自らの意見と異なる考え方をする人間と対話してこそ考え方は広がる
相手の考え方に同化するのは変化でも広がりでもないし といって対立していても広がるわけではない
けれども同じような考えの人間とだけ付き合っていても
まず広がりなしない
だからこそ 先代の教皇は他宗教と語らおうとしたのだろう
彼は別に改宗しようとかさせようなんておもっていなかったはず
no.2500 ぺけぽむ (07/03/01 15:39)
>2491 蚤の脳ミソさん
no.2454にて私の書いた「想念帯(アカシックレコ−ド)」は間違っていました。
()内は抹消です。
「想念帯」はあなたのいわれる「流動体」のことで
「アカシックレコ−ド」と混同して覚えておりました。
あとは表現こそ違うが、あなたのお説通りです。
no.2501 記入なし (07/03/01 19:29)
私も、昔、働いているときは夢中で読み漁った論文ですが、ちょっと紹介させてもらいます。「ミトコンドリア イブ」に関しての論文の解説です。
ガイア・アセンションより引用させてもらいます。
近年の分子生物学の発展を背景に、人類の起源論争に衝撃的な一石が投じられました。
カリフォルニア大学バークレー校のレベッカ・キャンたちによる「ミトコンドリアDNAに見る現代人の進化」という論文(ネイチャー誌、1987.1.1号)です。
細胞の核内でなく核の外の細胞質にあるミトコンドリアのDNAは、進化の研究をするのに便利ないくつかの特徴を持っています。核のDNAに比べて塩基の置き換わり(突然変異)が起こる速度が5〜10倍速い、母性遺伝で母親のものだけが子に伝わる、そして一つの細胞に千個以上もあるので組織から大量に収集することができるなどです。
キャンたちは、世界のさまざまな「人種」に属する百数十人のヒトの胎盤を集め、抽出したミトコンドリアDNAを分析して、塩基の置き換わりの程度を比較しました。するとアフリカ人でこの値が最も大きいことがわかりました。
さらに、塩基の置き換わりの少ないものから順につないでいった分子系統樹をもとに、現代人のルーツはアフリカにあると考えました。そして、この置き換わりが起きる率(いわば「進化」の速度)から現代女性の祖先は15〜29万年前にアフリカに生きていたあるグループの女性だと結論づけました。
この論文は、その内容に加えて、「ミトコンドリア・イブ」というロマンティックなニックネームとともに、学会を超えて大変有名になりました。
早速「アダム探し」の研究も行われ、アリゾナ大学のM.F.ハマーが、男性だけが持つY染色体に乗っている遺伝子の解析によって、「アダム」は約19万年前にアフリカにいた、と発表しました(1995年)。その後、ペンシルベニア州立大学の研究グループによる更に大規模な遺伝子解析(アフリカ18地域とアフリカ以外45地域の男女計1700人について3種類のDNAを対象)などでも、ほぼ同様の結論を示しており、人類のアフリカ起源説(単一起源説)はほとんどゆるぎないものになったといえるでしょう。
これらの研究の副産物として、約100万年前にアジアにいたジャワ原人や北京原人、10万年前頃からヨーロッパにいたネアンデルタール人などは、現在の人類とのつながりがなく、この間に絶滅したことがほとんど確証されました。
またいずれの研究も、現代人をサルに結びつけるものではありません。単に人類の出発点を示しているだけです。サルなど類人猿については、別に同様の系統類縁関係の研究があります。
このような状況においても、人類の起源を問われると、ほとんどの学者は「サルとの共通の祖先から分化して以来、現在まで進化してきた」と答えるでしょう(サルは進化しなかったのか?)。
何しろ過去140年間(1859年ダーウィンの『自然淘汰による種の起源』出版)そのように思い込み「理屈」を積み上げてきたのだし、それ以外の説明は思いつかないから。
しかし100万年の間にほとんど変化しなかった「ホモ・エレクトゥス(直立原人)」とは全く異なる、現代人の突然の出現を説明することはできず、「ミッシング・リンク(失われたつながり)」などという造語でごまかすしかないのです。
一方、多少でも良識がある学者は、「アダムとイブ(原初のアフリカ人)が、その時そこにいたことは確かだが、どこから来たかはわからない」と答えるでしょう。
no.2502 蚤の脳ミソ (07/03/01 19:37)
2502さん 興味深い話ですね。私も「太陽の法」から少し紹介します。
・・・人類四億年の歴史をすべて述べてもあまり意味がないでしょう。そこで
実在界にあるア−カ−シャ−の記録をひもといて四億年の歴史のなかの
近々、わずかここ百万年ぐらいの記録から、過去の文明の推移を詳述します。
人類はいまからおよそ一万年前のアトランティス大陸沈没の際に、
旧文明が滅んでいくのを目の当たりにしました。・・・ 中略・・・
アトランティス大陸の文明は
主として「理性」を中心にした文明で九次元宇宙界でも、マイトレ−ヤ−如来と
ク−トフ−ミ−(後のアルキメデスであり、ニュ−トン)の活躍がめだっておりました。
さらに今から一万五千年以上の昔には、太平洋にム−大陸があって、これまた、
独特の文明をつくっておりました。ム−文明とはひとことでいうと、光エネルギ−の
文明でした。各個人がどうやったら自分の光パワ−を増幅できるかについて、
主として学習することが修行でした。さらにそこからさかのぼり
今から三万七千年以上前にはインド洋上にラムディア大陸が浮かんでおりました。
この時代の人類は「感性」が中心でした。
ム−の時代には、エルカンタ−レ(後の釈迦)の力がずいぶん影響していましたが、
ラムディアの時代、力をふるっていたのは、マヌとゼウスでした。
彼らが中心となって、感性の文明をつくりあげていたようです。
この時代には、人間は感性を磨くことが修行であり、最高度の修行を積んだ人は
三千種類の色と、二千五百種類のにおいを区別することが出来ました。
ラムディア文明のさらに前には、今から十五万三千年前に消えたミュ−トラム大陸に
栄えたミュ−トラム文明です。
この頃は地球の地軸が、現在の位置とはかなり違い、現在の南極大陸の部分が温帯
だったのですが、その南極大陸を多少変形したような大陸、それがミュ−トラム大陸でした。
この大陸はム−やアトランティス大陸のように海中に没して消えた訳ではありません。
十五万年前の地軸の変動で気候温暖だったミュ−トラムが寒帯となったのです。
そのため、地上に住む人類と生物のほとんどが死滅してしまったのです。
これが今でも伝説として残っている氷河時代です。
ですから南極大陸の氷の中にはこの時代の文明の遺産がたくさん残っております。
この前はガーナ大陸といって今から七十三万五千年前、
現在のアフリカ大陸と南米大陸がくっついており、巨大大陸を形成しておりました。
ガ−ナ文明は「超能力」を中心とした文明でした。・・・中略
人々は第三の目を持ちいわゆるサイキックパワ−、念力、予知能力が中心であったが
この時代の真理には残念ながら「心」というものは無かったようです。・・中略
ヨガなどでいわれる眉間の部分にあるチャクラが第三の目の痕跡です。以下略
no.2503 k-2 (07/03/01 22:00)
>k-2さん
アトランティスはともかく、
ムー大陸は空想の産物ですよ・・・
no.2504 下っ端公務員 (07/03/01 22:05)
>下っ端氏 こんばんは^^
それはあなたが学んだことでしょう?
私も見てきたわけじゃない、太陽の法 の中の記述の紹介ですよ。単なる・・・
no.2505 k-2 (07/03/01 22:12)
>k-2さん
つまり、フィクションを書いただけですか?
no.2506 下っ端公務員 (07/03/01 22:13)
このサイトに9次元の人は降臨しないのかな〜。
no.2507 記入なし (07/03/01 22:14)
こんなとこに 来るわけないじゃん
no.2508 記入なし (07/03/01 22:15)
>下っ端氏 本日のレス、最初からよく読んで下され
フィクションでは無い と思うのだが。
何か蚤の脳ミソ氏の言われるのと符合するところが有るように思える。
no.2509 k-2 (07/03/01 22:21)
>下っ端氏 あなたその時代 どっかの島にいて 全世界を見ていたの?
no.2511 k-2 (07/03/01 22:35)
>k-2さん
そんな人間は居ません。
作者自体も、全世界を見ていませんから(笑)
no.2512 下っ端公務員 (07/03/01 22:37)
とにかくね 私らは推測の域を出ない嘘の人類史を
学校で学んできたんだよ。
しかし これからは違う。チップだのメモリ−だのMDだの
もっと良質な記憶テゥ−ルも開発されるだろうから後世に
永遠に残るだろう。
no.2513 k-2 (07/03/01 22:42)
>k-2さん
それはどうかね?
中東戦争の真実が後世に残るとは思えないが・・・
九次元もメモリーには残らないだろ(笑)
no.2514 下っ端公務員 (07/03/01 22:51)
>下っ端氏
それもどうかね〜 誰かが残すんじゃないかな
愚かな人間どもの行為とか言って映像と共に・・・
とにかく本日は疲れたので もう退散しますわ。
ほな さいなら^^
no.2515 k-2 (07/03/01 22:57)
創始者は、金銭何一つ要求しなかったが(そうでもないのかな?)、そのお弟子さんらしい方々は、当然の如く金銭要求しているのが、当たり前の現状ですが、それが何か?
no.2516 記入なし (07/03/02 01:00)
峠の茶屋 苦瓜の実はいかが
no.2520 記入なし (07/03/02 11:53)
no.2518 生きがいの夜明け ちらっと読んだが 本物だ!
no.2521 記入なし (07/03/02 13:43)
あのよ〜あの世はあるのかい?
no.2522 生きる屍 (07/03/02 14:27)
このよでかんがえなさいよ
no.2523 記入なし (07/03/02 19:10)
1967年以来、世界で4万件以上の心臓移植が行われた。アメリカ・マサチューセッツ州ボストン郊外に暮らすクレア・シルヴィアさん(62歳)は、15年前の1988年、原発性肺高血圧症という病に冒され、心臓移植の手術を受けた。心臓を提供したドナーについての情報は極秘扱い。新しい心臓は誰のものなのか、クレアさんは全く知らない。手術は無事成功し、クレアさんの体の中で新たな心臓が働き始めた。
だがその後、彼女の身に次々と不可解な現象が起こり始めた。それまで全く口にしなかったビールが飲みたくなり、大嫌いだったピーマンとフライドチキンを頻繁に食べるようになった。性格にも変化が現れた。まるで若い男性のように肩で風を切り、ブロンドで背の低い女性に興味をもつようになった。そしてある晩、クレアさんは不思議な夢を見る。広大な野原に若い男性が現れ、「僕の名前はティムだ」と告げられたのだ。
その後、クレアさんはこの不思議な出来事の謎を解明しようと、自ら調査を始め驚愕の真実に触れる。クレアさんに心臓を提供したドナーの名は、18歳で脳死状態となった少年ティム。彼の好物はビールとピーマンとフライドチキンだったのだ。
神経心理学者でハワイ大学教授ポール・ピアソール氏によると、クレアさんのようなケースは決して珍しくないという。更にワシントン大学のキャンディス・パート教授は、心臓から分泌される神経伝達物質によって、性格や嗜好が変ることも有り得ると考えている。
このクレアさんの不可思議な体験を、生命科学はどこまで解き明かせるのか?
このことについて、太郎さん、蚤の脳ミソさん、O脳者さん,k-2さんはどう思うか?
no.2524 記入なし (07/03/03 08:48)
No.2524さん これは恨みによる完全な憑依現象と確信します。
脳死は人の死では無い。 人間の本当の死の瞬間は肉体と霊体とをつないでいる
「霊子線」(シルバ−コ−ド)が切れた時なのです。
この霊子線が切れるのは普通の人で心臓停止後24時間程度と言われています。
その間は霊体にもまだ肉体感覚が残っており
死後硬直は「まだ自分は生きているのになぜ棺おけに入れるのだ」というような
故人の意思表示なのです。ですから すぐ火葬になどすれば驚愕します。
ゆえにお通夜の習慣は、死後最低でも丸一日はそのままにし、
霊体が抜けるのを待ってやる、その為のものでしょう。
まして脳死状態からの臓器摘出は当人の霊体は正常な状態ですから
大変なショックでしょう。
霊界とこの世の仕組みをすべて悟っている人からの臓器提供はまだ許せるもの
かも知れないが
提供される側から言えば、そんなにまでして予定(あの世で計画)していた人生を
引き伸ばしても余り意味が無いものと思います。
臓器移植は人としての道を外れた、倫理上、否定されるべきものです。
ましてや臓器売買など論外です。
この方の場合、生きているのに心臓を取られたのはものすごい驚愕であり
あの世に旅立つのに大きな妨げとなるのです。
おそらく憑依霊となり成仏できていません。
だからご指摘のように心臓を盗られたことが恨みとなって、
こんな形で現れるのだと思います。
心臓は最も霊体の中心部(心)に近い位置に有り、ゆえに心臓を取られたということは
霊体としても、その部分にポッカリと穴があいた状態だから当人は許せない
ことでしょう。
その他の臓器提供の一般的な拒否反応も、その類いの現象と考えます。
全ての人間はせめて死のもとに、安らかな旅立ちのもとに平等でなければなりません。
no.2525 k-2 (07/03/03 16:52)
まだやってるの?
もう5回目になりましたよ
でも疲れたからそろそろ止めたいんだけど・・・
no.2526 記入なし (07/03/03 17:29)
脳死状態をどのように理解するか?
私は、憑依現象とは考えていません。が、K−2氏と同じような考えでいます。
以前にもレスしましたが、肉体が「死」を迎えると、霊体は瞬時に離れるのではありません。シルバーコードが細くなるのを促進させるのですが、事故死のように一気に切れるのではありません。時間がかかるものです。まして、脳死状態は「死」とはいえない場合があります。
そんなときに臓器移植が行われ、霊体は「まだだよ」っと声を上げているのも関わらず「死」を迎える事になる場合があると思います。そのような場合は、霊体としては混乱するのではないでしょうか。無理やり引きずり出されるのですから・・・・
以前読んだニュースで、「死」の判定を下されて、臓器移植を行う予定になっていた患者がいます。幸いなことに、臓器移植を行う前に蘇生して事なきを得たとの事なのですが、その患者は「死」を経験した後の考えは、臓器移植を拒否したそうです。
そこで問題になるのは、臓器移植を受けた人の影響ですが、臓器は物質的なものですが、霊体も重複しているのです。普通に死んだ場合でも、死後の直後は混乱します。脳死の場合は、臓器と共に、霊体の一部まで移植されていると想われます。言うなれば、残留思念が残っていると考えられます。このことを憑依と捉えるか、どうかの問題ですが、私は憑依とは捉えておりません。
時間経過で、移植を受けた霊の意識が優位に支配できるものと考えます。また、死んだ霊も、霊的覚醒が起こってきて、残留思念も消えるものと考えます。
臓器移植は、これからの医療技術や他の治療方法の発見によって、変わってくるものと想われます。
病気に関してはそれぞれ治療方法があるものではないでしょうか。
今は、輸血にしろ臓器移植にしろ、今の現実の医療技術の範囲内で行われるのは仕方がないものです。それしかないと考えられているのですから・・・・
no.2527 蚤の脳ミソ (07/03/03 18:07)
T.K.さん
予約していた本が入りましたので、これからしばらく読書三昧の日々に入ります。
これからの質問は、K-2氏、0脳者氏、太郎氏その他の博識な諸氏との質疑応答でお願いいたします。
その内、また顔を出します。
no.2528 蚤の脳ミソ (07/03/03 18:31)
k-2です >2525の補足ですが
今の医学、生命科学では絶対に解明不可と思います。
また、治療もままならない事でしょう。
色心不二(肉体と霊体は二つに非ず一体なり)の考え方を認めない限り・・・
ただ、治すことは可能です。 クレアさんの心がけも悪い
臓器提供者に対する感謝の心が無いからです。
「あなたの心臓をいただいたおかげで、こうして生かして頂いています。有難うございます」・・・このような思い、感謝の気持を忘れず、日々愛念を送り続ければ、
提供者もいずれ解ってくれます。 人は感謝されれば嬉しいものです。
憑依していても、いずれわかって成仏(あの世に帰る)することでしょう。
no.2529 k-2 (07/03/03 19:04)
ふむ・・・なかなか説得力がある・・・
no.2530 記入なし (07/03/03 21:17)
本日もおやすみ か・・・よいかな よいかな
no.2531 記入なし (07/03/05 10:19)
豚、牛、鶏、魚に霊はくっついてるのかな?
no.2532 記入なし (07/03/05 10:28)
あるだろうよ それなりの霊が。
no.2533 記入なし (07/03/05 10:37)
人生いろいろ!
会社もいろいろ!
あの世もいろいろ!
no.2534 記入なし (07/03/05 12:10)
主は来ませり 主は来ませり 主は はー主わあああ来ませりー♪
no.2535 記入なし (07/03/05 12:31)
刺身にはつまが
no.2536 記入なし (07/03/05 13:07)
主よ、あなたは求めよさらば与えられんとおっしゃったではありませんか!
なぜ与えてはくれないのです?
no.2537 記入なし (07/03/05 13:09)
ウルトラマンは来ません シュワッチ!
no.2538 記入なし (07/03/05 13:12)
叩かないからじゃよ
no.2539 記入なし (07/03/05 13:14)
なぜ神や仏は隠れて出てこないんですか?いつ人類を救済してくれるんですか?
こんな世の中をいつまで繰り返すつもりです?時間の無駄ではないですか?
no.2540 記入なし (07/03/05 13:18)
人類を創造したもうた「御神」は何処に行ってしまわれたのか。
人類が創造した「神」は履いて捨てるほど存在しているのに。
人類を創造された「御神」は何処に・・・
人は本当に「御神」を信じているのあろうか?
真に「御神」を信じ、「御神」の力を信じるならば、憂いは喜びに、悲しみは笑いに変わるのではないだろうか。
人の「心」に「御神」を信じる心が無くなったから、「御神」を見失ったのではなかろうか。
今の人が崇めるのは、権力や名声、金銭や栄光という願望と偽りの「神」なのではなかろうか。「神」と告げながら、本当は偽の「神」なる物に仕えているのではなかろうか。
本当に心の底から、善を求め、愛を求め、神の光に預かろうとしてしているのか。善を求め、愛しながら、何ゆえ人の手に在るのは罪と悪の行いばかりなのであろうか。
さも恐ろしいのは、暗黒の邪悪な「霊」の言葉を「御神」の御言葉とし、善なる「霊」を惑わせる輩。
その「言葉」を奉じ、その言葉に従わぬ人(霊)を非難し、牙をむき、爪を立て血を流す事も厭わぬ輩。人として生きている間に、「死」のベールの彼方の暗黒の世界の指定席を求めている輩。
彼の者たちの詭弁は、自身の弱さと欠点を認めぬ所から生まれるのではなかろうか。彼の者たちは、人の苦悩や痛みを弱さとして斥けようとするが、自身の苦悩や痛みを自覚していないのではないか。自らの苦しみや愚かしさを頑なに認めようとせず、己は正しい、悪いことはない、ゆえに自らに降りかかる不幸は理不尽なものであると思う。
この世に生まれてきたのは、自身で成長することに意義がある。自身の成長をいかなるものにも託すことは出来ないのではないか。邪な「霊」や金銭、名声で購えるものではない。と、私は信じる。
no.2541 蚤の脳ミソ (07/03/06 08:14)
「いつ人類を救済してくれるんですか?」
人類の救済は誰がしてくれるのでしょうか?
この地球で、我欲の為に、他の動植物の生態系を狂わし、あまつさえ、地球そのものの危機を生むような人類を誰が救ってくれるのでしょうか。
「自身で蒔いた種は、自身で刈り取る」
人類が蒔いた種は、人類で刈り取る・・・これが自然の法則なのではないでしょうか。好き勝手に築き上げてきて、困ったから助けてください。誰が手を差し伸べて下るでしょうか。人類自らが、自助努力をしなければいけないものではないのではないでしょうか。
例えば、飛行機事故により墜落の危機にあるとします。その人類を助けるために、「御神」は重力の法則を一時なくして、飛行機の墜落を防ぐのでしょうか。そうする事により、他の生態系のバランスが崩れる事になるのではないでしょうか。他の生態系を犠牲にしてまで人類を救うことはなさらないのではないでしょうか。
我欲を満足させるために今までしてきた人類の所業、地球環境の激変を伴い、他の生態系を崩してまで人類は好き勝手にしてきたのです。
宗教の教えを絶対視し、自分たちのみは救済される、何をやっても正義のための行いであるから、「神」の許しは得ている。今のアメリカの態度なのですが、本当にそうなのでしょうか?
一人ひとりが、心の持ち方を変えて、行為を変えて行かなければならないと想います。何も、訳の解らない宗教に入る必要はないのです。いがみ合い、牙を剥き、爪を立てて血を流しあう宗教組織に入る必要はないのです。一人ひとりの心の持ち方を変えれば良いのです。そのような人が増えることのより、世界は変わってきます。気持ちの持ち方を変えるために、高いお金を払ってセミナーに行く必要はないのです。「洗脳」されるのが落ちです。何も必要はないのです。「御神」から与えられた「良心」に従えばよいのです。
「私一人が何が出来るか?」と、お考えに成ると想いますが、人間はそんなに小さな生き物ではないのではないでしょうか。人の想念は大きな力があります。善き事、思いやりの在る想い、それが積み重なって、自身の環境を作り、そのような人が多くなるにつれて、社会も変わってきます。
no.2542 蚤の脳ミソ (07/03/07 10:51)
組織宗教に向かって「牙を立て、爪を立てて血を流」す人の言うことを、信じろと言われても…。
己が考えのみが正しいという態度をあなたは組織宗教に見出しているけれど、あなた自身も同じ態度で唯物論者や組織宗教の徒に接していますね。
「善良で慈愛の心に満ちた唯物論者、組織宗教の信徒」という人物像を否定するあなたの独善にはすでに辟易しています。
私の目で見ると、あなたも、あなたが批判する組織宗教も大差ありません。
彼らが他宗の信徒に見出すマイナスイメージは、あなたが組織宗教の信徒に抱くマイナスイメージと良く似ています。
ということは、あなたの思考と彼らの思考は良く似ているのです。
繰り返しますが、あなたも、あなたが批判する組織宗教も大差ありません。
同じ穴の狢です。
本当にあなたが既存の組織宗教を全て批判し、異なる存在であると言い切るためには、
あなたは組織宗教の信徒や、またかつてのナチスドイツのSSのような醜いエゴイストをすら愛し、その罪を自らに引き受けるというような、
一段深く高い倫理を身を以って示さなければならないのではないでしょうか。
自らと異質な存在を友愛することによってしか、人類の歴史の宿阿というべき憎悪の連鎖を断ち切る方法はない。
あなたはその考えに同意してくれるかもしれないが、しかし、それにはあなたの独善が解かれなければならない。
私のメッセージはこれが最後のものになると思います。
なぜなら、あなたを観察して得られるものはすでに得たから。
そのお礼に、上記のメッセージを差し上げます。こんな考えもあります、という紹介です。
no.2543 ぺけぽむ (07/03/07 19:37)
この世が地獄だと分かれば救いは無いということが分かります
no.2544 記入なし (07/03/07 19:39)
私は、私のメッセージを信じろとは一言も言ってはいません。
私の言わんとしている事は、選択肢を広く持とう、と、言うことです。「知識」は大切です。知っていれば判断材料となります。
色々な考えを知ることにより、自身で判断し、行動をするべきなのです。貴方のように否定されても一向に構いません。
「私の目で見ると、あなたも、あなたが批判する組織宗教も大差ありません。」
この考えは、貴方の考える範囲内のことではないでしょうか。それはそれで良いのですが、似て非なるものです。私の主張は、個人を大切にしています。人は自身で成長しなければならないからです。メッセージを発する人物を崇拝しても仕方がないのです。そのメッセージが受け入れるに値すると判断したならば、その理解している範囲内で、個人として生活の中の取り込めばよいのです。
人に押し付けたり、脅したりする今の組織宗教なるものと同一に考える考えること自体奇妙に感じます。
確かに、今の宗教の中にも誠実な人はいます。が、その誠実な人も理性ではおかしいと感じていることもあるのではないでしょうか。「洗脳」されていなければ・・・
人は捉われなければ生きていけない存在ではありません。孤独にも耐える力があります。それを希薄にしているのが宗教の考えではないでしょうか。群れ集い馴れ合いの世界に居ることが幸せと感じさせているだけではないでしょうか。
異なる考えを表明すると、よってたかって封じ込めようとする。
地獄に落ちる・・・恐怖によって閉じ込めているのが今の組織宗教ではないでしょうか。
no.2545 蚤の脳ミソ (07/03/07 20:05)
人の想念は大きな力があります。善き事、思いやりの在る想い、それが積み重なって、自身の環境を作り、そのような人が多くなるにつれて、社会も変わってきます。
悪い想念が部分的に渦巻いているということなんだろう
no.2546 記入なし (07/03/07 20:48)
〉そのメッセージが受け入れるに値すると判断したならば、その理解している範囲内で、個人として生活の中の取り込めばよいのです。
あなただけが特別にそうした布教活動をしているとは思えません。
貴方は自分で思っているほどにも特殊なことをしているのではないと思います。
〉人は捉われなければ生きていけない存在ではありません。孤独にも耐える力があります。それを希薄にしているのが宗教の考えではないでしょうか。群れ集い馴れ合いの世界に居ることが幸せと感じさせているだけではないでしょうか。
私が友愛という言葉で表したのは、そういうような弱い存在であるものすら愛さなければならないという倫理です。
信じるものが違う、信じる動機すらも違う、そういう存在すらも愛すということについて貴方はどう思うのでしょうか。
あなたの言葉からは、あなた自身の霊的上昇に関する関心が色濃く感じられます。
しかし、それは、エゴイズムと紙一重です。霊的であろうと現世的なものであろうと、それがあなたの利益になるのであれば、それはあなたの自己利益です。
自らの霊的上昇を放擲するほどの他者愛ということは、ありえないのでしょうか。
真に愛のために自らを放擲できるのであれば、それは死後の上昇をすら放擲しうるものないとは言えないでしょうか。
no.2547 ぺけぽむ (07/03/07 20:53)
>蚤の脳ミソさん
人は孤独に耐えられないよ。
no.2548 下っ端公務員 (07/03/07 20:54)
さらに言うなら、
〉我欲を満足させるために今までしてきた人類の所業、地球環境の激変を伴い、他の生態系を崩してまで人類は好き勝手にしてきたのです。
宗教の教えを絶対視し、自分たちのみは救済される、何をやっても正義のための行いであるから、「神」の許しは得ている。今のアメリカの態度なのですが、本当にそうなのでしょうか?
というあなたの攻撃的な言葉が、なによりも
〉異なる考えを表明すると、よってたかって封じ込めようとする。地獄に落ちる・・・恐怖によって閉じ込める
というあなた自身の組織宗教への批判にも当てはまるように思えます。
あなたは我欲に染まった人類を神が救うはずがないと言うのだから。
no.2549 ぺけぽむ (07/03/07 20:55)
なお補足するなら、組織宗教とあなたの似ている点について私が思うのは、
要するに同じ悪をあなた自身が抱えているように思えるというその一点です。
批判する以上、自らにその批判を向けられることもあると心得られるのがよろしいでしょう。
他者に名指される前に自らを省みることができれば、誰しも無用な刃を振りかざさないものです。
no.2550 ぺけぽむ (07/03/07 21:02)
ひとつお聞きしたい。
なぜに私にそのような興味を抱くのか?
不思議ですね。私は、覚者でもない。高度な霊覚者でもない。
貴方が言っている様に、私は特別な事をしているつもりはない。単なる霊的真理に関して、私の理解している範囲内で、太郎氏のレスを使わしてもらっているだけです。
「私が友愛という・・・・」
非常に大きな勘違いをしているのではないだろうか。
貴方は、私を何かの教祖みたいに考えているのでしょうか?
人に、動物に、その他の生物に親愛の情を持つことは当然のことと考えています。唯、私という人間に害を為す生き物に親愛の情を持つほど、私は霊格の高い者ではありません。常に悩み、後悔をし、反省の日々を送っています。
「あなたは我欲に染まった人類を神が救うはずがないと言うのだから。」
認識の違いによる、考え方の違いは致し方ないが、「神」が救う?誰の教えですか?
自身を救うのは、自身でしかないと思います。
「神」は人に自由意志を与え、自身の行いに関して善悪共に、自身でその報いを受けなければならないこと。と、理解しています。
間違った行為により、その責任を問われたら、素直に後悔し、反省をして過ちを元に戻すことをしなければならないのではないでしょうか。
「神」は過ちを犯したら、罰して、懲らしめることはないのです。自身の「良心」により、自身で、自身を罰するのです。
よく地獄ということが言われますが、「神」が罪人を地獄に叩き落すのではないのです。罪人が今までの行いに適したところに自ら赴くのです。その苦しみの時間も「神」が規定するのではないのです。罪人の改心の度合いによって長くもなれば短くもなるのです。その手助けをするのが高級霊なのです。
当然、後悔も反省も自省もしなければ、するまで苦しむことになることは当然の理です。そのことが「神」の公正といわれているのです。
「神」がこの人は善い事をしたから褒美を遣ろうとか、悪い事をしたから罰しようとかと言う考えを、私はしていません。
no.2551 蚤の脳ミソ (07/03/07 21:27)
批判はどうぞご自由になさればよい。
その批判に関して、どう対応するかは、私の自由意志に任されているのですから。
それにもうひとこと、今まで貴方たちの考えを尊重して、一歩も二歩も下がっていましたが、これからはそのようなことはしません。
抜き身を出すなら、私も抜き身を出しましょう。
no.2552 蚤の脳ミソ (07/03/07 21:33)
穏やかに過ごせますように。
no.2553 記入なし (07/03/07 21:43)
>蚤の脳ミソさん
その程度で、荒れるとは修行が足らんな。
九次元の存在たる、私を見習うように。
no.2554 下っ端公務員 (07/03/07 21:43)
峠の茶屋 麦茶はいかが
no.2555 記入なし (07/03/07 21:44)
>2555さん
いま飲んでるw
no.2556 下っ端公務員 (07/03/07 21:44)
〉貴方は、私を何かの教祖みたいに考えているのでしょうか?
あなたはあなた自身の教祖であり、下手をすれば他人の教祖に成り下がる危険性を感じています。
組織を悪だとしか思わない人間が組織の頂点に立ったとき、悪に走る以外の振る舞いを知らないからです。
〉自身の「良心」により、自身で、自身を罰するのです。
通常、それを独善と呼ぶのです。
〉「あなたは我欲に染まった人類を神が救うはずがないと言うのだから。」
あなた自身の言葉です。
あなたが対話の文脈を誤解しているだけです。もっとも、どちらにしてもこの誤解はたいしたことではないと考えられるのでこれ以上つつきません。
それより根本的な誤解は、私のあなたへのメッセージが正しく理解されていない点です。
私は神が罰を当てるかどうかの点であなたとそれ以外の宗教を判別していません。あなたはそこにこだわっているようですが。
あなたの考えの中でわかりにくいところがあるのは
〉罪人が今までの行いに適したところに自ら赴くのです。
罪人が自分の意思で、自ら赴くとは到底思えません。
また、あなたとおなじ知識を全ての人間が持った状態で選択できるとも思えません。
つまり、多くの人間は自分の赴く先を自由に選べません。
赴かされていると言うべきです。
いついかなるときでも自分の良心で自分を罰することのできる人間は要するに罪を最初から犯しません。
どうやら、全ての霊がその変転の中のどこかで必ず自らの罪を悔いる瞬間が来ると言うのがあなたの信仰の肝のように思えますが、その理解でよいのでしょうか。
同じようなことを単なる空想として考えたことはありますが、やがてその構想の弱さに気がつきました。
要するに、自分が幸せでれあばよいという発想にアリバイをもたらすだけだったからです。
no.2557 ぺけぽむ (07/03/07 21:48)
〉抜き身を出すなら、私も抜き身を出しましょう。
それこそあなたの自由ですが、いつもの金太郎飴のようなことばかりを繰り返すのなら時間の無駄だと思います。
抜き身を出すという行動が、感情的・教条的な否定の言葉の羅列でしかなかったら、非常に悲しく思います。
私はあなたが御自身の考えをより深められる手伝いになればと思って、今回自分の考えを紹介したのみです。
その意味では私は批判はしたが、否定をしていない。
前にも言ったことがありますが、
私にとっての理想の社会は、
誰もが信じたいものを信じ、生きたい生き方を邪魔されず、権利においても現実においても不当な仕方で自由を奪われない社会です。
魂を信じるものもそうでないものも自らの信じるものを損なわれない社会こそが私にとっての理想なのです。
私のような信ずる神と魂なき人間のほうが世界全体では少数派なのですが、そういう少数派であってもその信じるところを損なわれずに生きられる社会こそが自由な社会ではないでしょうか。
no.2558 ぺけぽむ (07/03/07 21:56)
あくまで善意の行為として、あなたにニーチェの著作を読むことを薦めたいと思います。
キリスト教批判者として有名なニーチェですが、その批判の肝は神の下に群れる人間の弱さにあります。
おそらくほとんどの教祖ですらその弱さを抱えているのです。
そして、それは、組織宗教であるとないとに関わらず、全ての信じる心をもつ人間にとって重大なヒントとなるものです。
no.2559 ぺけぽむ (07/03/07 22:02)
幸せの基準をどこに置くかです。この考えが一番大切と考えます。
過去にも説明をさせてもらいましたが、人間はその人一人ひとりが主人公なのです。どのような環境においても。また、どのような行為においても。それは当然なのではないでしょうか。
今、現在生きている状態でも、人は自分の一番居心地のよい場所を選ぶのではないでしょうか。居心地の悪い所には居たくないものです。それは、死んでも同じなのです。
今まで好き勝手に生きてきた人が、すまして奉仕ばかりしている所に居たいでしょうか。それよりかは、気心の合った人達のいる所にいるほうが良いに決まっています。
この世でも、霊界でも同じです。肉体の「死」をきっかけにあくどい人が善人に変わる訳はないのです。
「どうやら、全ての霊がその変転の中のどこかで必ず自らの罪を悔いる瞬間が来ると言うのがあなたの信仰の肝のように思えますが、その理解でよいのでしょうか。」
上記の文面のままです。その通りです。
この世で改心する人もいれば、死んでから改心する人もいます。
自分が幸せであってはいけないのですか?
その幸せの内容はその人によって違いはあるものの、人は自身の幸せを追い求めているのではないでしょうか。
貴方は不幸せになりたいのですか?
no.2560 蚤の脳ミソ (07/03/07 22:07)
>蚤の脳ミソさん
つまり、死んでから改心する人は、
生きているうちに改心する必要は無いってこと?
no.2561 下っ端公務員 (07/03/07 22:10)
まだ言い争ってるのかw
あの世などあるわけがない。
no.2562 フリーランス (07/03/07 22:29)
>下っ端氏 それは屁理屈と言うものだよ。
>ぺけぽむ氏 残念ながら「神は死んだ」のニ−チェは無間地獄で反省中ですよ。
>蚤の脳ミソ氏 益々賢くなられたが、宗教組織嫌いは何とかなりませんか?
人はひとりでいくら頑張ってみても心ゆらぐモノです。
同士と励ましあい、磨き合うほうが、より大きく豊かな果実を
実らすものと思いますが?・・・
私はそれをしないから今一歩、成長しきれない。
no.2563 k-2 (07/03/07 22:32)
ああ、なんだかなあ…。
私が何故いったんそのような発想をしてそれを捨てたかと言うことをもう少し詳しく繰り返しますね。
私も四捨五入で30年になる人生を送ってきているので、それなりに辛い思いをしたことがありました。
その中で、どうしても他人を憎く思えて仕方なく思えたことがありました。
その人物はエゴイストで、私の憎悪にゆがむ顔や、悲しむ顔を見るのがとても楽しいようでした。それだけでなく、私には不利益をもたらして、それを自分の利益に変えています。
どうしてもその人物に罰を与えてやりたくて仕方なく思いました。
私はそれだけではなく、そんなやつよりも高い位置につかなければいけないと思いましたた。同じ悪を働いて同じレベルの人間になりたくないからです。
ですが、その考えをよくよく突き詰めると、つまり私が彼にしたことと同じ痛みをたんなる私怨から彼に与えてはいけないのです。同じレベルのことをしても仕方ないのですから。
なので、私は、自分が暴君になって彼に公正に拷問をかけることを想像したり、あるいは神が罰を与えてくれることを祈りました。
無論空想だの手前勝手な祈りなど実現するはずもない。私はどうすれば、彼の不愉快さ、彼のエゴイズム、彼の悪が私の前から消え去ってくれるだろうとそればかりを考え、しかしそれこそ夢物語なので好都合な空想をまた抱き始めました。
それが件の構想です。
彼もいずれは改心する。私が自ら進んで同じ悪を犯さないと考えて一つ高い階梯に進んだように、彼にもそのチャンスがあるのです。そうすると、私も彼を許せそうに思えました。
なんだかずいぶんと甘い話ですが、要するにそうすることで私は内心の業を何とか鎮めようとしたのです。
これはじっさい感動的に思えたのですが、これがとんと現実には通じない。いくら私が彼を内心で許そうと思っても現実の彼は楽しそうな顔をして私を苦しめる。むしろそれが彼にとっての正義ですらあるらしいみたいです。私の憎悪は強まる一方。現実に私の受けている被害は続き彼の悪は増える一方。わかったのは、目の前で起きている悪を許すというのは実は並大抵のことではないし、それを来世で帳尻が合うからと現世の悪を甘受するなどろくでもないことだと思うに至ったからです。だとしたら、他人に同じことを求めるわけにも行かないでしょうが。現に理不尽に受苦しする人間にとっては来世より現世なのです。
no.2564 ぺけぽむ (07/03/07 22:38)
後になって気がついたのですが、私はそのとき属していた共同体の中で、そうとうに問題のある存在だったらしく、そのことに気がついていなかった私は結局そこから追い出されました。直接のきっかけは、彼とは関係のない女問題でした。
振り返ってみると明らかに私に問題があったのです。そのとき私が思っていたような悪など要するに私の心が作り出した陰でしかなく、要するにその共同体の人の心を思わなかったことでおいだされたのです。簡単に言えば、何の考えもなく和を乱す幼児的な存在だったのです。その意味では、私を苦しめた彼にも一分の正義があったのです。まあだから、私の受けた仕打ちは、理不尽とは言いかねるかもしれないですね。
no.2565 ぺけぽむ (07/03/07 22:40)
〉K−2氏
あなた、思っていたほど賢くないね。
本に書いてあることを吟味もしないで丸呑みしてない?
そんなだから哲学書をいつまでたっても読みきれないんだよ。
no.2566 ぺけぽむ (07/03/07 22:42)
>2564下っ端氏 生きているうち反省を済ましておかねば、
心の垢を落としておかねば損だよ。
あの世はガラス張り、心だけの世界だから全ての霊人にバレバレなのだ。
心、思いは隠せない 恥かしいぜ。
no.2567 k-2 (07/03/07 22:43)
>k-2さん
ワケワカメ。
日本語で書いてくれ。
ちなみに私は九次元だからね。
no.2568 下っ端公務員 (07/03/07 22:45)
〉下っ端氏
自分が幼かったと気がつくの遅かった。それだけです。
善とか悪とかいうような大げさなことではないと思います。
いまでもまだ幼いような気がしますが…。
文章をエディターで書いたら文体が全然別になってる。
こえー。
no.2569 ぺけぽむ (07/03/07 22:46)
>ぺけぽむ氏 私はアホですよ。でも信じる力はある。
吟味する力も有りますよ。人の言うことを鵜呑みには絶対してない。
no.2570 k-2 (07/03/07 22:46)
>ぺけぽむさん
確かに、若いころというのは、
失敗の宝庫だからね(^^;
no.2571 下っ端公務員 (07/03/07 22:47)
高校から大学にかけてはこんな話ばっかり…。
でも、例の「構想」を最初に思いついたのは、中学生の頃だったかも知れないません。
辛い思いをしたときにそうやって心の均衡を保とうとしたもんでした。
そのうちもっとどうしようもない悲惨がこの世にあることを想像できるようになると、
「構想」をどう心の中で言いつくろっても維持することができなくなりました。
私の苦しみとは関わりのないところで救いようのない苦しみを受けている人々がいるのですからね。
もっとも、そうしたこの世の悲惨のきわみであるような苦しみとは別に、もっとしみったれた物悲しい苦しみ(学校・職場のいじめとか就職苦とかその手のもの)の切実さも決して軽んじてはいけないと思いますし、
それを見て真剣に考えることそのものは決して捨ててはならない。
しかし、それを来世の話に関わらせていても何の解決にもならない。
私が思うのは、要するに現実生活の中の弱さから生まれる信仰だけでは、現実の苦しみを救うことはできないということです。
no.2572 ぺけぽむ (07/03/07 22:57)
なんだかんだと難しく言い合っても、皆さん
求めるところは同じなのですよ。
仲良くやりましょうよ^^
no.2573 k-2 (07/03/07 23:00)
ぺけぼむ氏の経験談によって、ちょっと考えている事を明日レスしようと思います。
私自身理解しにくいものがあるのですが、「人の魂が持つ宿業」を考えてみたいと想います。
興味があれば目を通してみてください。そして、忌憚ないご意見を期待します。
人生は色々は経験で、色々認識するものです。
苦しい経験ほど、人の心の襞や、自分自身の心の襞をなぞるものです。
だからこそ、人の苦しみが本当の意味で理解できるのではないでしょうか。
no.2574 蚤の脳ミソ (07/03/07 23:03)
〉k-2氏
鵜呑みにしてないって言うんだったら哲学書読みきって見やがれ。
吟味なんてえらそうなことを簡単に言うのが恐ろしくなるぞ。
ほれほれ、さっさと『プロレゴーメナ』を読みなされ。
哲学書の意味なんてどうせ誰が読んでもよくわからないんだから。
吟味なんてえらそうなことは、ほんとに髄の髄まで読みきってから言いやがれ!
no.2575 ぺけぽむ (07/03/07 23:05)
あまり慌てて 誤字、脱字の無いようにね^^
no.2576 k-2 (07/03/07 23:05)
>ぺけぽむ氏 ごめんね お奨めのゴ−メナ
てんで面白くない。時間あれば読みきります。
no.2577 k-2 (07/03/07 23:09)
ちなみに一言付け加えると、信じるものを求めている人にとってはたいてい哲学書は面白くない。
疑うことしか書いていないから。
わかるわからない以前に、「知を愛する」ことが出来ない人にとっては面白くも何ともないです。
no.2578 ぺけぽむ (07/03/07 23:12)
>「哲学書の意味なんてどうせ誰が読んでもよくわからないんだから」・・・
貴殿でもわからない なら私ではとても無理なはず ですな。
no.2579 k-2 (07/03/07 23:17)
《人を愛し 人を生かし 人を許せ》
「うらみ心で、恨みを晴らすことは絶対に出来ない」
人を愛することは 人にやさしくすることは 必ずおのれの心を豊かにする。
私の言いたいことは たったこれだけの簡単なことです。
no.2580 k-2 (07/03/08 01:03)
2540氏の「こんな世の中をいつまで繰り返すつもりです?時間の無駄ではないですか?」の文意は難しく、どのように解釈するか?なのですが、私なりに考えた見解を記したいと想います。
人は大雑把に言って、霊と精神と肉体から成り立っています。人生は1回、死ねばおしまいとお考えになられる方は多いと思います。が、霊は死ねないのです。幾度も幾度も再生して、人生を繰り返すのです。1回1回新たに生きていると考えていいと思います。昔の記憶を潜在意識の中に閉じ込めて、0からの出発を毎回しているのです。そして、自身の欠点を少しずつ矯正して向上しているのです。
ここで、前世の記憶がなぜないかに注目してみたいと思います。
前世の記憶が残っていると、今生では生きることが非常に困難になってくるのではないでしょうか。前世で愛し合った霊や憎しみあった霊が解ってしまうのですから。
愛し合った霊はともかく、憎しみあった霊は永遠に憎しみ合うことになるのではないでしょうか。記憶が閉じ込められているからこそ、新たな人生を歩むことが出来ると考えます。
今生きている間でも、初対面に人に親しみを覚えたり、なんかわからないけど反発したりする人は出てきます。
魂の記憶されている出来事は、その魂が経験してきた総てを持っています。人の脳の容量が小さすぎるので、入りきらないだけなのです。
例えば、過去に殺し合いをしてきた相手は、魂に記憶されています。その霊が向上していなくて、その過去に受けた傷を癒さないまま再生すると、その魂は、傷つけた魂に出会うと非常に反発するはずです。しかし、再生の都度少しずつ向上を続けている魂はそんな魂を許し、愛し合うことが出来るようになります。
またその反対もあるのではないでしょうか。
憎しみあっても、愛し合っても、同じ状態が未来永劫続くわけはないと思います。総ての出来事は移り変わり、同じ感情や有様が長く続くことはないのではないでしょうか。憎しみ合うも、愛し合うのも、「御神」の定めた縁あってのものなのではないでしょうか。縁ある人との間には、生まれる前から巡り合いが定められているのだと思います。
人と人との関わり合いには偶然はないのではないでしょうか。
生まれてから、お互いにいかなる感情を持って関わり合うかは、巡りあった者同志に任されているのではないでしょうか。その魂のレベルでの感情の持ち方で憎むことも愛し合うことも、排斥することも受け入れることも、総てはその魂同士の感じ方にかかっていると思います。
長い時の中には、裏切りや殺しあうことも在るのではないでしょうか。過去世で愛し合ったもの同士が殺しあうことや、その反対もあるのではないでしょうか。そのようにして、少しずつ向上していくものではないでしょうか。
今生だけがこの世ではありません。この世では苦しい思いを重ねても、来世ではよりよい生活を送れる事もあるのではないでしょうか。その反対も・・・
魂が持つ宿業は人間関係そのものだと思います。
再生して同じ魂と出会うたびに、自覚しないうちに持ってしまう感情、肉体を持って生まれたがゆえに発現するさまざまな魂の慣性ではないでしょうか。再生するたびに、同じ相手に同じ反応をしてしまう癖になっているのではないでしょうか。
どうしても憎んでしまい、嫌ってしまう相手というものはいるものではないでしょうか。その反対も・・・
そのような宿業は、辛抱強く修正していかなければならないものではないでしょうか。たとえ被害者でも、加害者を憎み恨み続けることは、悪しき宿業となります。憎しみを懸命に乗り越えようと長い努力を続けて、許すということに納得出来るようにならなければならないのではないでしょうか。
加害者も、心から悔やみ謝罪して償わなければ、被害者の恨みより遥かに重く厳しい死後の世界と、未来の世界の試練を自ら選ぶことになるのではないでしょうか。
しかし、この世は難しいですね。
この理を知っていても知らなくても、今の生き地獄に苦しんでいる人は沢山いますね。生まれてこなければよかったと嘆く人も沢山います。神を恨み、人を恨む他に、どうすることも出来ない人も沢山います。
「今この時」が苦しく涙を流しているのです。来世や過去世なんかどうでもいい、今このときを何とかしてくれ。このような言葉が叫ばれているのではないでしょうか。
(ちょっと疲れました。次回に)
no.2581 蚤の脳ミソ (07/03/08 07:46)
同じ意味のことを繰り返している。と、叱責されそうですが、私自身大切な事だと認識していますから繰り返しています。
2581の続き
さて、苦しみや悲しみの真っ只中にいる人は、その苦しみや悲しみから逃れたくて、意味があるとは考えられないのではないでしょうか。しかし、自分自身を取り戻したとき、振り返ってみて、あの時の苦しみや悲しみがあればこそ、今の自分自身があることを自覚するものではないでしょうか。
嫌なことや楽しいことの遭遇は、関わった人達の宿業の発火点としての現象に過ぎないのです。傷つけられるということが起こったとき、忌み嫌うのは当然ですが、憎しみという感情を起こす宿業を是正するためには、まず憎しみが起こるような事件に遭遇しなければならないのではないでしょうか。だからこそ、その人にとっては耐え難いような体験をして、その人は前世からの宿業どおり憎しみを抱くことになります。そこから、その人の本当の宿業を是正する道が始まるのです。人生はその人の魂が持っている癖を出させて、修正する意思を持たせるための出来事が満ちています。
総ての人の魂は、人生の計画をあらかじめ定め、この世に生まれてくるのです。過去のレスにも書いています。
ある人がある人を憎むのは、相手が憎む行為をしたからだと、人は加害者の行為や態度を理由に考えます。それは間違っていないのですが、深い意味では、その人の魂に、相手を憎む癖が元々あり、予定されていた時に予定されていた相手が現れ、憎しみの宿業を起こさせるべく、傷つけて憎ませるのです。
人は、その人の魂が計画したとおりに、傷つけた相手を憎みだす。これで、その人は画されていた憎しみが発現したことになります。人は、苦しみ、嘆き悩み、辛い憂鬱と怒りにまみれて呪うことをします。それが宿業なのです。その苦悶の中から、憎悪の宿業を越えて許しの道を模索しながら生きてゆくのです。
経験している人にしか解らない、例えようもなく辛い事ですが、この宿業に気づき、正しい道に到達できた人は幸いではないでしょうか。
人は一人では生きていません。多くの人たちに助けられながら生きているのです。
悪しき宿業のもたらす苦悩には、よき宿業を与える人がいるものです。それが希望にもなります。友であり、親であり、恩師であったりします。
真の慈愛、真の慰め、真の忍耐の持ち主こそ、善なる宿業の人ではないでしょうか。そのような人に助けられて絶望には光が、悲嘆には慰めが、虚しさには慈愛が与えられるのではないでしょうか。
我が事のように相手の苦悩を知り、見捨てるに見捨てられぬ憐憫と、手を差し伸べられずにいられない心は、善なる宿業を持つ人なのです。
no.2582 蚤の脳ミソ (07/03/08 08:42)
様々な形で出会うことを予定されていた人々と、場所や立場を異にして共に生きているのがこの世界なのです。厳しい苦難や人生の狭間で、心慰める温かい心で迎え入れてくれる人がいることを知ったなら、それは善の宿業なのです。
思いやりを受けたならば、深く感謝するだけでなく、喜びと利益を他の人に分け与えることを心がけなければならないのではないでしょうか。それは、善き宿業を人々の間に培う元にもなると思います。
お互いに高め合う宿業もあれば、堕落して憎みあう宿業もあります。悲しい悲痛は絶えませんが、それもまた必要な魂の熟成の過程なのではないでしょうか。
しかし、この世の中にはこの宿業の知識を、自己正当化に使う心なき輩も多いのではないでしょうか。真理真実を歪めて解釈し、自分の都合の良い言い訳や正当化に利用する輩が耐えたためしはありません。
真理真実の言葉を、己の愚かしい行為の正当化する道具にし、自らを欺く言い訳に使うこと自体が、厳しく苦しい反動を我が身に引き寄せることになるのではないでしょうか。
私が、組織宗教に嫌悪感を覚えているのはこのためです。
人一人ひとりが、自覚して、自身の「良心」を信頼して行動すれば、それで良いと思います。何も教祖なるものを中心とした群れの中に、安住の地を見出すことはないのです。
辛くても、寂しくても自身の「良心」の命ずるままに生きる事の方がどれだけ心の平安を保てることか・・・
no.2583 蚤の脳ミソ (07/03/09 10:23)
おまえらが魂って言ってる物は、脳内で起こってるシグナルで出来た意識の事だぞ。
死んで、脳が機能を停止したら魂も消えるんだよ。
こんな当たり前の事が何で解らないんだ?
目を覚ましてくれよ、たのむ。
no.2584 昆野 宏 (07/03/10 22:25)
グノーシス思想に傾倒しています。
no.2585 記入なし (07/03/10 22:55)
キリスト教で言われている週末の世に救世主を名乗る偽者に気をつけなさいと
言われています。これは誰、又はどの団体の事だと思いますか?
no.2586 記入なし (07/03/10 23:23)
週末ではなく終末でした
no.2587 記入なし (07/03/10 23:25)
麻原しょう子 さんです
no.2588 記入なし (07/03/10 23:46)
その昔オウムを飼っていた麻原彰子さんでした
no.2589 記入なし (07/03/10 23:56)
小田晋著 心理分析「なぜ、人は宗教にすがりたくなるのか」
一度お読みになればいかがですか。
私は、宗教の教義も知識のひとつだと思っています。
その知識をどのように使うかは、一人ひとりの判断にかかっていると思います。
霊覚者では判断できても、霊覚がそれほど発達していない人は、その人が持っている理性で判断するしかないのです。
例えば、先覚者は偉大な人でも、その弟子にいたると、意見の違い、解釈の違いで多くの分派に分かれています。これを見ても、今の宗教なるものはいかがわしく感じます。
no.2590 蚤の脳ミソ (07/03/11 12:03)
うさま びんらでぃん?
おさま びんらでぃん?
no.2591 トシ (07/03/11 12:03)
病的で、詐欺的な宗教に引き込まれやすい人は、欲が深い人、不安の強い人、そして、他人の言うことに動かされやすい人です。また、もともと妄想性人格障害があり、狂信的な傾向のある人も、同じように宗教のとりこになる可能性が高い。
そのような狂信的傾向のある人が宗教に執り付かれると、自分の信仰する宗教の布教の為、親兄弟や社会にどれほど迷惑を及ぼしているかということは考えないものです。また、被害妄想狂的な傾向が強いので、自分の信仰する宗教に対する周囲の批判を総て迫害と考え、ますます耳を持たなくなります。
ちょっと、精神医学的な雑学です。
no.2592 蚤の脳ミソ (07/03/11 17:24)
あの世〜
no.2593 記入なし (07/03/12 10:52)
>1
過日、日頃「霊界」を言っていた とある著名な方が、お亡くなりになりましたね。
したら、途端に「霊界」が 言われなくなりましたね...
no.2594 記入なし (07/03/12 11:54)
no.2592 そういう人が結構いるから世の中悪くなっちゃうのかな?
どっちだかわからんけど
no.2595 記入なし (07/03/12 11:58)
no.2594まあ言う人が一人減っちゃったからね
でも同じようなこと言ってる人は一杯いるだろう
no.2596 記入なし (07/03/12 12:02)
コナン・ドイル著 近藤千雄訳
「コナン・ドイルの心霊学」
一度お読みになってはいかがでしょうか。証拠、証明の類が記されています。
サー・アーサー・コナン・ドイルは、「名探偵シャーロック・ホームズ」で世界的に有名である本の著者です。
信じる、信じないはその人の判断であるのですが、乏しい知識のまま軽薄に判断を下すのはいかがなものでしょうか。「知識」は大切なものです。判断材料になります。
その上で、ご自身が判断されれば良いです。
購入しなくても、図書館に行けば置いてあります。図書館は、知識の宝庫ですよ。皆さん、もっと活用して、知識を深められんことを・・・・。
no.2597 蚤の脳ミソ (07/03/12 12:43)
ちょっと哲学的雑学を。
カントによれば、神の存在についてはいかなる理論的証明も成り立たず、まったく認識できない。そこで神が存在するかどうかを考えずに、まず人間の道徳的行為を問題にしなければならない。
人間の行為が道徳的である所以(道徳性)は、行為がよい結果をもたらすことにではなく、良い動機に導かれていることに見出される。それは、自己の主観的な行為の原理が自己に通用するだけでなく、万人に等しく容認されるものである場合のみである。
しかし人間は得てして他人の立場に立って考えてみるよりも、自己の利益や衝動に捉われがちである。従って、人間が真に道徳的に良い人間になるには、絶えず自己の衝動を制御し、克己努力しなければならない。
然るに人間の生命は有限であるため、この努力が無限に継続するためには、「霊魂の不滅」が前提されねばならない。
次に、このような道徳的人間が得るにふさわしい「幸福」も得られること、つまり「道徳性と幸福の調和」という「最高善」が「世界の究極目的」として立てられる。その場合、人間の理性は感性によって制約されているため、自力では「幸福」にはなれない。
そこで全世界を支配している神も、実践理性によって要請される。
この神は、道徳法則の立法者、執行者、裁判官であるものである。全知、全能、永遠、唯一等の神の性質は、道徳目的の達成に必要な限りで、認められるに過ぎない。
no.2599 蚤の脳ミソ (07/03/13 09:57)