なぜ時代、時代で教えの効力が失われるとゆうことがあるのだろう。おかしいと思いませんか?本当にその教えが正しいのであれば最初の教えから変更などありえないはず。
説明していなかった事を後で継ぎ足すとゆうなら話も分かりますがそれにしても仏とも
あろうお方が説明を忘れてたなんて洒落になりません。なぜ釈尊の教えは効力を失ったのか?明確な説明を釈尊は述べられているのでしょうか?また、日蓮聖人はその事についてどう答弁されてるんでしょうか?
no.100 記入なし (05/08/28 15:01)
剣と似たようなものではないですか?
創始者がおり、後継ぎがいる。
正法時代は、創始者みずから教える事が出来た時代。
象法時代は、創始者を知ることは無いが受け継いだ人達がいる時代。
末法時代は、秘伝書だけが残る時代。
ではないかなぁ?
no.101 記入なし (05/08/28 19:19)
インド人はコーかソイドといって白人とほぼ同じ(黄色人種と混血)、アーリア人は完全白人
no.102 アーリア人 (05/08/28 20:45)
まぁ、何処の教祖・開祖の教えも
時代の流れでボケたり、歪曲するものだ。
それは釈尊は分かっていたのかもね。
その為の戒めでもある。
まぁ、現代においては(釈尊の意に反して)
仏教の本質はだいぶ磨耗し変容してしまった。
しかし、経典の中にはそのエッセンスがまだ多く残っている。
問題は、それをどう理解するかだが、
釈尊の人と成りを創造すれば、誤った方には行かないだろう。
ちなみに日蓮自身は末法時だと認識していたが、
実際は象法時なんですねぇ〜w
だから、本来?の教え(法華経)を流布する必要があったのら。
まぁ法然・親鸞なんか同様のバックグランドがある。
ただ、道元の場合は求道心という感じがするね。
だから、個人的には道元が好きだなぁ。(意味なし)
no.103 ハンコ屋 (05/08/28 20:55)
↑詳しいな
あなたは幸せか
功徳とは欲であり煩悩である。しかるに矛盾がある。(見返りを求めるのは欲であり、仏教の妨げである煩悩である。。煩悩を捨てなさい。。)
no.104 記入なし (05/08/28 21:00)
>>104
>あなたは幸せか
相対的には幸福だと認識しております。
ただ絶対的に幸福かと言えば、分かりませんね
>功徳とは欲であり煩悩である
???
欲=煩悩、っていうのは、100%イコールではないんだね。
完全に欲が無くなると、廃人になってしまいますw
no.105 ハンコ屋 (05/08/28 21:12)
ハンコ屋さんは仏教に詳しいですね、やはり仕事柄で縁起を担いだりとか、
お寺の住職さんなどから印鑑の依頼があるために勉強されたのですか?
no.106 記入なし (05/08/28 21:24)
そこが、グレーゾーンです。欲と煩悩の違いを詳しく説明できたひとは、いません。
no.107 記入なし (05/08/28 21:27)
仏教では中道実相を説きます。
no.108 記入なし (05/08/29 07:44)
欲というか。苦しみから逃れたいから
仏にすがるわけであって、
仏様に帰依しますから早く苦しみを取り除いてください。
般若心経をとなえれば即ち苦を抜き楽を与え・・・てくれるんでしょ。
お願いします。観音様。
no.109 記入なし (05/08/29 07:49)
多分、この時代の人間は苦しみから逃れ(悟り)られる人はいないと思います。
今は末法の時代ですから。
no.110 記入なし (05/08/29 09:08)
昔は宗教を新たに設立しても金儲けはできなかったであろうと思うのですが現代では
金儲け目的だったり、私利私欲のために宗教法人を設立する人がいますよね。とゆう事は昔の人が説いた教えは本物だとゆうことでしょうか?教義をみても現代の人が見ても
素晴らしい内容のものですし。新興宗教は一見、そこそこよくできている風に見えても
教主に都合の良い内容だったり、お金を自分の欲のために集めたり、あきらかにおかしいですよね。明治以降に新設された宗教は本物ではないと私は思うのですが皆さん、どう思われますか?
no.113 記入なし (05/08/29 10:10)
明治維新の頃にも沢山の宗教や宗派が出来ましたね。
本物は1つぐらいではないではないでしょうか?
その他は本物では無いと思います。
no.114 記入なし (05/08/29 10:21)
明治維新以前は、科学の著しい発展や合理主義の考え方がほとんどなかったわけだから、
超常現象や奇跡のようなものを、神の摂理と考える他なかったんだと思うし、その理論
には非合理的な部分があったとしても、それでも認めてしまうような重厚な説得力があ
るように思える。
したがって、そのような状況下で生まれた信仰には、神の存在を肯定させるような力が
あるように思う。
逆に、100年前のあらゆる夢を科学技術の進歩によって実現してしまった現代、この
時代に生まれた新興宗教は、神の存在を眉唾物としか思わざるをえないような空気が流
れている。
宗教も伝統がブランドを作る時代になってきたね。
no.115 記入なし (05/08/29 10:25)
>>106
まぁ仏教とは何か?という事を探求しているに過ぎません。
>>107
まぁ簡単に言うと、
欲には、いい欲と悪い欲があります。
(例えば、もっと勉強したい。みんなを幸せにしたい。平和でありたい。等です)
煩悩には、悪い煩悩しかないという事です。
よってカテゴリー上、欲の方が大きくて、煩悩は仏教用語という事です。
>>109
仏教の基本である四諦八正道の実践でしょうね。
仏に願いをかけても、努力をしなくてはダメです。
また物理的痛みは、神仏でもどうにもならないが・・・。
>>113
本物かどうか、というのは分かりませんが、
犯罪が絡む事も多い気がします。
そもそも宗教は善であるという日本(行政)の解釈も
オウム事件以降、変わりつつある様です。
しかし、信者にとっては本物なんでしょうね。
非信者にとっては、滑稽としか見えませんが・・・。
no.118 ハンコ屋 (05/08/29 10:49)
仏教では一切の物事は 因縁 と 果報 で働いていると考えます。
因縁の因と縁は違います。
この違いは大事である。
今ここに新しい家が建っているとします。
これは果報(結果)に当たります。
一、誰かがここに家を建てようと目的や意志を持つ
二、その為に色々な材料を集めたり設計図通りに作られる
この二つによって家が建ちます。
一番目の誰かがここに家を建てようと目的や意志を持つことが「因」であり、
二番目の材料や命令された大工さん達が「縁」です。
つまり、現代人の常識ですと、
原因があって結果があるとしか考えませんが、
原因の中にまったく質が違う因と縁の二つの違いがあります。
観世音菩薩の考えは必ず、因と縁を探し、その上で対処せよということです。
たとえば、夏の夜空に花火が上がったという果(結果)があるとする。
普通の人は、花火が上がった綺麗、
あの花火は、珍しい火薬を使い腕の良い花火師上げたのだという縁だけしか考えないでしょう。
しかし、観世音菩薩の考えでは背後にある目的を持った因を観ようとしますから、
花火大会を計画したのはどこそこの団体である。
で、そこの団体は、市民に喜んでもらおうとして計画をたてたのだ。
だったら感謝する事が大切だ。
と考えて「ありがとうございます」という気持ちになる。
つまり、世の中の全てのことはどんなことでも、
誰かが何かの目的を持って実行された因があると考えなければならない。
表面の言葉だけを額面通りに受け取るから問題がこじれるのです。
no.119 記入なし (05/08/29 11:06)
日蓮聖人の浄土宗批判
日蓮証聖人が「立正安国論」で浄土宗を批判した理由は3つあります。
1、浄土宗が崇めている経典、浄土三部経は釈尊が方便として説かれた教えであるからです。
釈尊はご晩年、いつの時代のどのような人々にも救いをもたせようと
「法華経」という教えを説かれたのですが、
それまでに説かれた他の教えは、ある特定の人々のレベルや悩みに合せて説かれたもので
普遍性を持った教えではありません。
浄土宗が崇める浄土三部経もそのような教えの一つなのです。
2、浄土宗では阿弥陀仏という仏を本尊としていますが、この仏は法華経に説かれる
根本の仏、久遠本仏がこの宇宙のさまざまな国土に垂迹の仏として、
つまり分身として顕れた仏のお一人なのです。
しかもこの阿弥陀仏は、西方十万億土という遠い彼方の国土を救済のテリトリーと
する仏で、私達にとっては無縁の仏です。
この私達が生きる地に、本仏の垂迹として顕れたのは釈尊なのです。
日蓮聖人は我々にとっての師である釈尊を軽んじ、他土の仏を崇めるのは筋違いでは
ないかと浄土宗を批判されたのです。
3、浄土宗は現実逃避の教えだということです。
日蓮聖人が活躍された時代、すなわち今から約750年前の日本は、戦乱に加え、
地震、風水害、それにともなう飢饉や疫病によって人々は大変な苦しみを 味わっていました。
日蓮聖人はこうした惨状をを憂い、法華経の教えを弘めて、人々を救おうとされ、
また時の権力者に「立正安国論」を送り、その政治姿勢を正そうとされました。
ところが浄土宗は、この世は所詮、苦しみの多い世であるから、
阿弥陀仏にすがって早くこの世から逃れ極楽浄土へ生まれ変わるように祈りなさいと、
来世の救いのみを説いていました。
日蓮聖人は、このような現実逃避的な浄土宗のあり方を釈尊の精神に反するものとして 批判されたのです。
と聞いたことがあるのですが、どうなんですか??
no.122 記入なし (05/08/30 08:30)
>>122
人がどう思うか?
ではなく、自分がどう思うか?の方が大事ではないかな。
これだけ情報があふれる社会において、教相判釈は
あまり意味を持たない気がするね。
むしろ、己の依って立つ宗教よりも個人の思想を大切にしたいですね。
no.123 ハンコ屋 (05/08/30 10:29)
お坊さんがニュースで法話をしたら、すこしは凶悪犯罪が減るのでは・・・・と思うのですが?いかがですか?それも毎日がいいと思う!
no.124 囚人 (05/08/31 11:23)
法華折伏
破権文理
no.125 記入なし (05/08/31 12:44)
なるほど、
よく言う宗教をやると功徳があるという。いわゆる見返りを期待している、善行である。偽善とも考えられる(相手のためにしてやったのではなく自己のためなのだから)
この見返りを期待した善行及び信心は悪いよくですか、いい欲ですか?
私は悪い欲だとおもいます。そうすると煩悩ということになりますので、菩薩になる為には煩悩をすてなければなりません。そうすると功徳を期待してはダメと言うことになります。
結果宗教は無意味か、じつは、見返りという功徳を期待した、偽菩薩しか存在しないことになります。
no.126 107 (05/08/31 13:45)
生活苦しい中、葬式法料25万+α払って経上げてもらった坊主が「なんでも鑑定団」で
小坊主達のためにと買った中古リゾートホテルのなかに飾ってあった絵を鑑定してくれ
とほざいた住職持ったを檀家の気持ちno.124には解かるまいw
先週テレビ見てて唖然としたわ。
no.127 記入なし (05/08/31 13:58)
>126
それは功徳よりも利益ではないのでしょうか?
no.128 記入なし (05/08/31 17:27)
禅宗…自らの修行によって、悟りを得ようとする自力の仏教。
仏教は因果の道理を説く宗教です。
修行という因を無視して悟りとか功徳(メリット)という果を得ることが
出来ないというのが大前提です。
禅宗は自身が瞑想等の修行によって我が心の奥を観察し、コントロールし、
心の汚れを取り除き、浄化しようとするのですが、
これは特別な能力を備えた人が、長年の修行を得た後に得る事の出来る「果」であって、
我々のような凡夫には向かない修行です。
no.129 記入なし (05/08/31 17:51)
うちのいとこがやっと副住職から住職になりました
なんか人間関係が大変みたい
no.130 記入なし (05/08/31 17:58)
>130
何宗ですか?
no.131 記入なし (05/08/31 18:00)
曹洞宗です 副住職時代に住職とそりがあわなかったのか
結構 転勤? してました
no.132 記入なし (05/08/31 18:03)
私はお坊さんじゃないんでわかりません いとこがお坊さんなので・・・・
no.134 記入なし (05/08/31 18:33)
128
そのとうり、宗教は偽善に近い物があります。
129
私が言った、見返りの欲(自己の利益)を期待した功徳は、宗教とはいえないと思う。
理由として、利益を得ようとして、努力(修行)するのは、凡夫のせかいでも当たり前、
例えば、宗教を極めて、人に物申すのに、自己の利益のために修行したが、みんなを助けるために道理を説いた場合(建前)、説かれた相手は信用するだろうか?バカであれば信用するでしょう。
no.135 107 と126 (05/08/31 18:57)
>121
大乗経典というのはすべて、釈迦様滅後、早くて400年。
あるいは500年、600年。
真言密教をより所としている経典にいたっては、、700年、800年たってから
生まれてきているわけですから、そういうことで、文献学的な発想で仏教を
研究するという姿勢が明治になって生まれて、「大乗非仏説論」というのは、
あくまでも文献学的アプローチの上での話し。
仏教経典に対するアプローチというのは、
信仰のアプローチと文献学的アプローチでは全く次元が異なるということを
よく認識しておく必要があります。
なぜそういうことが言えるかというと、お釈迦様が説かれた教えというのは、
文字に記録されたことはないのです。
お釈迦様自身もご自分で文章書いて残されたということはないのです。
聞いた者が筆記したかというと、してないんです。
要するに、当初はお釈迦様の生の声が耳に入ってそれを伝承しながら、伝えていった。
それは、たとえばユーカラという、アイヌの伝承の歌というものがありますね。
これは膨大な量ですね。
それを何百年もの間、アイヌの人たちは文章にしないで、口伝えに伝承してきているんです。
口伝えに伝承していくと、そんな膨大な歌というか物語というのはどこかでゆがめられて
くるように思うけれども、誤りなく伝わってきているわけですよ。
むしろ、文字に頼らない人たちというのは、それを暗記しやすいリズムをもって、
韻を踏んだかたちにして歌い継いでいくという形で伝承しているので、
経典なんかも大体そういう形で伝承してきたのです。
結集といってみんな、まず最初にお釈迦様が亡くなった翌年に第一回の結集があって、
全国からお釈迦様の教えを聞いた人たちを集めて、それをお互いに発表しあって、
また定期的に集まっては確認しあっていくという作業をずっとしていきながら、
やがて、百年たって、ぼちぼち文章化された経典になっていくわけです。
だから、原始仏教といわれる経典でさえ、お釈迦様滅後、約百年を経過して、
だんだん作られていった。
ということでいうと、これは大乗仏教も原始仏教も成立過程としては
五十歩百歩なんです。
no.136 記入なし (05/09/01 09:30)
仏教の教えが伝わってきたというのは、経典という形の文章として教えとして伝わってきた
という面もあるのですが、もう一方で、仏教は修行ですから、行として実践的な伝わり方が
なされるわけですが、これがやはりお釈迦様の時代と後の時代とでは違いが出てきます。
例えば、単純なことをいうと、昔の人が仏壇を明るくしなきゃならないから
ローソクをお供えする。
ローソクを供えるというのは、明かりを供えるためです。
仏壇を明るくするための手段としてローソクを用いた。
その前の時代には、油にしん棒をつけてそれで灯す。
目的は明るくするということです。
だから、だんだん、だんだん時代がたってきて、電気が発明されるようになる。
けれども保守的な人は昔の人がローソクを使われた、だから今もローソクを
使わなければならん。電気を使うなんてとんでもないと。
こういうふうにいう人と、いやそうじゃない、昔の人がローソクを灯されたのは、
仏壇を明るくしようというのだから、電気が発明されたのなら、
電気を使って明るくしてもいいじゃないか、というふうに、いわば時代の変化に伴って、
形態的なものは変えていこうという派、
つまり革新派と保守派の対立があって、仏教の分裂が始まっていくわけです。
お釈迦様滅後、そういう保革の論争がまもなくはじまっていくわけです。
そいうなかで、僧侶の仏教として、お釈迦様のようにお坊さんは自分も悟りを開くために、
山にこもり、僧院にこもって、ただひたすら一生懸命修行する。
そのためには世俗、俗世間との接触を断たないと、いろんな誘惑に負けて、
仏道が堕落するということから、人々との接触もできるだけ断って、女の人とはしゃべらない。
遊興の音楽は聴いてはいけないというような戒律を設けながら、
ただひたすらピュアな世界を築いていくわけです。
この人達が、原始仏教といわれる経典を非常にあがめて、尊重していったわけです。
ところがそのころから、お釈迦様が悟りを開いた目的はなんだったんだと、
その一番根本の精神に帰ろうじゃないか。
そうするとお釈迦様は、ただ自分一人の救いのために出家されたのかと。
そうじゃなくて、「四門出遊」の話にあるように、老人が老いさらばえる姿を見、
病人が手当てなく死んでいく姿を見、さまざまな人々の苦悩を見て、
この人たちのこの苦悩というのは何によってもたらされているのか、
それを乗り越える方法はないものかということから、出家された。
自分一人の救いのための自己完結的な修行であればなんら人にそういう教えを
説く必要はなかったのに、悟りを開いてから八十才で入滅される間、
ひたすら人を導き続けられようとした。
というの化他、つまり人を救うということのために、お釈迦様はその全生涯をかけられたのだ。
とするならば、その姿にこそ、我々は見習うところがあるんではないか。
ところが多くの僧侶、出家者はそういう本旨を見失っているではないかと。
だから、もういっぺんお釈迦様の根本の精神のところに立ち帰って仏教をとらえ直そうと
いうのが、大乗仏教運動だったわけです。
no.137 記入なし (05/09/01 10:26)
ハンコヤさんは仏教とは何か?という事が分かりましたか?
みなさん
「生きる」とは?
「仏教」とは?
no.138 記入なし (05/09/02 08:50)
24時間テレビは面白い。
no.139 記入なし (05/09/02 08:52)
>no54
>発祥は何かわかりませんが、こんなのあります。
>中国の格言に『一笑一若一怒一老(いっしょういちじゃくいちどいちろう)』とあり、
>一度笑うとそれだけ若返り、一度怒るとそれだけ老けるという意味です。
>人間は、楽しくなくても笑っていると楽しくなってくるそうです。
これにも言葉が足りず危険性があります。
笑いには魔の笑い(修羅界)と、人間界(平らかなるは人なり)の笑いがあります。
魔の笑いの会話で、笑わされてると自分の心もちゃんと勉強していないと
気が狂ってきます。
一番怖いのが、良い笑いを普段は言ってて良い人だなと思ってたら。
いざ管理職や何らかの地位が付いたとたん豹変してしまい菩薩界には縁せずに
修羅界に入ってしまう人です。哲学・心理学を勉強しても悟れずに悪利用してしまう
人も居ます。このような誰もが接続して閲覧できるBBSで悟れない者に言っても
詐欺などに悪用される可能性もあるのでそれが怖いですね。
笑いは一番怖い分かりにくい巧妙なテクニックとして魔にも使われてしまいます。
人は笑ってる時がいちばん魔にも誤魔化されやすいのです。
テレビなどでニュースキャスターや漫才氏に魔の笑いを見てる方がさせられていても
感染して行きますね。
ちょっと仏教の歴史とは違いますけど、こんなこと悟れます。
no.141 記入なし (05/09/09 18:09)
早く夢枕に観音さまが現れてありがたいお言葉
を授けてくれますように。
no.142 記入なし (05/09/09 20:27)
あれ、なんで上がってるんだろう・・・。
no.145 記入なし (05/09/13 21:36)
ほとけは常にいませども
うつつならぬぞあわれなる
人の音せぬあかつきに
ほのかに夢にみえたもう
no.146 記入なし (05/09/14 17:07)
現代で八正道やったら、生きていけんだろ。
no.147 記入なし (05/09/14 20:25)
せっかく正しいと言うことを教えても貰っても、魔の入った権力者に脅され
直ぐに、寝返る人がほとんどで。これが正しいんだと教えて疑いを無くすよ
うな事をしても、詐欺師などの標的にされてしまうのが悲しいですね。
仏の種を植えて行かなければ行けないのは分かりますが。
なにもしらない年上の凡分がいろいろ仏法を勉強してる年下に対して
権力で圧力をかけ脅すさまを経験してしまうと助けてあげるのもいやになりますよ。
テレビや新聞や広告で「勝ち組」「負け組」だの報道して煽り立て、余計なお世話だと
思いますが。そんなにいろいろ用語を作って煽るんだったら、それをフォローする
指導もしたらと思いますよね。何も知らない凡分の尻拭いするために活動してるんじゃない!!
no.148 記入なし (05/09/14 22:52)
>148 創価の方?
no.149 記入なし (05/09/15 00:29)
同じ人間なのに、宗教の違いで
死後、行き場所が違うと言う事が考えられない。
一体なぜだ?いくら考えても分からない。
考えた結果、死んだら輪廻もへったくりも無い。
神の元へも行かない。
なんも無くなる。無になるんだ。
だから仏壇作ろうが、墓建てようが
そんな事してもなんも意味は無い。
no.150 記入なし (05/09/15 00:40)
オン ベイシラ マンダヤ ソワカ
no.151 記入なし (05/09/15 12:23)
>no.150
凡夫でも見えない・聞こえない人が居ますが霊の存在は真実です。
さ迷う霊も居るし、話が出来る霊も居ます。まったく話が出来ない霊も居ますし、
ボルターガイストのような現象を起こす霊も居ます。守護霊としての役目をしようと
する霊も居ます。どう言う境涯の違いでそうなってるのかは私自身には分かりませんが。私は法華経や日蓮大聖人様の御書などから現在勉強してますが。
自分自身に能力が無い話はやっぱり自分には解けないでしょう。
私の能力の縁した範囲では死で終わりでは無いですよ。
なんらかの意思を持った魂の生命体に変化する者もいます。
>死後、行き場所が違うと言う事が考えられない。
私の現在の空想では、また十界のような何層にか分かれた境涯が有るようです。
上記の私が言った実体験の霊の存在からしても分かるように「行き場が違う」
心が違うんですよ。
>一体なぜだ?いくら考えても分からない。
持って生まれた生命力と福運と正しい修行と科学的には証明できない
体験を目撃できる縁だと思います。
いちばん確信を掴むのは科学的には証明できない体験を目撃してしまう
ことですが、あまり変な所に遊び半分で行くのは危険です。
行ったとしても必ず縁出来る訳でもなく・・・
場合によっては厄介な者になるかもしれませんしね。
同じ人間なのに、とおっしゃってるとうり、私も不思議です。
仏様はなぜ死後の先までその存在を見せてくれる人と見せてくれない人と居るのか。
no.152 記入なし (05/09/15 14:32)
>150
1秒間の間、小指にどれだけのニュートリノが通っていると思うの?
非科学な人間は霊を信じません。
no.153 記入なし (05/09/15 17:43)
宗教団体は非課税!
no.154 記入なし (05/09/15 17:54)
ニュートリノって粒子聞いた事あるが、それと人間の意識(パルス電圧)と何か関連があるのカ??
no.155 記入なし (05/09/15 17:55)
>1
貴殿は創価学会員?
no.156 記入なし (05/09/15 18:20)
>>155
それは「氣」のことですねw
no.157 記入なし (05/09/15 19:54)
>153
1秒間で約1兆個以上です。
それだけ科学は未だ進歩していないってこと。
no.158 記入なし (05/09/16 14:08)
>158
科学が進歩してないのは分かるが、だからニュートリノの実情も”誰も把握してない”と言うことではないか?それとも君は世界一の科学者か?
no.159 記入なし (05/09/16 14:26)
ネット上で説明されてるニュートリノ記事を読むと、人体から発生してる物質じゃ無いようですね。霊は私が感じるには、ひとつの固まりの用で、それぞれが声の質も違い
子供の声・大人の声・男女の声の違い・おばあちゃんなど音質が違います。
聞こえてくる方向は、同じ場所に自分が居ても、聞こえてくる方向が変わります。
近ずいて聞こえたり、遠くに去って行くように聞こえたり。
なぜか、聞こえる語源は日本語の標準語です。といっても自分が英語で心の中で話すと
霊もその言葉を繰り返したりするので、私が英語を話せば繰り返して英語を話してたりもします。(意味が分かってるかどうかは分かりませんが)
言葉じたいは私が話してる言葉を繰り返してるだけではありません。
自分の意思を持って話してる時も有ります。他の私以外の霊に話してる時も有ります。
私は聞こえるタイプで姿が見えるタイプじゃないのでこんな感じですね。
もし、こんな症状になっても病院では仕事の疲れだろうと言われ、調書を取られて、
睡眠薬のような鎮静剤を買わされるだけです。その薬を飲んでも気がだるくなり
仕事も自動車の運転も出来なくなります。ちゃんとした仏法を知ってれば霊に対して
説法も出来ます。あまりひどい霊だと脅しをしてきます。
まあ、良い脅しなら良いのですが。
なにか、聞こえてしまった時はその霊の相手に返事はしないようにした方が凡夫は
無難かもしれません。
こんな実体験を話しても、ただの怪談話にしか思えないでしょうけど。
>no.150さんは霊感の実体験が無いからそこで悟りが止まっちゃって
結論ずけちゃったんですよ。さらに経典は説かれてますからそちらを読んでみては
どうでしょうか。(縁無くして読んでも納得できない部分は有りますけど。)
{無}の悟りは、足場でそこから新たに冷静になって何かを探せと言うことだと
思うのですが。どう思いますか?
no.160 記入なし (05/09/16 17:54)
>159
ニュートリノは科学の例え。霊とは関係無し。
科学が未だに進歩してないって事を言いたかっただけ。
no.161 記入なし (05/09/16 18:02)
仏教の教え
仏教の教えをまとめることは大変難しい。
ブッダは、相手の素質などに応じて話す内容を変える、つまり対機説法をしたといわれているし、仏教には8万4千もの教えがあるともいわれている。
しかしこれでは、仏教の根幹は何かということについてとまどうことにもなりかねない。そこで、古来、仏教では、これらについての教えをまとめて、3つないしは4つの「法印」というものをたてた。
<諸行無常>
すべてのものごとは、いつまでもそのままではいない。とくに人間は必ず老い、病み、そして死んでしまう。これはわれわれ人間がいやでも直面しなければならない事実である。無常であるからこそ、なおいっそう心して仏道に励まなければならない。
<諸法無我>
ものごとには、固定的・実体的な本体(我)がないということを意味する。自分の本体があると思うからこそ、「自分が」とか「自分のもの」といった意識が生じ、我執のとりこになってしまうのである。
<一切皆苦>
輪廻のこの世そして人生は苦しみに満ちている。これを四苦八苦という。
生 苦
生まれるときの産道通過の苦しみ。
老 苦
いつまでも若くはいられないという苦しみ。
病 苦
病にかかる苦しみ
死 苦
死は必然的に訪れるという苦しみ。
愛別離苦(あいべつりく)
愛しいものといつかは別れなければならないという苦しみ。
怨憎会苦(おんぞうえく)
いやな人ともつきあわなければならないという苦しみ。
求道得苦(ぐどうとっく)
求めるものが得られない苦しみ。
五陰盛苦(ごおんせいく)
総じて、心身(五陰)の活動が盛んであることによって苦しみが生まれること。
<涅槃寂静(ねはん じゃくじょう)
また、ブッダが悟りを得たとき、どのような真実を発見し、何を説いたのか。このことについても、古来いろいろと議論されてきたが、かなりの確率でいえることは、それが四諦(したい)の教えではなかったかということである。四諦とは、「四つの真実」ということを意味する。
苦諦
上述の四苦八苦を指す。
集諦
苦しみが生ずるにはちゃんとした原因があるのだという真実。では、苦しみの原因は何かといえば、この世 に生きるものの心のもっとも奥底にある、この世のさまざまな物事に対する「渇愛」であるという。この「渇愛」というのは、ただの欲望ではなく、抑えがたい生への衝動というべきものである。後世、この苦しみの根本原因である「渇愛」は、「無明」ということばに置き換えられることもあった。
滅諦
苦しみをもたらす原因を取り除けば、苦しみがなくなるのだという真実。苦しみの原因である「渇愛」「無明」を滅すれば、結果である苦しみがなくなるのは当然の道理である。
道諦
それでは、苦しみ、そしてその原因である渇愛ないしは無明をなくすための道、方法はあるのかというと、これは確かにあるのだという真実。
これが具体的に八正道という形で説かれる。
一、正見(正しい見解)
二、正思(正しい思考)
三、正語(正しい言葉づかい)
四、正業(正しい行為)
五、正命(正しい生活)
六、正精進(正しい努力)
七、正念(正しく記憶に留める)
八、正定(正しく精神統一すること)
いずれにしても、極端を離れ、「中道」の道にかなったものであるといえる。これら八つの正しい道を行えば、人は必ず苦のなくなった状態、すなわち涅槃(ニルヴァーナ、心の平安)に達するというのである。
no.162 記入なし (05/12/03 16:02)
八正道を実際実施したら、仕事できなくなる人が居るんじゃないか?
no.164 記入なし (05/12/03 17:11)
卍
no.165 宣教師の辻説法 (05/12/03 21:22)
悪人正機。悪人正気?
no.166 記入なし (05/12/03 22:36)
>162
理屈よりも実践だよな。自殺スレの人間助けてみろ!
創価学会にしても、既存仏教にしても金儲けばかりでなくて救え!
no.167 記入なし (05/12/27 17:20)
創価学会は犯罪集団、堅気の人間に嫌がらせ三昧する
no.168 記入なし (05/12/29 20:24)
隋方毘尼(ずいほうびに)
「委細に経論を甚カえ見るに仏法の中に隋方毘尼と申す戒の法門は是に当り、
戒の心はいたう事欠けざる事をば少々仏教にたがうとも其の国の風俗に違うべからざるは
よし仏一つの戒を説き給えり」
「隋方毘尼」とは、わかりやすく言えば相手が倫理・道具(公の規則・常識も含む)を破った時、相手の立場にたち、目先の規則にとらわれず、その規則の目的のほうから考えて相手をゆるし、なぐさめ、励ます心を指します。
「隋方毘尼」の「隋方」とは「全ての方角の場所へ、いろいろな時代へに合い従う」と言う意味です。
又、「毘尼」とは、「ビナヤ」というサンスクリット語を「ビニ」と呼んで呉音を当てたものです。
「ビナヤ」とは「律」を指しますから「毘尼」とは仏教的な倫理・道徳・公の約束を意味するとよいでしょう。
よって「隋方毘尼」とは簡単に言えば、場所によって、時代によって倫理道徳を柔軟に考えるという意味になります。
つまり相手に対してやさしさ、ゆとり、よゆうをもって対応することです。
倫理道徳は必ず厳然として宇宙法界に存在するけれども、倫理や道徳や公の約束を規則通りにがんじがらめに守ったり、人に守る事を要求しすぎることはかえって人を苦しめ、自分を苦しめる結果になると言う意味です。
車のハンドルでも必ず遊びがあります。
ハンドルに遊びがないと高速道路ではすぐに横の壁に衝突してしまいます。
少々ハンドルを左右に振っても、車輪はその通りには左右に動きません。
だから安定が保たれ、安全に運転できます。
人間の心臓も同じ事が言えます。
毎分60回の脈の人でも、正確に計ると59回だったり、58回だったりと毎回違っています。
平均すれば60回だということです。つまり60回前後を行ったり来たりしています。
このゆらぎ、このゆとりが生身の人間にとって大変大事だそうです。
もし毎回60きちんと打ち続けている時があるとしたら、まさにその人が死を迎えようとしている極めて危険な時だそうです。
同じように倫理や道徳や公の規則は、宇宙法界には物理学の法則と同じように厳然と存在しますが、それを厳密に守ろうとするとかえって人間に害を及ぼすのです。
全ての規則には「やさしさ」「ゆらぎ」「よゆう」があってこそ規則が生きてくるのです
つづく。。。
no.169 記入なし (06/04/30 13:34)
「隋方毘尼」つづき
<規則にこだわると・・・>
有名な話ですが、ある一流大学を出て大企業に就職した人が研修でコンビニの手伝いに派遣されました。
店長から毎日店の外に植えている植木に水をやる仕事を指示されました。
研修生は真面目にその通り毎日実行しました。
ところが大雨の日も傘をさして植木に水をやっていたそうです。
約束や規則の守りすぎの一例でしょう。
何の為にこの指示があるのか、その目的を知ったら雨の日は水をやる必要がないくらいのことはわかるでしょう。
世の中の全ての事にあてはまります。
世の中の事は規則通りに動いているようであって一つ一つ見れば全て違います。
世界中の人間、60億の人は全ての顔があり、心臓があり、肺がある共通の身体ですが、誰一人として同じ顔、同じ手、同じ足、同じ心臓の人はいません。
だから「隋方毘尼」という心を持つことは大変大切なことです。
つづく。。。
no.170 記入なし (06/04/30 14:53)
「隋方毘尼」つづき
<四条金吾さんの隋方毘尼とは>
日蓮大師は四条金吾殿に「倫理・道徳はもちろんの事、二百五十戒という厳しい戒律を守る聖人は、濁世という常に変化し汚れた世の中にあってはひとたまりもなく死んでしまう。
又、仁義礼智信という「五常」を絶対に守れと説く道徳理想主義者の賢人も、この濁世にあってはとてもその通りに実行できない」と諭しておられます。
その上で四条金吾、あなたは大変短気だから気をつけよと折伏しておられます。
日蓮大師はきっと次のようなお気持ちだったと私は拝察します。
「あなたの弟達があなたの指示を聞かず勝手に行動すると、あなたはすぐに短気をおこしておこるでしょう。
又、あなたは女性達が御飯を焦げ付かせたり、おかずを辛くしすぎたり、掃除が行き届いていなかったり、幼児を放っておいて危険な目に遭わせると、短気な性分が災いしてきつく叱正してしまうでしょう。
倫理道徳を守らせようとするとその短気が逆に折角の倫理道徳を壊し、弟や女性達のやる気をそいでしまうことになるのです。」と。
そして「弟や女性達が少々失敗しても規則や倫理ばかりを主張せず、相手の気持ちを汲み取り、許し、ゆとりを持って接しなさい」とご教訓下さっています。
又、「第一秘蔵の物語あり」と配慮されて、ある天皇が短気を起こした為に臣下に殺された事例まであげておられます。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」です。
どんなに立派な倫理・道徳・公の規則が目的を失ってしまいます。
怒りの心をもって人に規則を押しつけ、相手を責めすぎるのは「隋方毘尼」ではありません。
かえって相手を苦しめ罪を作ると心得るべきでしょう。
又、自分の正義を強調するあまり、相手の理不尽を強く激しく糾弾してしまうと、相手が規則を守るどころか、反発してかえって逆の結果を招きますし、自分も罪を作ってしまうということを知るべきです。
no.171 記入なし (06/04/30 15:22)
何か見たことあるスレだな。
no.172 無職侍 (06/04/30 15:23)
宗教スレ
no.173 記入なし (06/04/30 15:25)
法華経は円教である。
円教ーー世の中の全てのものが無限の直線の端と端とがつながって、円になるように、両極端は 実は同じ性質であるという教え。
・最悪の逆境は、最善の順境に変わりうる可能性を秘めているし、最善の順境は、最悪 の順境になりかねない。
法華経成立期とキリスト誕生期を調べてみてごらん。
no.175 記入なし (06/04/30 15:50)
どこかの世界へいっちゃってますなぁ。
no.176 記入なし (06/04/30 16:07)
「仏を敬うが如く」が失敗を防ぐ。
好事の魔は謙虚な心には入らない。
世間でも「好事魔多し」と申すように、うまくいっている時こそ、足下をすくわれることがある。
好事の魔が心に入ると、「自分がやる事は全てうまく行く」と魔から思い込まされますから、頼みごとや安請け合いを簡単にしがちです。
又、「自分は正しい」という自身過剰に好事の魔からさせられていますから「まずい」と思っても非を素直に認めようとはしません。
重要問題でも、今までは色々な人に相談して決めていたことでも、好事の魔が心に入ると、「順調に行き過ぎ」が自信過剰を生み、自分に忠告する人はすべて目の上のたんこぶに見えてきて、おべっかを使う人がかわいく見え、好事の魔が欲望、野望をたきつけて、結局誰にも相談せず、当てにならない自分の直感で独断決行してしまいます。
その結果、取り返しのつかない失敗をしてしまう、という事になりがちです。
好事の魔には、謙遜の心には入ってきません。
好事の魔は人が自惚れすぎた時、あるいは自尊心が高すぎた時、あるいは目立ちすぎた時、あるいは人から褒められすぎた時などに、その人の心にスーっと入ってきます。
入ってきますと、陰魔の一種ですから、煩悩障・業障・報障の三障の領域で人を苦しめます。
煩悩障の領域では、
*信用回復不可能な初歩的な大失敗をしてしまう。
*一円のお金でもけじめをつける金銭感覚を失い、経済的に破綻する。
*うまい話にのってしまい、大損する、などの大きな厄介な問題を抱えてしまいます。
業障の領域では、
*「まずい」と心で思っても、素直に家族に謝れなくなり、家族同士の不和を招く。
*他人からの安請け合いをしてしまい、結果として家族に迷惑をかける。
*家・土地を買う、家・土地を売る、引越しする、などの家族の重要問題を勝手に決めてしまい、決定的な家族不和を招く。
報障の領域では、
*野望が膨らみ、未経験の大仕事でも準備なしにすぐに取り掛かってしまい、失敗をする。
*うまい話に乗り、だまされて人を恨む結果になる。
*中傷や陰口にムキになって怒り、正当な判断が出来なくなり失敗をする。
no.177 記入なし (06/04/30 16:22)
父母恩重経(ぶもおんじゅうきょう) ・・・には次の事が説かれています。
「善男子、善女人よ、父母の恩を整理して説くと、十種の恩徳に分けられる。
一、母が子を懐胎中に命をかけて守ってくれた恩
二、出産に臨んで産みの苦しみに耐えてくれた恩
三、子が生まれると、その苦しみを忘れ喜んでくれた恩
四、自分の身体を削ってでも子に乳を飲ませ養育してくれた恩
五、いつでも子の為に良い場所を与え、自分は悪い場所を選び、寝食をともにしてくれた恩
六、子の汚いうんこを素手で、洗い世話をしてくれた恩
七、子に食べ物を与える時固いもの苦い物は自分が飲み込み、おいしい物を子に与えてくれた恩
八、子の為にはあえて、悪者になるのもあたりまえと思って、育ててくれた恩
九、子が遠くに行った時、昼夜を問わず安否を気遣ってくれた恩
十、何から何までどこまでも子をいつくしんでくれた恩
かくの如く、父母の恩の重い事は、天を支えるよりも重いのである。」
no.178 記入なし (06/04/30 16:41)
誰にでもわかりやすく言ってほしいよ。
no.179 記入なし (06/04/30 17:15)
毒矢の例え
昔、お釈迦様の弟子の一人が深刻な顔をしてこう尋ねました。
「お釈迦様、私は一人で修行をしながら次のような疑問を感じました。
是非お答え下さい。
もし答えていただけないのなら、私は修行を辞め、僧を辞める考えです。
世界は永久に存在するのでしょうか。
それとも限りがあるのでしょうか。
また、世界には果てがあるのでしょうか。
それとも無限に続いているのでしょうか。
それから、霊と体は一体のものなのでしょうか。
それとも別々のものなのでしょうか。
どうかお答え下さい。」
お釈迦様は静かに問い返されました。
「おまえが私の弟子になる時、私はお前にそんな事を教えるから弟子になりなさいといいましたか?」
「いいえ・・・。」
「お前が弟子になる時、お前はそういうことが知りたいから弟子にしてくれと言いましたか?」
「いいえ、言いませんでした。」
「弟子よ、よく聞きなさい。
もしお前がそのような疑問に対する考えをあくまでも求めると言うのなら、その前にお前の命の方が尽きてしまうだろう。」
つづく。。。
no.180 記入なし (06/04/30 17:53)
毒矢の教え つづき
「ある男が毒矢で射られて苦しんでいたとしよう。
家族の者達が医者を呼んで治療を始めた。
医者がまず矢を抜こうとすると、その男は叫んだ。
「矢を抜いてはならぬ。その前に、この矢を射た者はなんという姓でなんと言う名の者か。
背は高いのか低いのか。太っているのか痩せているのか。色は黒いか白いか。
東から来たのか西から来たのか。又は南か北か。
それらの事が分からぬうちは矢を抜くな。矢羽は鶴の羽か鷹の羽か、または鶏か雉か。
それが分からぬうちは矢を抜くな。弓矢を作った者は誰か。どこに住んでいるのか。
私はまずそれが知りたい。」と。
こんな事を言っていたなら、答えが出ないうちにその男は死んでしまうだろう。
弟子よ、それと同じ事なのです。
もし仮に世界は有限なのか無限なのか、答える人がいたとしても、その人自身にも生老病死の苦しみがあり、様々な悩みもあるのです。
私はお前の質問に答えない。
何故なら、そんな事は人間の本当の憂いや悩みの解決とは全く関係がないからです。
私が説くのは、一切が苦であること。
その苦には、原因があること。
その苦の原因を消滅するための道、これらの真理なのです。
私は説くべき事だけを説きます。」
弟子は黙ってうなだれました。
no.181 記入なし (06/04/30 18:14)
日蓮系宗派の出来た順番(あくまでも順番です。正しい教義とかではないです。)
@<単称 日蓮宗> − 日向{身延久遠寺}
A<本門宗> −日尊(本門寺)ー日目ー 日興{富士大石寺}
B<日蓮正宗> −(大石寺)日道ー日目ー 日興{富士大石寺}
C<顕本法華宗> −(妙満寺)日什ー日尊ー日祐ー日高ー 日常
D<法華宗> −(越後本成寺)日陣ー日静ー日印ー 日朗
E<八本門流・本門法華宗> −(本興寺等)日隆ー略ー 日朗
F<本妙法華宗> −(本隆寺)日真ー日具ー具覚月妙ー略ー 日朗
G<不受不施派> ー(妙覚寺)日奥ー日実ー朗源ー略ー 日朗
H<不受不施講門派>ー(本覚寺)日講ー日奥ー日実ー略ー 日朗
I<本門仏立宗> ー(宥清寺)長松清風日扇ー略ー日隆ー略ー日朗
J<本化妙宗> ー田中智学(国柱会)
K<創価学会> −<日蓮正宗>ー日道ー日目ー 日興
L<立正佼成会> −・・・・・・・・・ 日向{身延久遠寺}
<霊友会> −・・・・・・・・・ 日向{身延久遠寺}
日蓮ー日詔
−日頂
−日持 外国伝道
−日常 @顕本法華宗
−日向 @単称 日蓮宗
A立正佼正会・霊友会等
−日興 @本門宗
A日蓮正宗
B創価学会
−日朗 @法華宗
A八本門流・本門法華宗
B本妙法華宗
C不受不施派
D不受不施講門派
E本門仏立宗
no.182 記入なし (06/05/02 12:00)
意味ワカリマセン?
no.183 記入なし (06/05/02 12:45)
特に掲示板だと 冗漫は読まれませんよ
no.184 記入なし (06/05/02 14:29)
ゴータマブッダ
no.185 記入なし (06/05/02 15:46)
リーリンチェイって名前の小僧、名前変えたのか。
no.186 記入なし (06/05/02 15:48)
テレンス・リーだな。
no.187 危機管理部長 テレンス・リー (06/05/02 15:49)
語るよりアニメを見た方が早いのでは。
no.188 記入なし (06/05/02 15:52)
釈迦ってカッコイイ漢字。
no.189 記入なし (06/05/02 15:58)
創価学会
〔歴史〕
日興を派祖とする日蓮正宗の在家信者団体・創価学会は、昭和5年、小学校長の牧口常三郎と、学習塾経営者の戸田城聖によって設立された初等教育の研究実践団体、「創価教育学会」にはじまる。
牧口は、独自の教育理論・層化学会を体系化し、その基礎理論として、価値創造の哲学「価値論」を唱えた。
彼は熱心な日蓮正宗信者であったから、創価教育学会は次第に正宗系の新宗教に変質し、戦時下で活発な折伏を展開した。
太平洋戦争中、創価教育学会は、新宮大麻の奉斎を拒んだ事などを理由に弾圧され、彼は獄死した。
敗戦の翌年、戸田は創価学会の名で教団を再建し、昭和26年、会長に就任して、日本を救い、アジアを救う『折伏大行進』を宣言した。
学会では、日蓮正宗総本山富士大石寺に祀られている「大御本尊」の功徳と謗法の罰を強調し、現世利益と現状打破を結合した教義で全国的に進出した。
彼は、王仏冥合の理想世界をめざす政教一致主義を唱え、政治進出の目的として「大御本尊」をまつる国立戒壇の建立をかかげた。
同時に、他のあらゆる宗教と思想を邪宗邪義として攻撃するはげしい折伏を全国各地に展開した。
戸田の死後、昭和35年に会長に就任した池田大作は、戸田の政教一致路線を受け継いで政冶進出を本格化し、昭和39年、宗教政党・公明党を結成した。
公明党は、中道政党として発展したが、その過程で、公明党に対する信者以外の一般国民の広い支持を獲得するために、池田は国立戒壇論を後退させ、教義を次々と改変した。
そのため、教義をめぐって正宗と学会の対立が激化し、学会自体の内紛も表面化した。
昭和54年、学会は正宗側に全面的な恭順を表明して、彼は会長を辞任したが、その後も内紛は陰に陽に社会問題となり今日に到っている。
つづく。。。
no.190 記入なし (06/05/06 10:27)
創価学会 つづき
〔教義〕
創価学会は、日蓮正宗教学を基本に、牧口常三郎の「価値論」、戸田城聖の「生命論」「王仏冥合論」等をとりい入れた教義をかかげている。
正宗教学では、日蓮聖人は末法に出現した本仏であり(日蓮本仏論)、本仏の血脈は、日興以来、大石寺の歴代に相承されているとしている。
大石寺には、日蓮聖人が全世界に与えた(閻浮惣与の板マンダラ)至高の曼荼羅「大御本尊」が伝えられており、正法広宣流布の暁に、大石寺に「大御本尊」をまつる本門の戒壇を建立することによって、本仏の遺命が達成されるとしている。
正宗・創価の教義の核心は、日蓮聖人の絶対化に「大御本尊」信仰であり、ここから日蓮正宗法王と創価学会会長の事実上の絶対化と、本門の戒壇の建立を目的とする政教一致主義が導かれている。
また本仏からの血脈相承を宗教的権威の根拠とする正宗では、僧俗をきびしく区別し、在家信者に対しては、法王以下の全僧侶に対する外護と供養が厳しく求められている。
〔修行〕
正宗・創価の勤行は、朝五座・夕三座といい、法華経方便と寿量品を中心にした様式を定めている。
△五座
初座ー東の方を向いて観念文、方便品、自我ゲ
二座ー本尊に向かい方便品、寿量品全部、観念文
三座ー方便・自我ゲ、観念文
四座ー方便・自我ゲ、観念文
五座ー方便・自我ゲ、唱題(多いほどよい)、観念文、引題目
△三座・・・五座中の二、三、五座
つづく。。。
no.191 記入なし (06/05/06 11:20)
創価学会 つづき
〔折伏〕
@.日蓮正宗(創価学会)は、宗名の典拠を高祖の御妙判(法華宗内仏法血脈、法華初心成仏抄)を求めていない。
A.彼らは日興唯授一人の相承を立てて、日興付法の嫡弟をもって血脈相承を主張してますが、御妙判<生死一大事血脈抄>の意は、正法を信じて異体同心に唱題する弟子信者は、いずれも高祖付法の血脈相続者であることを述べられてあります。
B.彼らは本仏釈尊は脱仏であり、主・師・親三徳はいずれも゜日蓮本仏゜にありと主張します。
しかるに、釈尊は在世滅後を通じて三徳円満の本仏であって、単なる脱仏ではありません。
故に、日蓮本仏説は却って高祖の釈尊への強きご信仰に逆らう事になります。
高祖は「日蓮を用ひぬるとも悪く敬はば国亡ぶべし」<種種御振舞御所>、と仰せではありませんか。
C.彼らは師資(師弟)相承の口伝を重んじますが、それは高祖の主義に逆行します。
高祖のご信仰は、御妙判の処々に仰せのごとく、あくまでも経文を先として、金言(仏説)のごとく修行するという、経文為本(経証主義)を旨として釈尊の宗旨を仰ぐにあるのです。
D.彼らは寿量文底の観心を重視する余り、本門の教祖を全面的に否定する傾向にありますが、それは高祖のご本意ではなくて、本門の経意をもって真実の依文判義とすべきです。
なぜなら、本門が最高の教えであるからで、本門の経文のままで義理を判じて差しつかえないのです<十章抄>
E.彼らは文底、内証ということをあたかも秘密主義に解し、神秘的解釈を施していますが、高祖のご真意はそうではありません。
開目抄の「文底」とは、一念三千の元意が本門寿量品に存することですし、本尊抄の「我内証の寿量品」とは、本化の菩薩のために題目の法体を説くための寿量品のことです。
妙法を指して寿量品の肝心とは、法体の上からいうのです。
涌出・寿量に事顕わるとはこのことです<御義口伝>
F.彼らは日蓮本仏を立てて、所従が主人のお株を奪うような教義を立てますが、高祖の尊厳は法華経本門と本仏釈尊の権威を代行(名代)する仏使としての点にあるのです。
日蓮本仏義を称える彼らは、仏勅・法王の宣旨<如説修行抄>、御使<御振舞抄>などの御文を一体いかように理解しているのでしょう。
愚かにもあわれ、という他ありません。
同様なことが、下山抄の「教主釈尊より大事なる行者」御文の誤解にうかがえます。
この文は、滅後は無仏世であるから仏に代る行者なるが故に、仏のごとく敬うのであるという意味なのです。
つづく。。。
no.192 記入なし (06/05/06 12:20)
創価学会 つづき
G.彼らは、題目は「寿量文底秘沈の法」と主張しますが、実は寿量品では題目の法体が開顕されたので、事顕れてもその事(付属の大事)は未だおわらず、神力・□属累両品で事おわるので、結局のところ、滅後流通の人たる上行を召し(涌出品)、滅後流通の題目を説き(寿量品)、滅後流通の法を結んで付□属する(神力・□属累)、八品所顕上行所伝の妙法でなければならないのです。
故に本門八品こそ、題目弘通の教相として上行のために説かれた滅後流通の教えといえるのです。
H.彼らは方便・寿量の二品を読じゅし<月水御書、松野殿御書>題目を唱えて修行しますが、題目の行法に余事を雑えることは許されません。
その証拠は、佐後の御書たる四信五品抄に「専ら題目を持ちて余文を雑へず、尚一経の読じゅだも許さず」明示され、末代信者相応の修行は、御題目専一に唱えることで、御経を読んで口唱を第二とするような修行をしてはならない、といさめられているではありませんか。
I彼らは本尊の典拠を寿量文底の本因妙の妙法にありとしていますが、本尊抄ないし日女御前御返事に仰せのごとく、「如是本尊・・・但限八品」すなわち八品所顕上行所伝の妙法にあることは疑いありません。
また彼らは弘安二年(1279)10月12日の板本尊を閻浮惣与十界勧請の大本尊なりと強調しますが、大曼荼羅の実体は図顕三箇の中尊の南無○経(一遍首題)の五字七字であること、しかもその五字七字は単法非人格的理解(ひとえに法であり、人格的なものではない、理論的本体)ではなくて、本仏釈尊の魂魄であることをよくよく知らなければなりません。
J.池上・身延の二箇相承は、大石寺ではなく、北山の本門寺でむかし偽作されたもので、肝心の北山ではまったくの偽書だと言い切ってます。
関係のない大石寺が何故このようなものを振り回しているのでしょう。
no.193 記入なし (06/05/06 13:16)
宇宙を知ることは、
我を知ること?
no.194 記入なし (06/05/07 15:56)
キリスト教
〔歴史・教義〕
キリスト教はイスラエルの民族宗教「ユダヤ教」を母胎とし、イエス・キリスト(いずれもヘブライ語がギリシャ語化したもので、ともに「救世主」の意。紀元前7〜4年、べッレヘムの生れ。)を創始者として、1世紀ころ成立した。
彼は宇宙の創造者である全能の神エホバを父とし、マリアの処女懐胎によって生れたとされ、30歳ころユダヤ教の洗礼者ヨハネの
洗礼を受ける中で神の啓示を受けて伝道生活に入るが、当時のユダヤ教正統派の律法主義・形式主義を批判し、その「義」を偏重する教えを超えるものとして「神の愛」を強調。
また「神の国」が近づいており、改心して神の教えを信じ、神との契約を守るようにと主張。
ためにユダヤ教正統派の反感を買い、伝道生活わずか2年にして、ゴルダの丘で十字架刑に処せられる(この刑死によって全人類の罪があがなわれたのであり、わが子を人類の犠牲にさし出したところにこそ神の愛が示されているとされる。)
彼は死後3日目に復活し、その40日後に昇天したとされ、その後、彼の弟子や信者によって原始教団が成立、弾圧を受けながらもローマ帝国の国教となってヨーロッパ全域に広まった。
しかし、11世紀の半ば、主に聖像を礼拝することが偶像崇拝にあたるかどうかの論争から、聖画(イコン)のみ礼拝し、聖像の礼拝を否定する 東方正教会(ギリシャ政教、ロシア正教など)が、ローマのカトリック教会(西方教会)から分離。
さらに16世紀初めに西方教会に批判を加え、(@信仰による義認=信仰によってのみ義とされる。A聖書原理=カトリックでは神の啓示の通路を聖書と教会の2本立てとするのに対し、啓示の通路を聖書に限定。B万人司祭=カトリックがローマ教皇を頂点とする聖職の権威的階層制をとるのに対し、万人が司祭であるとする平等主義)て、プロテスタント教会(ルーテル教会と改革派教会)が台頭。
つづいて、全く政治的、世俗的理由から、英国国教会(聖公会)も16世紀半ばにローマに反抗して独立。
この英国国教会は後、次第に改革派の影響を受け、そこからピューリタン(清教徒)諸派(長老派、バプテスト派、クェ-カーなど)が出てくる。
つづく。。。
no.195 記入なし (06/05/07 15:57)
キリスト教 つづき
東方正教会と西方教会を旧教、プロテスタント教会の流れを新教というが、この三者をキリスト教の三大主流と呼ぶ。
なお昭和60年版「宗教年鑑」によれば、日本には文部大臣所轄の包括宗教法人として、旧教はカトリックと、ロシア正教のハリストス正教会の2教団、新教は42教団が登録されており、他に単立法人として、「世界基督教統一神霊協会」(原理運動)や、「ものみの塔聖書冊子協会」(エホバの証人)など多数教団があって、この世界基督統一神霊協会、エホバの証人と新教系の包括宗教法人である「末日聖徒イエス・キリスト教会」(モルモン教)の3つを、日本のキリスト教主流派では、「三大異端」と呼んで非難している。
なお、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三者はいわば親戚関係にあり、特に、唯一絶対神の提示(命令)基づき、神と人間との間に結ばれる「契約」の観念を中心とする点で同根・同系の宗教と言える。
またイエスは、キリスト教では「神の子」、
ユダヤ教では「ただの人(むしろ異端者)」、
イスラム教では「教祖マホメット以前に、絶対神アッラーから遣わされた聖書の中の預言者たちと同列の預言者の一人で、マホメットの直前に遣わされ、「コーラン」を示すという神の付託に失敗した者」ということになる。
キリスト教は、科学技術も含めた西欧文明の精神的基盤を形成してきたが、西欧科学文明の挫折と衰退が叫ばれる中で、西欧におけるキリスト教の従来の権威も失墜しつつある。
現在は新教・旧教を問わず、東洋の宗教(特に仏教)に学ぶことによって、宗教としての蘇生を指向しており、こうした傾向を概括して「キリスト教の東洋化」と叫ぶ。
no.196 記入なし (06/05/07 16:39)
キリスト教 つづき
〔折伏〕
@.キリスト教の神(エホバ=ゴッド)は全知全能の絶対神せあり、宇宙の一切を無から作り出した創造者で、人間とは全く異なる超絶対的存在だとされますが、ではなぜ、わざわざこんな不完全な人間を創り、手のこんだ操作を企てるのでしょう。
これがまず第一の素朴な疑問です。
またこのような、最初から原因もなくして実在する神など信じ難いことです。
事実「神の存在の証明」は、中世以来現代に至るまで、神学者の最大の課題となっています。
A.キリスト教は「愛の宗教」であり、この愛の精神おいて全ての宗教にすぐれると、神学者は説きますが、その神エホバは、元来ユダヤ教の神であり、その本質として激しい怒りと復讐の契約をもっています。
実際、聖書にはこの神の怒りに触れて滅んだ多くの都市の記述があります。
そしてさらに、その無差別の愛の背後には「最後の審判」という恐ろしい復讐がかくれています。
「その日(世界の終末の日)がくると、死者も再び肉体を受け(受肉)て、すべての人が神の裁きを受ける。
神との契約を完全に履行し、守った者は「神の国」に入ることを許され永久の幸福をうるが、そうでない者は永遠の地獄の劫火(ごうか)(へゲナの火)に焼き滅ぼされ、再び救われることはない。」、これが最後の審判です。
これでは無差別の愛どころか、【復讐の宗教】ではありませんか。
これに対して、仏教は「法(ダルマ)」=宇宙の道理、縁起の理法 の教えです。
創造神など認めません。
仏も創造神などではなく、この法(ダルマ)を体認し、法と一体となった人なのです。
したがって仏教とは、【仏の教え】であると同時に、人間が【仏になる教え】でもあるわけです。
また仏の本質は愛ではなく慈悲です。
そしてこの慈悲は法華経に至って地獄(極悪人)にまで及び、最終的には一切の衆生を救い尽す(成仏せしめる)ことが仏の存在目的であることが示されます。
所詮人間とは異なる超絶対者であるキリスト教の神と、人間の最も完成し、成熟した姿である仏との相違が、ここに如実にあらわれています。
不完全で、誤ちを犯さずには生きていけないお互いの現実の姿に即して見るとき、どちらがすぐれた教えでしょう。
no.197 記入なし (06/05/07 17:22)
キリスト教
B.宗教の性格には、やはり、その教祖の人格や生涯が否応なく反映されます。
イエスは、伝道わずか2年、30歳そこそこにして、 十字架ではりつけにされる というこの上ない悲惨な最後を遂げ、その後の歴史も宗教戦争の繰り返し − いわば、その当初以来「血ぬられた歴史」を形成しています。
これに対して歴史上の釈尊(ゴーダマ・ブッダ)は30歳ないし35歳で成道し、以後半世紀にわたって法を説き続け、80歳で入滅する際には、最後まで弟子に質問の有無を問い、涅槃と呼ばれるまことに安静な臨終の姿を示します。
その後の2千5百年の歴史の中でも、キリスト教に見られるような教義に基づく積極的な宗教戦争はありません。
人類の教師、人生の導師として、どちらが望ましいでしょう。
C.また「神よ、なぜ私を見捨て給うたか!」との悲痛な叫びを残して無残な刑死を遂げたイエスの姿と、竜の口の首の座の危難に会いながら、光り物の出現という現証により虎口を脱せられる高祖日蓮大師のお姿を比べるとき、信仰による救済力の違いを如実に知ることができます。
no.198 記入なし (06/05/07 17:55)
功徳=欲
なので仏教全般が良くない。それとカースト制度を採用しているみたい。
偉い人は上座で下っ端は襖側
キリすと教のほうが平等でよい。たぶん憲法は聖書の教えに近いので、日本は一応平等
になったのではないか!?
no.199 記入なし (06/05/07 18:10)