の終焉である。存在の終焉ではなく、人類への愛と自己否定によって聖化されたささやかな生涯の終焉である。使命の完遂の祭りである。
no.1166 放浪者 (06/12/22 09:47)
宇宙についてもっと考えよう
no.1167 記入なし (06/12/22 13:18)
人間と他の生命は別というのがどうもいまいち。。。。。
no.1168 記入なし (06/12/22 13:19)
放浪者さんいつも博学なあの世の知識で盛り上げてくれてどうもありがとうございます。
ここのスレッドは1000回を超えると見にくくなりますね。
no.1169 太郎 (06/12/22 13:25)
太郎さん
いつもお世話になっております。
勝手に多くのことを書き込んでいますが、太郎さんとの考え方と大きな違いはないと私は考えております。
霊的知識の紹介と整理、そして、逝く準備(誰でも「死」というものは早かれ、遅かれ迎えるものですから)のためですので、ご容赦願います。
no.1170 放浪者 (06/12/22 15:30)
金持ちは悪?
no.1171 記入なし (06/12/22 15:44)
「シルバーバーチの霊言」より紹介させていただきます。
・・・・宇宙は、変えようにも変えられない絶対的な自然法則によって支配されております。その中でも原因と結果の法則(因果律)が基本となっております。
つまり結果にはそれ相当の原因があり、原因のない結果というものは有り得ない――言いかえれば、原因はそれに先立つ原因の結果であり、その結果が原因となって新たな結果を生んでいくということです。
このように、各自の運命は自然法則によって決められていくのです。その法則の働きは当人の魂に刻み込まれた霊的成長度に反応します。あなたは今あるがままのあなたです。こうありたいと装ってみてもダメです。地上生活中に行ったことが、すべて、真の自我に刻み込まれています。その行為の価値が魂を豊かにもし、貧しくもします。あなたみずから行ったことが、そういう結果を生んでいくのです。
死によって物的身体から離れると、魂はそれまでに到達した進化の程度をスタートラインとして、新しい生活に入ります。それより高くもなっていませんし、それより低くもなっていません。自然の摂理があらゆる要素を認知しているからです。公正が行きわたるように摂理が自動的に働くのです。
罰せられるのも報われるのも、すべてあなたの行為一つ一つが生み出す結果の表れです。自分の行為によって成長する場合と、成長を阻害される場合とがあるということです。・・・・
no.1172 放浪者 (06/12/22 15:53)
>1171さん
どのような意味でのお金持ちでしょうか?
お金持ちということだけでは、悪でもなんでもないと思いますよ。
親の遺産を受け継いでのお金持ちなのか、自身の才能で稼いだ結果のお金持ちなのか。
自分で稼いだ人は、そのお金の使い方も知っているのではないでしょうか。
問題は、親の遺産を労なくして受け継いだ人の使い方ではないでしょうか。
その遺産を作るための資金をどのようにして調達したかは、受け継いだ人は知らないのですから・・・・
no.1173 放浪者 (06/12/22 16:31)
>1168さん
「人間と他の生命は別というのがどうもいまいち。」
人と他の生物とのことでいまいち理解に苦しんでおられるのですね。
私も、はっきり言って解らない事が多いのですよ。
私も、昔は他の生物との生まれ変わりなどを考えていました(憎い奴らなどはゴキブリにでも生まれ変われってね)。
今はペットブームですから、ご自分がかわいがったペットは大事に考える人が増えていますね。
人に愛されたペットは死んだ後もしばらくは一緒にいられるみたいですよ。ペットが先に死ぬことが多いと思いますが、霊界で待っているみたいですよ。私などは、天涯孤独みたいなものですから、死んだら、昔かわいがっていた犬が迎えに来てくれるのではないかなと考えているのですが・・・・
犬とか猫などの哺乳類は、類魂と言って、その種別に集められるみたいです。
人に愛されたペットは、その愛情に比例してその飼い主の所にいられるみたいですよ。そして、霊界でその愛情が薄れるにしたがって、ペットの存在理由がなくなり、種別の類魂に吸収されるみたいです(この感情の変化は普通のことらしいですよ)。
と、考えると、人間の責任の重さを自覚しない飼い主が如何に多いかがわかると思いませんか?地球の他の生態系の管理者である人類が、調和を乱し、他の種を絶滅に追い込んでいるこの実態を考えれば・・・・
ある霊界通信では、類魂自体進化しているとのことですが、愛された動物もいる反対に、虐待された動物も多いのですから・・・
詳しいことがお知りになりたい方は、「シルバーバーチの霊訓」等のスピリチュアリズム関係の本をお読みください。
no.1174 放浪者 (06/12/22 18:53)
もっと科学的に誰にでも分かる物理法則に従った説明をしているものは無いのでしょうか?
no.1175 記入なし (06/12/22 19:07)
>1175さん
1161参照
今の科学で証明されないからといって、総て否定するのはいかがなものでしょうか。
まだ解明されていない法則も沢山あるのではないですか。
今は信じられない気持ちはわかります。が、否定できるものでもないのだったら、一時保留されればいかがでしょうか。
信じる、信じない、受け入れられる、拒否する・・・・
それは受け取る人の自由ですよ。
強制はしませんし、する根拠もないですから。。。
no.1176 放浪者 (06/12/22 19:16)
僕が、死後の世界が存在しないと考えるのも根拠が無いわけではありません。
おそらく、脳の働きが精神活動を生み出しているという考えが最も受け入れられている考えです。
スピチュアリズムの支持者は脳が精神を生み出しているという考えに否定的であるか、脳の働きは霊の活動によって生じていると考えるのでしょう。
脳の損傷が精神を変えてしまった事例を紹介しましょう。
昔、脳の前頭葉に電流を流して破壊するロボトミー手術という手術がありました。
この方法でうつ病や統合失調症という精神病の症状が消えたからです。
しかし、手術を受けた人は次のような精神の変化を受けました。
「楽天的で空虚な爽快感をいだくようになり(だからうつ病に効くとされた)、多弁で下らないことをいう。また、生活態度に節度がなくなり、反社会的犯罪行為を示す者もいたという。さらに意欲が乏しくなり、外界のできごとに対して無関心、無頓着になる。」
スピチュアリズムの支持者なら、永遠の存在である霊が損傷を受けるとは考えないでしょう。(こんなことで霊が損傷されれば死は霊の消滅の原因になります。)
たとえ霊の存在を認めるとしても、霊は脳が損傷を受けていない状態に限って、正常な精神をつくると言えます。
ましてや、全ての脳細胞が損傷された死後は精神が存在しないことは明白だと思うのです。
no.1177 ベッポ (06/12/22 21:09)
>ペッポさん
科学的なご指摘ありがとうございます。
私の考えを述べさせていただきます。
まず第一に考えることは、霊が主であって、肉体は副だということです。人の活動は肉体で表現されますが、それは活動自体であって、思考は霊がしているのですね。
脳の細胞は、ニューロンとシナップスが数兆個集合して、神経経路を形成しています。しかし、物質である限りその機能の発揮には限界があるわけです。霊の機能をその脳で総て発揮しているわけではないのですよ。霊の一部だけが顕現されているわけですね。
そのほかの機能は休眠状態であるわけです。それが潜在能力と言われるものなのですね。
ご指摘の脳損傷における神経の発現様式の異常ですが、それは肉体だけの異常であって、霊自体の異常ではないのですよ。それはひとつの試練になるわけですね。霊自体の試練になるわけです。肉体という道具が悪ければ、性能を発揮できないだけなのですよ。
霊は肉体をまとって誕生すると、それまでの記憶が忘れられていますから、非常に苦しむわけです。本人のみならず親兄弟も苦しむわけですね。それが課せられた試練になるわけです(罪障消滅の試練)。
簡単に言えば、車が肉体で、運転する人は霊と考えてもらっても良いかもしれません。別に車の性能が悪いからといって、運転者が悪いわけではありませんから。悪いところを治せば、普通に走ることが出来るのですから(ちょっと例えが悪いかもしれませんが・・・)。ロボトミー手術で精神障害が出るのは、神経の連絡がうまくいっていないから混乱してしまうのです。
脳死の状態では、肉体の「死」と考えることが出来ます。そのような肉体には霊はとどまってはいません。
ついでに、霊の存在状態を考えたいと思います。
霊と肉体は別のものなのですが、霊と肉体の中間に位置する物質があるみたいです。それをダブル(ペリスピリット)と呼んでいるのですが、そのダブルが霊の服に相当するもので、そのダブルと肉体をシルバーコード(へその緒みたいなものと理解しています)でつないでいるのですね。それが切れると肉体に「死」であり、肉体が死んでいるようでも、生き返ることがあるのはそのシルバーコードが切れていないからですね。
ちょっと、だらだらとなりましたがご容赦を・・・
no.1178 放浪者 (06/12/22 22:29)
スピチュアリズムのバックグラウンドにそういった考えがあるとは初めて知りました。
しかし、おそらくそういった事柄に科学のメスが入ったことは無いと思われます。
そこで聞きたい。
放浪者さんがスピチュアリズムを支持するのは、霊感をお持ちであるからでしょうか?
もし、スピチュアリズムの本に書かれていることを信じているだけだというのなら、以上の説明は単なるあてずっぽうの推測と解釈されても仕方がないと思われます。
no.1179 ベッポ (06/12/22 23:03)
>ペッポさん
私は、霊的な経験はあります。
そして、私は20年ばかり白衣を着ていました。
no.1180 放浪者 (06/12/22 23:07)
この世のことは この世の人間が解決しようと決意しなければ 解決されない
この世のことに あの世で帳尻が合うという考え方は この世の罪悪を止める力にはならない
no.1181 ぺけぽむ (06/12/23 01:36)
霊界サイトらしい
no.1182 記入なし (06/12/23 07:57)
この世は地獄ですか
no.1183 記入なし (06/12/23 07:58)
>1181さん
一行目はそのとおりだと思います。
二行目は、ちょっと考えさせられますね。
「この世のことに あの世で帳尻が合うという考え方は この世の罪悪を止める力にはならない 」
知識の普及によって、この世の責任は総て償わなければならない。この世であろうとも、あの世に行ってからでも・・・科学技術の世界でも、日進月歩の進化を遂げているのではないでしょうか。10年20年前の知識が否定され、新たな理論が打ち立てられております。
このような新しい考えが定着することによって、この地上世界での犯罪は減って来るかもしれないのではないでしょうか。あの世の世界は、理解できない、解らないから、どのような罰を受けるかわからないから、何をやっても良いというようには考えるのはいかがなものでしょうか。
今の世の中は「わからなければ、何をやってもいい」「要領かまして、他人に罪をかぶせ、ニンマリ」している輩がどれだけ多いことか。
ちょっと考えて見られてはいかがですか。
ただこのような意見交換の場で、「あるなし論」や「病気だから病院に行け」と言わないだけましと思われます。
また、「無法者の横車」的なことを言ってくる輩も減ったみたいですから・・・
no.1184 放浪者 (06/12/23 08:37)
おそらく、その霊的な経験がよほどリアルな感覚であったのでしょう。
微塵の疑いもなく確信しておられるようなので、説得は無理だと確信しました。
科学哲学者カール・ポパーが科学の基本条件として挙げた「反証可能性」という考えがあります。
これを百科事典サイト「ウィキペディア」の疑似科学の項目から引用します。
次のURLがその項目。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%96%91%E4%BC%BC%E7%A7%91%E5%AD%A6ー科学理論では、もしそれが間違っているならば、そのことを示す証拠が見つかる筈である。科学は、「仮説−実証」の両輪で進められる。すなわち、「反証」事実がでてくれば、元の理論を修正するのが科学の営為であり、「反証できること」がいかに科学にとって大事であるかをポパーの言葉は示している。これに反して、疑似科学は反証ができない、もしくはできない構造にしている。ー
スピチュアリズムは紛れもない疑似科学です。
誰にもスピチュアリズムを完全に打ち砕く事は出来ないでしょう。
それで次回を最後の説得発言にしたいとおもいます。
no.1185 ベッポ (06/12/23 10:26)
いったい誰が、不確かだと認められる事柄について、微少の疑念もおぼえずに信じることができるのだろうか。
そういった考えの持ち主は僕だけとは限らないでしょう。もしかしたら、スピチュアリズムの支持者ですらそう思っているのではないかと思えるのです。
僕のような人間は死の直前などの危機的な事態に陥った時、疑惑の目が向けられた希望より確実なものを認めて行動するでしょう。
死の間際などの危機的な状況で死後の世界や神への疑念がわき上がって来るという事態は恐るべき事態です。
もしそんなことになれば、生き方を誤ったと後悔するでしょう。
人生が一度きりだと思っている人間は、死の床で自分の人生が幸せであったと思いたいのです。
スピチュアリズムを支持することで死が希望に輝く存在になることは考えられません。
no.1186 ベッポ (06/12/23 10:28)
>ペッポさん
あなたの心遣いには感謝しております。
単なる有り無し論ではなく、非難、揶揄、中傷でもなく、段階を踏んでの理論展開。
豊富な知識の披露。
私も死の床についた時には満足して逝きたいと思っております。あなたとは感じ方が異なるとは思いますが。
人はその生まれた時代、地域、生活環境、知識レベル等に影響されます。そして、その時々の判断しか出来ないのですよ。私自体そうですから、私は知識の紹介をしているのですよ。「このような考え方もありますよ・・・」ってね。
ただそれだけです。。。
短い間でしたが、ご指導ありがとうございました。
no.1187 放浪者 (06/12/23 11:53)
どちらも 偉い 大したもんだ
no.1188 記入なし (06/12/23 13:16)
が・・この世しか無いと考える人は可愛そうでならぬ
あの世へ帰った時 おおいに 恥をかくよ
目に見える世界しか、 科学的に実証されるものしか信ずることが出来ない人よ
万物の霊長たる資格はないよ 信じようとする心があるから人間は尊い
大槻教授 と言うのがおったが 彼が唯物主義の最たるひとだ
あんなのにかかると、例え科学的に実証されたり、
目の前に現象としていくら示しても、まやかしだとかトリックだ、催眠術だ
とか言って否定するだろうよ あれは帰ってから大恥かくぞ
no.1189 記入なし (06/12/23 14:26)
ベッポさんと私の意見交換をお読みの方はご理解してもらえると思いますが、ペッポさんも私も今を一生懸命生きているのですよ。
傲慢さや利己心を極力抑えて、利他愛を出来るだけ出すように生きて生きたいのですよ。
霊界の存在を信じる、信じないは別にして、満足して「死」を迎えられるように生きているのです。そこの所を読み取っていただければ幸いです。。。
ちょっと紹介です。
蒔いたタネが実りをもたらすのです。タネは正直です。
トマトのタネを蒔いてレタスができることはありません。蒔かれた原因(たね)は、大自然の摂理に正直にしたがって、それ相当の結果(みのり)をもたらします。自然界について言えることは、そのまま人間界にも当てはまります。
利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の報いを刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の報いを刈り取らねばなりません。寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、悲寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよいように変えることはできません。
霊的成長は、思いやりの心、寛容の精神、同情心、愛、無私の行為、そして仕事を立派に仕上げることを通して得られます。言いかえれば、内部の神性が日常生活において発現されてはじめて成長するのです。邪(よこしま)な心、憎しみ、復しゅう心、悪意、利己心といったものを抱いているようでは、自分自身がその犠牲となり、歪(ゆが)んだ、ひねくれた性格という形となって代償を支払わされます。
no.1190 放浪者 (06/12/23 19:45)
>1183さん
この世は地獄ではありませんよ。地獄はその人の心が作り出すものなのです。
この世は学校と考えられたほうがよいと思います。
色々なことを学ぶための学校なのですよ。悲しみ、苦しみ、楽しみ、喜び・・・これらはお互いを感じることによって解るわけですね。
楽しいことだけだと、楽しいことが解らなくなります。反対に苦しみだけだと、苦しみ事態がわからなくなります。健康にしても病気にしても同じなのです。お互いを感じることによって、理解できるようになるのですね。
ちょっと紹介
物質界の人間は肉体に宿った魂です。
各自の魂は進化のいずれかの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。
もしもその霊にとって、次の発達段階にそなえる上での浄化の過程として、その肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通していかなる治癒エネルギーが働きかけても、絶対に治りません。いかなる治療家にも治すことはできないということです。
苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部として組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた、わたしがいつも述べていることに戻ってきました。日向と日陰、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は宇宙の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません。
no.1191 放浪者 (06/12/24 10:40)
1191の補足
わたしは、知識を論拠として生まれる信仰はけっして非難しません。わたしが非難するのは、何の根拠もないのに信じてしまう、浅はかな信仰心です。人間は知識のすべてを手にすることができない以上、どうしてもある程度の信仰心で補わざるを得ません。
といって、その結果、同情心も哀れみも優しさも敬遠して、“ああ、これも自然の摂理なのだ。仕方ない”などと言うようになっていただいては困ります。それは間違いです。あくまでも人間としての最善を尽すべきです。そう努力する中において、本来の霊的責務を果たしていることになるのです。
no.1192 放浪者 (06/12/24 11:06)
>1183さん
くどいようですが、ちょっとご紹介させていただきます。
地上での人生体験の中には、生命の実在に直面させられる酷しい体験というものが、いくつかあるものです。神と真実の自我を内と外に求め、宇宙の存在の意図を探り、それがあくまでも謎のままなのか、それとも、れっきとした計画があるのかを知りたくて、なぜそうなのか、なぜこうなのか、なぜ、なぜ、なぜと問い続けます。
そのいくつかは解決できても、どうしても分からないものもあります。が、そうして“問う”という事実そのものが、あなたの魂が自覚をもちはじめている証拠なのです。
地上世界は、そうやって魂が勉強する場所なのです。失敗もし、そして願わくば、それから何かを学んでいくのです。犯した間違いを正し、教訓を学び、より立派な行為を心がけ、二度と失敗しないようになっていくのです。そのうち、ある段階まで成長しますと、大切なのは目的の成就そのものよりも、その成就に向けて努力していく過程での体験によって、性格がどう形成されていくかであることに気づくようになります。
過酷な体験の末に目からウロコが落ち、真実の価値の評価ができるようになり、最後は、物的なものにはそれなりの価値はあっても、絶対的価値のあるものではないことを悟ります。暗く辛い人生の体験によって魂がそうした悟りの末に真実の自我に目覚め、神とのつながりを強めることになれば、その体験は大いなる価値があったことになります。
これから訪れる未来のある時点で過去を振り返ってごらんになれば、辛く苦しくはあっても、霊的理解力の開発の節目となっていた体験を、有り難く感謝するようになることでしょう
no.1193 放浪者 (06/12/24 14:39)
聖者の言葉を信用してはいけない
人は汚れずには生きていけない
悪者の生き方を笑ってはいけない
人は綺麗事だけでは生きていけない
no.1194 記入なし (06/12/24 14:40)
まったくそのとおりだと思います。。。
no.1195 放浪者 (06/12/24 15:05)
“恐れ”というのは、人間の本能的要素の一つです。
人間は二面性をもつ存在であり、動物時代の名残と、本来の資質である霊性の二つの要素を、地上生活の中で発揮しております。そして、より高く進化していく上で不可欠の“自由意志”を授かっております。それが内部の神性が発揮されていく必須の条件だからです。
このように人間は、その進化の道程において、持てる資質を利己的な目的に使用するか利他的な目的に使用するかの二者択一を、永遠に迫られることになります。これまでにたどってきた進化の道程において植えつけられた肉体的要素に負けてしまえば、生命の根源そのものである霊性の優位を否定していることになります。
参考までに・・・
no.1196 放浪者 (06/12/24 15:24)
この世のことは この世の人間が解決しようと決意しなければ 解決されない
この世のことに あの世で帳尻が合うという考え方は この世の罪悪を止める力にはならない
一行目を受け入れるなら 二行目は論理的に必ず真になる。
この世のことはこの世の人間が決意するときにだけ解決するということを 真と仮定するなら
この世のことの解決にあの世のことは 関与しないはずだからである。
その意味で 放浪者氏は 単純な論理的過誤を犯している。
貴方の錯誤は 私の議論の技術による姦策の結果ではない 放浪者氏自身の浅はかさによるものである。
2行目の題意に同意できないのであれば 1行目に反論しなければならない。
さて 氏は 反論されるのだろうか。
ちなみに私の思考では
現世の悪行の報いを死後に求める発想では 決して よろしいか 決して 人間は善に向かうことはない。
死後に起こる報いは 神義論を癒すことはあっても 現世において苦しむ端的な弱者の苦しみを前提にしている以上は 悲しい現実の 単なる 正当化論でしかない。
no.1197 ぺけぽむ (06/12/24 19:52)
>ぺけぼむさん
しっかりと読ませていただきました。
しっかりと考える時間をいただきたい。
no.1198 放浪者 (06/12/24 20:30)
まず、立場をはっきりとさせたいと思います。
私は、今生きているということは、肉体の「死」の後も意識体として生き続ける、という考えでいます。知能の高い方は得てして唯物主義の傾向があるわけですが、ぺけぽむ 氏の「放浪者氏自身の浅はかさによるものである。」の表現に出ているものと考えます。
さて、「この世のことは この世の人間が解決しようと決意しなければ 解決されない」についてですが、この世に生きている限り、当然のご指摘なのではないでしょうか。歴史を見ても、試行錯誤を繰り返してきて、人類は進化してきたのです。今の世の中も、あらゆる事柄において、失敗を繰り返して、その中から教訓を学びながらよりよきものを作り出してきたのではないでしょうか。そのような意味で、一行目は納得出来るのですよ。
「この世のことに あの世で帳尻が合うという考え方は この世の罪悪を止める力にはならない 」ですが
知識として、自分の行いは自分で償わなければならない。この考えが定着することによって、犯罪の抑止力になると考えます。人は「善」と「悪」を持ち合わせているものです。どちらを表に出すかで変わってくるのですよ。常に葛藤しているのですよ。多くの人が「悪」に流される中で、必死で抵抗している人もいるのです。
「現世において苦しむ端的な弱者の苦しみを前提にしている以上は 悲しい現実の 単なる 正当化論でしかない。」
私は、決して正当化している積りはありませんよ。苦しみも必要なのですよ。ただし、無用な苦しみが多すぎるのです。
私は、そこらへんにある「宗教」なるものを説いているのではないですから。
no.1199 放浪者 (06/12/25 08:29)